第6話 オムレツ

 土曜日はいつも昼近くまで惰眠を貪るのが俺の趣味だ。金曜日の夜から土曜日の午前までの時間ほど愛しているものはない。土曜日の夜は少し憂鬱で、日曜日の夜にサザエさんが終わったら俺は万年鬱になる。別に鬱病でも何でもないが、世のサラリーマンはだいたいこんな感じだろうと思っている。だから金曜日の夜くらい幸せでいたい。


 それなのに、昨日はよく眠れなかった。眠ったとは思うが、寝覚めが異常に悪い。何故か。わかり切っている。俺が自分の家で眠っていないからだ。ここは俺の部屋ではないからだ。


「俺はどうしてここにいるんだ?」


 上半身を起こしてしばらくぼんやりして、ここが自分の部屋ではないことを確認してから俺は呟いた。


「え、覚えてないんですか? 昨日一緒に飲んだじゃないですか」

「いやだから何で?」

「ビールたくさんあるから飲みに来ますかって言ったらそのまま来ただけじゃないですか」


 あまりよく覚えていない。とりあえずこの部屋が102号室の田中の部屋だということは、目の前の田中を見ればわかった。明るい太陽の中で見たら、やっぱり田中はイケメンだった。どうして彼女ができない?


「あ、山本さんて結構イケメンですね」


 イケメンだと言われたことは、あまりない。悪いと言われたこともない。


「田中さんもイケメンですね」


 言いたいことはこれじゃない。


「ありがとうございます。俺ほめられて伸びるタイプなんで、本心だと受け取っておきます」


 世界で一番幸せであるはずの金曜日の夜と土曜日の朝を、何故隣人の男と過ごさなければならないのか。別に友だちじゃあるまいし。だいたい一昨日初めて口を聞いたばかりなのに。


