seventy-seven


 私は杖を掲げて、男の動作の機微を見つめた。


 男がまた珠を放る。エイミーに致命傷を負わすためだと思った。その投げた珠が宙に浮かび上がった瞬間に、唱えた。


『――テ・セルフラ』


 エイミーに向かいかけていた鉛玉は途中で止まり、ぱたりと落ちる。男はまた不機嫌に目を細めた。即席の魔法は成功した。


 私は頻りに魔法を撃って、目玉を狙う。男はその間にエイミーのことを狙うが、無効化されるので結局は直接私を狙うようになった。私は目玉を潰すのと、男を狙うのを同時に繰り返し、またエイミーの手助けをするため、そして男に致命傷を与えてやるために、徐々に舞台へと足を進めていく。


 その度に男の代わりに私の魔法を受けた死体がごとんと転がり落ちる。その落下音と雷の轟音が交互に、オーケストラの会場を揺らしている。本当なら優美な音楽が奏でられたはずの空間に、戦禍の雑音が轟き続けていた。


「心が痛まないかね。死体に鞭打って」


 男はいまのところ、鉄やなにかの石に付加魔法を掛けるのみで、爆発的なものや私のような魔法を使っていない。魔法には向き不向きがある。彼はエイミーと同様、付加魔法向きの魔法使いなのではないか。あるいは「研究」とやらで魔力の大半を使ってしまった。リタは治癒魔法がどうこうと言っていたが、彼がそれを使うことはないだろう。私は一撃で仕留める気でいた。治す時間など与えない。


「私が死んだあと、誰かが同じように私の死体に鞭を打てばいい」

「ほう? 同じ侵害を行えば、それで禊になると思うのか」


「いや、」魔法を撃つ。「あなたと議論する気がなくて、適当を言っただけ」


 男の自尊心が歪んで表情を覆う。小娘が馬鹿にしやがってと言いたげな表情が見えた。


 ――そう、もう見えるところまで来ていた。近距離の白兵戦に彼の魔法は効力が薄い。私は深く無に近い集中に落ちた。男の端正な顔が、私の瞳を捉えてたじろぐ。私の瞳は、日の光の下でも深く黒い。豪奢な劇場の下でも同じだ。そこからなにを感じ取ったのかは知らないが、しかし彼から余裕の態度は消え失せた。


『――千里の果てまで雷鳴を轟かせよ』


 単なる魔法で、抽象詠唱を行ったことはなかった。いままでとは比にならない、千の雷を束ねた一撃で、こいつの心臓を貫く。

『ル・ダント・レ――』


 男が魔法を唱える。また死体を引き上げるのだと思った。でもそんなものではこの魔法は防げない。そう思った。しかし私の口元は、ほんの一瞬だけ固まる。男が引き上げてきたのは、リタの骸だった。口からこぼれる血で顔を汚し、きらびやかな血色が消え失せ、血は、まだ心臓から少しずつ流れている。男は浮いたリタの髪を鷲掴みにし、その後ろから私を見た。ぼたぼたと血が床に落ちる。その床は既に血液で塗れていたので、リタのそれは誰かのものと混ざり合い、単なる赤い液体となっていた。


「撃てるかね、君の友人だろう」


 ――リタ、いい子だった。


 彼女は姫やシモーネや私とも当然違ったし、エイミーとも違った。放っておけば、なにもしなければ幸せで過不足ない生活を送れる人だった。だが彼女は彼女自身でそれをぶち壊し、不安定な環境で不安定な人々を救うことを選んだ。気丈で、健気で、聡明で、可愛らしい、私の新しい、好いてあげられる後輩だった。


 だが、もう死んでいた。


『――ル・ダント・レス・ミル』


 男は私が詠唱をやめないと気付いた途端、死体にしたリタを放り出し逃げようとしたが、しかし草原さえ焼き付くす連続の雷鳴に、為す術はなかった。


 轟音が鳴る。瞬時に視界が眩しく染まる。残響。耳鳴り。もはや死体も残らなかった。死体の山も、リタの死体も、高温で焼かれた上吹き飛んだから、何も残らなかった。舞台は私の魔法で跡形もなく消え、向こう側の壁は崩壊し薄暗い昼の外が見えていた。


「……撃つよ、そりゃ」


 呆然とその惨状を見ながら、私は死んだ男に返事をした。


 リタは死体の中には、いないのだから。リタはただ、私の過去にいる――過去に……人々の思い出の中に――、そう思って、はたと気が付いた。


 心臓が止まるような感覚に落ちる。


 いや、いない。


 リタは過去にはいなかった。リタはなんと言っていた? 時間の概念が消え失せたと。私はもう、リタのことをさっきまで一緒にいた女の子だと思えないことに気が付いた。リタとは数十年一緒にいた気もしたし、さっき突然現れたような気もした。未来で出会う気さえした。いや、あるいは未来で会っていた。彼女はもう、私の中にぼんやりと記憶に残るのみで、実在に足る重みを持ち合わせていなかった。


 時間の概念が消えた、彼女が禁呪で受けた罰は、私にまで、影響を及ぼしたのだ。連続し、可塑性を持たないはずの時間という概念が消えれば、彼女は過去にはいなくなる。リタの受けた禁呪の制裁が、私が彼女の死体を吹き飛ばしたということを正当化する手段を奪い去っていった。


 耳鳴りが強くなる。空間に残った雷撃の残滓が、髪の毛先を浮き立たせる。私の魔法が吹き飛ばした世界を見る。


 私はリタを、どこにもない存在にしてしまったのだ。

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