第1話

「だいぶ薄くなってきたね……」

 和美がクローゼットから取り出した半纏はんてんはすっかり色落ちをしていた。

 手にしたそれを眺めポツリと呟く。

 灯油ストーブで熱せられたヤカンが甲高い音で蒸気を噴き出し和美の言葉を掻き消した。


 一人言なのか、はたまた俺に聞かせたいのか、どちらとも取れるというのは厄介だ。

 返事を返すことなく時計を確認すると

 出掛ける時間が迫まっていた。

差し出してきた半纏を黙って受け取ると支倉はせくら造園の刺繍が施された藍色に袖を通す。

 その瞬間庭師には不似合いなフローラルの香りが鼻を刺激した。和美が好んで使う柔軟剤なのは知ってはいるが俺はこの匂いが苦手だった。


 わざわざ気を遣わなくてもいいと言っているのに――


 代々支倉造園の半纏は、長年の付き合いがある京都の染物屋で本染め一色と決められていた。

 まだ小僧の頃に初めて袖を通したときは庭師としての迫力もなく威厳もなくただ不格好だった。

 新品当時は濃紺一色に染まり染料の匂いを放っていた青臭かったこの半纏も、月日と共に色落ちが進み苦労してきたぶん毛羽立っている。

 使い古された風合いは庭師としての力量を証明する証しだと自分では思っていた。少なくとも悪いものではないと考えていたのだが、そんなちっぽけな自負心プライドは世間様には通じないことも多々あった。

 施主に着替えてこいと理不尽な暴言を吐かれたこともある。



「確かに伝統って大事だし、背負ってきたものをないがしろにしていいなんて思わない。それが施主さんに信頼感を与えることもあるかもしれない。だけどね、今はそれほど職人気質にこだわるお客は多くないと思うの。こう言っちゃ和夫はまた怒るかもしれないけど、どれだけ安く手早くやってくれるかで造園会社は選ばれるんだから。庭師の見た目を気にしているお客さんはほんの僅かだと思うよ」



 気づけば七年間も同棲を続けている相澤和美からはことあるごとに新品に変えろと頻繁に指摘されている。

 現にクローゼットの中には真新しい半纏が吊るされている。それは染物に見せかけた安物の既製品だ。


 支倉造園は会社とはいえ一人で細々と続けている零細企業で、かつては地元でも名の知れた造園会社だったが今では閑古鳥が鳴く日々だった。

 その状況を特に気にもしてない俺に和美はことあるごとに口を出してくるが、言われた通りに変えるつもりもないし、他人にどう見られるかなんて気にもしていなかった。

 たまに吐かれる暴言に耳を塞いでさえいれば問題なかった。


「ねぇ、いつまでこの仕事続けられると思うの?」

 弁当を手にそう詰め寄られるとなにも答えられなかった。

 仕事の依頼が途絶えたときが辞め時なのだろうが、いざ辞めたときの自分の姿が想像できない。

 ここで下手なことをいえばまた喧嘩になるだけなので、出発の時間が差し迫ってることもあり結局こちらが折れることにした。

 仕事前からすっかり疲弊してしまった。


 姿見を見るといつもの覇気がないやつれた男がこちらを見返していた。

 確かにこれでは小言も言いたくなるか――


「どうしたの?」

「いや、なんでもない」


 ものの数分で身支度を整えると、部屋の隅に置かれた小さな仏壇にいつものように手を合わせ、笑顔の父の遺影に向い手を合わせる。

 すると背中に和美の気まずそうな視線が刺さるのを感じた。


 ――また、あの事を気にしているのだろうか。


 和美のせいではないあの流産を、本人はいつまでも引き摺っている。人の姿をかたどる前に不幸にも流れてしまった子供は写真もなければ性別すら判らずじまいだった。

 ただ、その責任は俺にも――いや、俺にというのに、子供を亡くした重石を俺には決して負わせようとしないその強すぎる責任感が勘に触っていた。

 一度は結婚するつもりでいた。ただそこまで頼りにされないのかと思うと、それが長年同棲のままで籍を入れない理由になっていた。

 恐らくこの状況が変わることはないと思う。変わるとしたら――それはこの関係が終わりを迎えるときだと感じていた。


 そんな己の器の小ささに辟易しながら、松ヤニとシュロ縄の染料で染まった指先を眺める。

 この手から滑り落ちていったあるべきはずの幸せ――これも俺の血がなす業なのか。



 重い空気を変えるように話題を振ってきた。

「向こうは平地より積雪があるだろうから雪道には気を付けてね。最近はスリップ事故が増えてるってニュースで言ってたから」

「わかってる。向こうの事情は嫌ってほどよく知ってるからな。俺がいない間は戸締まりだけしっかりしておけよ」

「うん。あの、和夫」

「なんだ」

「ううん……じゃあ気を付けて行ってらっしゃい」


 出掛けようとした俺を引き留めるよう半纏の裾を掴む和美にイライラさせられたが、それ以上話を続けることはなかった。

 話は続けなくてもわかる。どうせ不妊治療のことだろう。流産を経験してから和美は妊娠に執着するようになった。ただ費用がバカにならない。その影響もあるのだろう少しでも効率よく働いてもらうために口煩く言ってるのが目に見えていた。

 冗談じゃない――俺は、もう子供なんて欲しくないんだ。


「ああ。行ってくる」


 和美から弁当と水筒を受けとり錆び付く階段を降りてサンバーの助手席に手荷物を放り投げる。

 運転席に乗り込み、雪がちらつく灰色の空を眺めるとこれからまだ天候は悪化しそうだった。これ以上雪が酷くならなければいいが――

 ギアをドライブに入れアクセルを踏むと、バックミラーに写る和美の姿が少しずつ小さくなっていく。

 助手席に投げ置かれた弁当がコトリと倒れた音がした。

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