おうち時間が終わるまで玉子焼きを
鵠矢一臣
おうち時間が終わるまで玉子焼きを
だんだんと腕が錆びついてきている。
できあがった玉子焼きは、あの人が喜ぶ味に仕上がっているだろうか?
不安で仕方がない。
卓上コンロのツマミを「消」まで戻す。
予熱で火を通すのが最後のコツ。
専用の四角いフライパンに、白磁の皿を裏返しでかぶせ、手を添える。外れないよう押さえると、覚悟を決めて、「せーの」でひっくり返す。
フライパンを外すと、白いお皿の上で玉子焼きがぷるんと揺れた。
まるで、ふかふかのベッド。角に丸みを帯びた厚みのある四角形。つるんと滑らかで、温かみのある黄色い肌。ところどころに付いた茶色の模様から焼けた砂糖の甘やかな匂い。
ほわほわと漂っている蒸気を眺めていると、うっかり夢の世界に迷い込んでしまいそうになる。
いまの私と同じ、少しとろんとした出来栄えだ。
ほんとうは巻すだれで簀巻きにして整えると、きゅっと引き締まったカッコいい玉子焼きになる。
それは知っているけれど、すだれを一から用意するのは手間だし、なにより、私はちょっとだけ不格好な形に仕上げたいのだ。
初めて作った玉子焼きは、今日のと同じようにお皿に寝そべっていた。
「本当に大事なのは外見じゃないんだよ」
申し訳なくて俯いた私に、あの人はそう言ってくれたのだった。
もう一度あの人がそう言ってくれるのを、いつだって心待ちにしている。だからこの109,499枚目の玉子焼きも、気持ちよくリラックスしてもらったのだ。
味はどうだろうか?
51枚目のレシピと変えていないから、きっと問題ないはずだけれど……。
――ほっそりとした髪の長い女が玉子焼きの乗った皿を大事そうに両手でつかみ振り返った。
エプロンを着けたメイド服姿。顔の半分ほど、それと腕や手の大部分が溶けたように削げ落ち、赤茶色に錆びた金属の骨格が露わになっている。
向かう先にはダイニングテーブルと椅子。劣化してひび割れ、白く変色し、足に這っているツタが地面まで続く。
誰も座っていない椅子の前、日差しの差し込んでいる辺りに、彼女は玉子焼きを給仕した。
そして反対側の椅子へつくと、机に両手で頬杖をついて、鼻歌をうたう。
そのおうちの屋根には大きな穴。外壁もかなりの部分くずれ、風化して粉っぽくなったレンガをむき出しにしている。庭先にはキィキィと軋みながら回る風車と、表面が不透明になった太陽光パネル。
周辺は、木の根が隆起して捲れ上がった石畳。幹に苔むした立派な巨木。深い森だ。
『あの人』は、この星を人類の定住可能な環境へと変化させる、いわゆるテラフォーミングの、先遣隊のひとりであった。
彼女は、どんな過酷な環境下でも活動をサポートできる心強いパートナー。
人間が暮らすにはまだあまりにも厳しい世界だ。二人が心を深くかよわせるのに、そう時間はかからなかった。
仕込みを終え、あとは自然の力によって惑星内の環境が整うのを待つだけとなったある日のこと。彼は切り出した。
「なあ。母船には戻らず、ここで一緒に暮らさないか?」
彼女は嬉しくて仕方がないのに、「どうして?」と聞き返してしまう。理由じゃなく、好意を確かめたくて。
「もう僕のすべき事はすべて終わったんだ。
「でも、きっとすぐに、卵のストックはなくなってしまいますよ?」
未だ生物が自然に繁殖する状況にはない。いちおう数羽の鶏を飼ってはいるが、母船からの供給が途絶えれば飼育もままならない。食料の備蓄もみるみる内に減っていくだろう。
「いいさ。残念ではあるけど、その時は別なものを食べよう」
「一緒に母船に帰って、また戻ってくるのではダメなのですか?」
「僕が眠っている間に、君が君でなくなってしまうかもしれない」
母船には生産・メンテナンス施設がある。漸進的なアップデートぐらいなら自我に大きな影響はない。しかし数百年もの期間だ。型落ちとして資源に戻されてしまう可能性は高い。
彼女は考え込んだ後、目を潤ませながらこう答えた。
「私も、あなたに玉子焼きを食べてもらいたいです」
その夜。
彼女は、紅茶に混ぜた睡眠薬で彼を深い眠りにいざなった。冷凍睡眠に必要な処置を施し、カプセル型の装置に横たえる。
あまり意味のないことではあるが、ブランケットで丁寧に彼をくるんだ。
馬鹿馬鹿しいけれど、玉子焼きを焼く工程みたいで、なんとなく喜んでくれそうな気がしたのだ。
額と唇にキスをして、装置を起動する。
そうして彼女を残し、彼を載せた機体は母船へと飛び立っていった。
彼女は待つことにしたのだ。
卵がふんだんに手に入る環境が整うのを。
目覚めた彼が帰ってくるのを。
腕が落ちないように、卵のある日は必ず一枚、玉子焼きを作りながら。
おうちに差し込む柔らかな木漏れ日。
遠くに鳥の声。木々と小さな生き物たちのささやくような蠢き。
彼女の歌声――
(了)
おうち時間が終わるまで玉子焼きを 鵠矢一臣 @kuguiya_kazuomi
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