seventy-five
私たちは朝食を掻き込むとすぐにホテルを出た。楽団の演奏会は街から少し離れた領土の端っこで行われる。夕方から始まるが、馬車を捕まえてもなお数時間の距離だった。
エイミーは落ち着いており、リタはかえって興奮気味だった。私は胸にくすぶる不安を押し付けるのに忙しい。
「シモーネさん、いるかなあ」
リタが言う。私はエイミーの顔色を伺ってから、リタを見た。
「いて欲しいの?」
「菜月ちゃんも会いたいでしょ? あの人が菜月ちゃんのことをみんなに教えてくれたんだよ」
俯いた。会いたいかと言われると、よく分からない。ただ私は彼女に身の潔白を証明して欲しかった。実は父親なんか殺してはいないこと。竜巣の事件は濡れ衣だということ。私のことを変に流布していないこと。そして、これからもただの女の子として生きてくれることを、ただ祈っている。
「いい迷惑だよ、そんなの」
「そう?」
エイミーが私の顔色を窺うように、見つめる。前髪の隙間から、青く愛らしい瞳が覗いていた。――音楽を聴いて、それで帰れたらいいのだ。
馬車は中途で幾度か休憩を挟みながら、やがてコンサートホールに辿り着いた。辺りはほとんど草原だった。こういうのは街のど真ん中にあるものだと思っていたが、近辺の街から数本の舗装された道路が繋がるだけで、住居などの建築物はひとつもない。
「こんな静かなところに建ってるんだ」
「外で聴こうとする人がいるんだよ。街の真ん中にあると混雑する」
なるほど。リタの説明に納得する。
だが、そういうことなら――あと数十分で公演が始まるこのホールの周りには、人がいないとおかしい。なのに周辺には人っ気がまるでなかった。
「……静かですね」
エイミーもそう感じたのか、怪訝に眉を顰めて言う。
「どっかで規制でも張られてるのかな」
「なら私たちも止められてないとおかしいね」
「とりあえず、入るか」
「入れてもらえますかね」
「あとで考えよう」
リタが揚々と私とエイミーを先行して、会場の扉へと向かっていく。重くて荘厳な扉を開くと、すぐ目の前に階段があって、その先にまた扉があった。チケットカウンターに人がいないのを、私はすぐに認めた。
「ねえ、日付って今日で合ってるよね」
「……間違いないはずですが」
辺りはやはりしんと静まり返っている。リタもさすがに表情を硬くした。疑念に駆られている。階段を上がる足が感覚を持たない。
階段の先に辿り着き、リタがまた最初にゆっくりと扉を開く。この先には無数の観賞用のシートがあり、それに囲まれるようにして舞台があり、その上には王国の楽団が所狭しと並んで、調律に勤しんでいる――はずだった。
扉を開きかけ、中を覗き込んだリタの動きがぴたりと止まる。
「リタ?」
「――菜月ちゃん」
彼女は唖然としていた。私は彼女の手の上から扉の取っ手を握り、強く押して扉を開けた。
そして、声も上げられなかった。音がないのも当然だった。そこには確かに数多の人々がいたが、彼らは例外なく項垂れ、胸やら口やら、足やら様々なところから鈍い色の血を流し、衣服を染めていた。通路や階段の途中で倒れ込んで息絶えている人、座っているが目を剥いて死んでいる人、どこにいようが、一様に生命を失っているのが、この高い位置から望めた。爛々と輝くシャンデリアは、この場に至っては恐ろしかった。
私の目は舞台に向く。十数メートル先の舞台を見下ろす。そこには死屍累々が呆然と積まれて山となり、舞台の磨かれた床を鈍い紅で染め尽くしていた。
そして、私は唯一の生存者を見た。屍の山の上で、足を組み座る若い男だ。私の口は無意識に魔法を唱えようとしていた。あれがこれをやった人間じゃなければ、誰がやったのだ。
だが口はリタの手に押さえつけられる。
「菜月ちゃん、ダメ」
