seventy-six
私は、もはや息を継がなくなったリタの身体を優しく撫でていた。彼女の語った、幸せを探すという夢、そしてその形を知るという過程。そういう世界の在り方の、検証がこの子にはできた。
「斎藤菜月、椅子の裏にいたとしても、私には君が見えているよ。余所見していていいのかね、またいつ私の鉛玉が――」
男の凜然とした声が舞台から会場に響く。私は彼の方を見もせず、杖を自分の肩に乗せ、男にその先を向けた。
『――ル・ダント』
激しい電流が舞台に向けて迸る轟音を奏でた。男の悲鳴は聞こえない。その代わり、近くにあった椅子の死体が彼の元に引き寄せられ、それが男に向けられた電撃を代わりに受け止めたのが見えた。その死体がばたりと床に、酷い音を立てて落ちると、男は整った顔を引き攣らせた。
「……貴様、いま、何をした」
自尊心の歪む表情。一世一代の告白が退けられた男に似た惨めな顔だった。
「魔法を撃った」
リタの頭を最後に撫で、手に付いた彼女の血を自分の頬で拭った。
「だが、見ていなかった!」
「聞け、腐れ指揮者。研究だかなんだか知らないけど」杖を構える。「私には最初からそれができるんだ」
『――ル・ダント』
男にまた電気の青白い光が走る。男はまた死体を魔法で引き上げ、自らの身体を覆った。屑のやりそうなことだと思った。だが違う。そうじゃない。私の狙いはお前じゃない。
『ル・デウ・ダント』
耳朶を切り裂く轟音、無数の雷が幾千も会場の空気を裂いて走った。オーケストラの最後、全ての楽器が同時に音を鳴らし会場全てを揺らすあの音。足先から脳髄に至るまで痺れるような感覚がして、身震いした。
焦げ付いたにおいが届く頃には、指揮者であり魔法使いでもある男の顔は、悄然としていた。
無数の雷鳴は男に向かわず、壁や天井の一面に突き刺さったのだ。彼の「研究」は、それによって半数以上が使い物にならない消し炭と化した。
その隙を突いて、エイミーが銃弾を二発撃つ。男はまた死体を盾にするかと思ったが、違った。銃弾は目にも止まらぬ速さで彼を狙う途中で、不意に急停止したのだ。そこに力が生じるのと、目玉のいくつかが銃弾に視線を注いでいたのを見て、私はすぐにエイミーに叫んだ。
「椅子の裏に!」
エイミーも状況を理解していた。魔法を付与された弾丸が静止し、また同じ速度でこちらへ飛んでくる。さらにそこになにか付与されている可能性も否めない。二発の銃弾は、一方はエイミーの方に、一方は私の方へと飛ぶ。目がいくつもあるからできる芸当だ。
『ティ・二ルーグ・ラシュ』
目くらましは効いた。所詮目だ。銃弾のからんと落ちる音が空間に寂しげに響く。椅子の裏を這って、エイミーが近づいてくる。
「どうしましょう。戦うべきですか。力の差に歴然としたものを感じます。無傷じゃ帰れませんよ。リタさんのおっしゃる通り、敵わないのかも」
「少なくとも、エイミーの飛び道具じゃ反射して返ってくるから、使い物にならない。だからとただ逃げ帰るのも……リタを……彼女が、もう死んでたとしても、ここには置いていけない。それにあんな虐殺者を放っておけない。あと何度も雷撃を繰り返せば目は潰せる。でも次は対策されるかも」
男は珠を宙に放る。それに魔法が掛けられて、何度も飛んでくる。先にある程度潰しておいたおかげで、天井からもここは死角になっている。
「エイミー、私が気の逸らすあいだに、なんとか、あの反射の魔法の呪文を覚えてきてほしい」
「なんとかやりますが、でも音が分かっても文字が分からなければ――」
「大丈夫、なんとかする」
魔法はその発音と特殊な文字を、同時に覚えなければならない。しかしこの数ヶ月、忙しい間にも魔法典でたくさんの魔法を覚えてきた。そこにある羅列の特徴も仕組みも、なんとなく分かっているはずだった。その音と文字さえ一致すれば、撃てる。
「――分かりました」
エイミーは椅子の裏に身を隠したまま、舞台の方へ向かっていく。
椅子の裏から立ち上がり、杖をかざす。男は珠を放った。
『ル・デウ・ダント』
また幾ばくもの電流が、鈍い音を立てて秩序のない閃光を撒き散らした。オーケストラ用に建てられた空間で、鈍い光の音が反響する。だがやはり対処された。死体が空中に吊り上げられ、ぶらんと目玉の前で立ち塞がる。電撃の先で衣服に火がつき、たちまち炎の塊と化す。私が死体を燃やした。
――あの男は、こうして死体を盾として使うために、ここの人々を皆殺しにしたのか。奥歯を食いしばる。魔法使いならそこを狙ってくることが分かって、そうしたのだ。
「……馬鹿めが」
男の目が、私から逸れる。男が見当も付かない方向に珠を弾く。そしてそれがエイミーの方へ向けられてると知った瞬間、身の毛がよだった。気付かれていないと思っていたエイミーが、彼に近距離で銃弾を放つ。男の口元が動く。エイミーがしてやったりと微笑んだ瞬間、彼女は膝から下の勢いを失って、転がるように倒れた。
「エイミー!」
脚からの流血が見える。反射された銃弾は幸いにもエイミーの致命傷となる位置を逸れたが、しかし脚を貫いていた。
エイミーの名を呼ぶと、彼女は叫んだ。
「魔法の音は『テ・セルフラ』です……!」
決死の叫びだった。エイミーのところへ駆け寄りたい。でも無理だ。そんなことをしたら私まで的だ。横にはリタの死体があった。昨日はあんなに饒舌に物事を、思い出を語った彼女の口は固まっている。
私は彼女の貫かれた胸元に手を置く。その、血を指に塗り付けて、床に文字を書いた。それほど長くない詠唱だ。いまこの瞬間、この魔法を覚えればいい。頭がフル回転する。いままで覚えてきた魔法の文字を思い出す。それを組み合わせれば同じ魔法が使えるはずだ。床にリタの血文字を書いて、その形状を記憶する。
これで撃てなきゃ、それはもう最期だ。
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