あの子のおうち時間
来冬 邦子
あの子のおうち時間
今日は久しぶりの出社日だ。ここしばらくリモートワークが続いたので、朝の満員電車がつらいこと、つらいこと。すっかり体がなまってしまった。アリとか人間とかって密集してると恐いよな。
「
オフィスに入った途端、課長に腕を取られて会議室に連れ込まれた。
「実に言いにくいんだが。あ、坐ってくれ」
俺と二歳しか年の違わない課長は羨ましいくらいのイケメンで、ポケットから出したブランドのハンカチで額の汗をぬぐう。
「なんでしょうか。俺、なんかミスしましたか?」
こっちはこっちで心当たりがないわけではなくなくないので、額に汗が噴き出す。俺のハンカチはイオンで買った150円均一だ。
「いや、そういうわけじゃないんだ」
「え? そしたら転勤ですか?」
「いやいや、ちがうんだ」
男二人が汗をぬぐいながらテーブル越しに見つめ合う構図ってなんだろう。
「実はその、君のところの同居人さんのことでね、クレームがあって」
課長は気まずそうに視線を膝に落とす。
「え? 同居人ですか? 俺の?」
「ああ、そうなんだ」
「待ってくださいよ。あのですね――」
課長は俺の反論を手で制したが、その手が震えている。俺は言い返すのが気の毒になった。
「家永君にも言い分があるのはよく分かるよ。ただ僕も立場があるのでね。取り敢えず、こちらの話を全部聞いてくれないか?」
「ええ、もちろんです」
「ありがとう」
課長はブランドのハンカチで目尻の涙をぬぐった。
「実はね」
この人は、実は、が多いな。いったい何を言われるんだ。
「Web会議のとき、君の同居人さんがチラチラ見えるんだよね」
「ええっ? まさか!」
「もちろん悪気じゃないんだろう。ただね、ちょっと度が過ぎるというかね」
「度が過ぎる?」
「最初はほら、君の後ろを通り過ぎるだけだったからね。正直、あのネグリジェだけは勘弁して欲しいが、その時点では誰も文句は言わなかったよ」
「待って下さい。俺の、後ろ、ですか?」
心臓の動悸がいきなり速度を上げた。
「うん。それが最近は君の肩越しにこちらを見るって言うか、じい~と睨むというか」
いつの間にか汗が引いていた。背筋が寒い。
「昨日なんか、後ろから君の肩に抱きついてたろう?」
「嘘だ!!!」
俺はパイプ椅子をひっくり返して立ち上がった。
「なんでそんな、おかしなことを言うんですか!」
いくら止めようとしても体の震えが止まらない。
「どうしたんだよ。落ち着けよ」
課長があきれ顔で俺の腕を取ろうとしたが、俺は思いきり振り払った。
「俺はいつも壁を背もたれにして仕事してるんですよ! 後ろを通れるわけがないんですよ!」
「え? そうなの?」
イケメン課長が目を丸くする。
「だいたい、俺に同居人なんかいませんよ!」
「そんなバカな! うちのチームの全員が見てるんだぞ」
「イヤだー!!!」
絶叫した俺はオフィスを飛び出した。
俺の借りたワンルームマンションは事故物件だった。
最初はためらったが、なにしろ都心にしては素晴らしく安いし、北向きで昼間から薄暗いが、どうせほとんど寝に帰るだけだからと契約してしまった。くわえて俺には霊感というやつが全くないんだ。案の定、あの部屋に住み始めてから、おかしなことは何一つ起きていなかった。
オフィスを飛び出した俺はまっすぐにマンションを紹介した不動産屋に行った。
「俺の借りた部屋のことなんだけど」
担当者の角刈りオヤジを捕まえて、切り口上で尋ねた。
「教えてくださいよ! あの部屋で何があったんですか?」
「やっぱり聞きたくなりましたか」
オヤジはため息をついた。
「真っ昼間から出るけど
「そういう問題じゃないだろ!」
「でもねえ、お客さんとは相性がいいと思ったんですよお」
「相性ってなんだよ! 嬉しくないよ!」
「いやね、全く気づかないで平和に住み続ける人も、なかにはいますからね」
「俺だって、今日まで全然気づかなかったよ!」
「それなら、どうしてわかったんですか?」
「カメラに映ったんだよ! 俺以外は全員が見たんだよ!」
「リモートワークってやつですね?」
「そうだよ。どうしてくれるんだよ!」
「やれやれ。コロナさえ無けりゃあなあ」
オヤジはしみじみと言った。
「なんでもコロナのせいにするなよ!」
「だってそうじゃないですか」
角刈りオヤジが哀しげに、ふっと笑った。
「コロナさえ無かったら、あの子のおうち時間を邪魔しないで済んだのに」
<了>
あの子のおうち時間 来冬 邦子 @pippiteepa
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