血と花椿
きょんきょん
序章
生と死が混じり合う丑三つ刻――
何処かで心淋しく鳴いている
暗闇に潜む人
通りすぎてゆく悪鬼のような背中を、恐る恐る見送っていた。
涎を撒き散らしながら走り抜けるその姿は、旅人を襲っては喰ってしまう山の物怪そのものだった。
いつの頃からか、そう呼ばれていた椿山。
山間部には古くより行商人の中継地点として栄えた宿場町が存在した。
その一角に村一番の富豪と称されていた行商人の屋敷が、麓の村を見下ろすように建っていた。
行灯の灯は落とされ、火鉢の温もりも、とうに失われている。肌を刺す冷気と静寂が、屋敷全体を満たしていた。
いつもと変わらぬ夜。じきに夜が明け、稜線から黄金色の朝焼けを迎え、また新しい一日を迎える、はずだったが――
けたたましい騒音が静寂を斬り裂いた。
乱暴に開かれた戸から侵入してきたのは、異様に目が血走っている男。
抜き身の
勝手知ったる間取りを、手にした鈍色に光る刃を振り回し、獣のように唸り声をあげながら目を覚ました奉公人達を、目にした順に次々と殺害していく。
躊躇いもせず、命を刈り取っていき、瞬く間に躯の山を築いていった。
幸運な者は命からがら外へと逃げ出すことができたが、殆どの者は断末魔を耳にしながら念仏を唱え、ただ震えて死を待つしかなかった。
男がまた一人、逃げ惑う背中に刃を突き刺したとき、震える手で日本刀を握りしめながら現れた当主が自らの屋敷で起こった惨劇を目にし、言葉を失っていた。
まるで、地獄の獄卒のように返り血で全身を真っ赤に染めた男が、引き攣った笑顔でゆっくりと振り返る。
「栄吉……お前……なにをしてるんだ」
「なに? はは、なんだろうねぇ」
「気でも触れたか! この大馬鹿者が!」
「は、はは、ははは!」
――愚かな放蕩息子だったが、虫の一匹も殺せない、根は優しい人間だったはず。
老いた父母は、なにが起こったのか理解する隙もなく、息子が振るった刃の餌食となり呆気なく血の池の底で事切れた。
「ははははははは!」
当主亡き後、物陰に隠れていた者も、隙をついて逃げようとした者も、栄吉の手にかかり短い断末魔を残し、血溜りに倒れていく。
奉公人も含め、十数人の息の根を止めたところで、屋敷に残る生者はとうとう二人にまで数を減らしていた。
「どこだぁい。出ておいでぇ」
猫撫で声で二人に呼び掛ける栄吉は、二人が、妻と娘が隠れていそうな場所を、手当たり次第に探し始める。
見つかってしまえば終わりのかくれんぼを、押入れの僅かな隙間から惨劇の一部始終を目にしていた女は、両手で幼い一人娘を抱きかかえて救いを求めていた。
夫の声に怯え、今にも泣き出してしまいそうな娘を懸命にあやす。
「母さま、こわいよぉ」
「すまないねぇお吉……辛抱しておくれ」
仏に愛娘の無事を祈り続けていると、願いがようやく通じたのか、栄吉は興味を無くしたように、その部屋を離れようと背中を向けた。
――良かった……助かった。
極度の緊張感から開放され、ほっと胸を撫で下ろす。しかし、過度な緊張で張り詰めていた糸が切ってしまったことで心で隙が生まれたせいか、足元の床が軋む音が、蜘蛛の糸を伝うように屋敷全体に響いてしまった。
その音に部屋から去ろうとしてた栄吉の足が、ピタリと止まる。
「なんだぁ?」
ゆっくりと二人が隠れている押入れに視線を向ける。
一歩一歩、獲物を追い詰めるように、じりじりと近寄ってくる。
このままでは助からない、そう判断した女は、娘の手を取り脱兎の如く逃げ出したが、虚を疲れた栄吉も、逃げる背中に絡みつくような視線を這わせると、奇声をあげながら背後から追いかけてきた。
――この子だけは、何としても助けてあげなくては。
仏も役に立たない。襦袢の裾を乱しながらも懸命に屋敷の外へ逃げ出そうと駆けたが、それでも運命は親子に手を差し伸べることはなかった。
女は冬咲きの椿咲く庭へ、転がるように逃げる。その際に娘の手を離してしまったことに気が付き、雪が降り積もった庭に倒れた直後、顔を上げると――
「お吉っ!」
栄吉に馬乗りになられた娘が、まだ小さな背中に、無慈悲にも刃を突き立てられる光景を目にしてしまった。
こちらを辛うじて見つめる娘の目から、光がみるみるうちに失われ、涙の跡だけが月明かりに照らされていた。
「なんで、なんで、こんなことを……」
「わかってくれ、俺はお前を愛していただけなんだ」
理性の
娘を殺され、逃げることにも、生きることにも絶望した女の足は地面に根っこが伸びたように動じなくなっていた。
死への恐怖はない。その代わりに、娘の、お吉の将来を理不尽に奪い去った男にありったけの憎しみをこめて呪詛を放ってやった。
憎い憎い憎い――
「あんたは絶対に許さない。あたしが死んでも、あの世から呪い続けてやる。あんただけじゃない、あんたも、あんたの子孫も、あんたの血が続く限り、アタシの呪いは永遠に消えやしないよ」
栄吉は、愛した女が放ったその言葉に一瞬たじろいだものの、脂で
何度も、何度も、何度も、何度も――
翌朝、やけに静かな屋敷を不振に思った近隣の住民が訪れたことで、この事件は発覚した。
この世のものとは思えない地獄絵図に、第一発見者はその場で気を失ったという。
どの遺体も損傷が激しく、誰が誰だか判別することが不可能だった。
唯一の生存者の男は極刑に処されたが、最後の最後まで凶行の原因を話すことはなく、また、現場から姿を消していた女の居場所も、とうとう告げることはなかった。
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