「…なんでそんなに絶望的な顔してんですか?」

「あまり希望の持てるシチュエーションじゃないから」

「そうかなあ。昨日いろいろ喋って楽しかったですけど?」


 楽しかっただろうか。俺はよく覚えていない。


「何喋ったっけ?」

「山本さんのモテ期が既に過ぎ去ったらしい話とか」


 全然面白くない。俺のモテ期が大学時代で終了した話とか、全然面白くないから。


「山本さんが彼女いない歴4年5ヶ月で、俺と同じっていう話とか。二人揃って同じ日に彼女と別れたとか偶然ですねえ」


 その話も全然面白くないから。全く同じ日に女と別れた偶然が何か意味があるみたいで物凄く嫌だ。


「何か意味でもあるんですかね、いっそ俺と山本さんが付き合っちゃえよってことですかね」


 それ違うから。ただの偶然はただの偶然でしかないから。意味とか後付けする必要全然ないから。そんな侘びしい話しかしてないのか俺たちは。


「あ、オムレツ食います?」

「うん。…え?」

「俺がオムレツ作るの上手いって言ったら食わせろって言ったじゃないですか」

「そうだっけ」

「そうですよ。学生時代に洋食屋のバイトで鍛えましたから。塩味強い方がいいですか、それとも甘いのがいいですか?」

「甘いオムレツなんてこの世界にあり得ない」

「あり得る人もいるんですよね、これが。じゃあ辛いの作りますから待っててください」

「はい…トイレ貸してください」

「どうぞ」


 トイレに入ってから気付いたが、俺が着ているスウェットは何だ。これは俺のではない。ということは、田中のものを借りたのか。何となく嫌な感じがする。


「あのー…」


 用を足してから、恐る恐る田中に聞いてみる。


「このスウェット、俺のじゃないですよね」

「俺のですよ。昨日貸したの忘れました?」


 バターの焦げる香りがしてきて、卵がフライパンに叩き付けられるジャーっという音が響いた。


「…スウェットまで借りちゃって、すいません…」

「いいですよ、スーツしわくちゃになるのめんどくさいじゃないですか」

「だから借りた、と」

「はい、貸しました。着替えるかって聞いたら、うんって言ったから…山本さん、健忘症?」

「いえ…はい…すいません…ありがとうございます…」


 やはりあまり覚えていない。どうして覚えていないのか、俺は。隣人の男の家に上がり込んで夜通し酒盛りして挙げ句の果てに着替えのスウェット借りて彼シャツならぬ彼スウェット状態か。何だか気が遠退くような感じがする。オムレツができる良い匂いが、かろうじて俺を現実に引き戻してくれる。腹が減った。ていうか、朝食までご馳走になる流れとかですかこれは。


「できましたよー。食パンないんでロールパンで我慢してください。コーヒー、インスタントですけど許してくださいね。ゴールドブレンドですけど」


 なんてこった、至れり尽せりじゃないか。彼スウェット状態で朝飯まで食べさせてくれるイケメン。しかも目の前に置かれたオムレツの美味そうなこと。なにこれプロですか。きらっきらの黄色いオムレツじゃないですか。


「冷めないうちにどうぞ。はい、お箸」

「あ、ありがとう…」


 余りにも美味そうなので遠慮なくぱくついたら、お袋のオムレツよりも数倍上だった。お母さん、ごめん。俺、今、オムレツ作るのが上手すぎる男に餌付けされてる。毎日このオムレツ食えるならこいつと結婚してもいい。俺ここで暮らしてもいい。中はちょうどいい程度の半熟具合で塩加減も俺の口にぴったりだった。なんですかこれ魔法ですか。オムレツ王子ですか。こんな男が隣に住んでるなんて、俺もうこのアパートから離れられない。今だったらこの男が他の女と結婚するのを全力で阻止できる自信がある。お願い誰とも結婚しないで。


「…そんなに美味しかったですか?」


 微妙に困ったような声がして、田中が俺の前にコーヒーを置いた。この香りはゴールドブレンドだ。俺も同じコーヒーだからわかる。さっき言ってたから間違いないけど。


「美味しいです」

「それは良かった。評判いいんですよね、誰か泊まりに来ると作ってやるんですけど」

「いやもう俺のためだけに作ってください」

「なんですかプロポーズですか。気が早い人だなあもう」


 軽く流すな。


「あれ? 俺だけ? 田中さん食べないの?…オムレツ」

「だから昨日言ったじゃないですか、あまり食欲ないって。パン半分くらいでいいや」


 そうだった。たった今思い出した。こいつは人の心が読める狼男だった。頭の中でいろんなことを端折ったが、結論はそれでいい。


「…やっぱり食欲ないんですか」

「まあ、普通の食欲はね」

「だから普通じゃない食欲ってなに」

「昨日話したこと、本当に覚えてないんですね。どうしてそんなに忘れるんですか。そんなに忘れたい記憶ですか」

「…微妙に忘れたかったから覚えてない」


 田中はコーヒーを啜って、「あちぃ」と声を上げた。


「じゃあ、またそのうち話しますよ。次回のオムレツのネタにでもして」

「いや意味わかんない、それ」

「美味しかったんでしょ、オムレツ」


 それはもう美味しかった。また食いたい。掛け値なしに美味だった。毎日このオムレツが食えるかもしれない田中の未来の妻は幸せだと思った。こいつが毎朝妻のためにオムレツを作り続けるかどうかはともかくとして。


 これはかなりヤバい。俺は一瞬で餌付けされてしまった。俺の舌はこんなにちょろかったのか。男として大切な何かを手放したような妙な気分がした。オムレツ一つで俺の舌など制することができるのだ。かなり情けない。


 その日俺は自宅に帰ってから、自分でオムレツを作ってみた。だが、無惨なスクランブルエッグになっただけで、味も大して良くなかった。田中のスウェットを洗濯機で回しながら、あんなオムレツを作る女と結婚したいと思った。いればの話だけど。


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