「これ、あいつが――」
「――敵わない」
「は?」
「あいつを知ってる。楽団の指揮者の、若い方だ」
あれが――。
老獪の指揮者と地位争いをし、自殺した夫婦の原因となった指揮者。
男は若く、綺麗に切りそろえた金髪に、整った顔立ちをしていた。長身でタキシードを着こなす、優雅な若い男だった。
「同時に、治癒魔法も使えるくそエリートだ。私たちには勝てない」
「……逃げるの?」
「いや、」
リタは言い淀み、そして口角を上げた。
「菜月ちゃん」
「なに」
「私がどんな姿になっても嫌わないで」
「なに言ってるの」
『――一切の可能性を顕現せよ、ティーツェ』
リタがなにかを言った瞬間、覚えのある感覚に身を包まれた。私はこれを、王国ギルドからの刺客に襲われた日に知った。壮大な魔法が現象する時の、空気の停滞だ。
それはほんの一瞬だった。リタは唱える前とはなにも変わらない様子で、呆れたように笑っていた。
「はは、菜月ちゃん、私たち死ぬわ」
「なにをしたの」
男が動いた。反射的に杖を男に向ける。男は口元を動かした。また空気が淀む。しかしリタが唱える時よりもずっと、そう、台風の及ぶ前のような、暗い停滞だった。
それが通り過ぎた瞬間、身の毛がよだつ。壁や天井の一面、白く塗り潰されていたそこに、人の大きさ程もある黄色い目玉が、無数に現れた。猫の瞳のように虹彩の大きい目玉が、すべて私たちを睨み付けている。気味の悪さに鳥肌が立ち、その上なにが起こるのかを考えると恐ろしかった。
「斎藤菜月!」
舞台の上から、そして屍の山の上から、男が叫ぶ。
「これが僕の研究の成果さ!」
ふざけるな。だからなんだと言うのだ。私は彼を睨み付けながら、リタにまた問うた。
「リタ、さっきのはなに」
リタは壁の目玉を引きつった笑みで見つめながら答える。
「未来を見た。時間の魔法で、私たちの生き残る未来を探した。けどダメそう。為す術なし、ってやつかも」
……時間の魔法? 私はいつぞやの、エイミーの話を思い出していた。生死に関わる魔法と時間に関わる魔法は、神のものだから――。
「……禁呪を使ったの?」
「ば、罰は」
私とエイミーが同時に聞く。
「二度と禁呪を使えない身体にされた。そんでもって、私から時間の概念が消えた。いまがいつで、私が生まれて何年経ったかもよく分からない。ねえ、菜月ちゃん」
「なに!」
「生き残る方法があるとしたら、私はあなたにあると思う」
リタはゆっくりと、読み聞かせをする親のような声で言った。そしてその瞬間、耳元をなにか速いものが駆けていく音がして、後ろの壁が鋭い音を立てた。私の目に飛び込んできたのは、壁にめり込みひびを入れる鉄の玉と、それに胸を貫かれたリタの姿だった。
「――リタさん!」
ぐずおれるリタに駆け寄り、エイミーが出血を止めようと手を当てた。しかしその隙間からはとめどなくずるずると赤い血液が流れ、エイミーの応急処置の無意味さを物語っていた。椅子の後ろに身を隠し、男の射線を切る。だがどのみち、天井の目玉が私たちを見つめていた。
男の声が響く。
「これが僕の研究成果なんだよ! ああ、魔法は見えないところには撃てはしないが、見える場所を増やせばよかったのだ! 魔術には苦労させられたが、医術師になるための勉強が役に立った――」
「黙れ!」
私もエイミーの手の上に手を重ねる。
「リタ、死なないで、お願い」
「時間の魔法をね、教えるから、よく聞いて。禁呪だから、使うのはもう終わりって時にするんだよ、菜月ちゃん」
「生きて帰ろうよ」
「死ぬよ。もう痛くないもん」
それを聞いてエイミーが身体を震わせた。こんなに出血しているのに、こんなに押さえつけているのに、痛みを感じていないのなら、もう、助かりはしない。
「禁呪を、使えない身体に、されてよかった、気軽に――教えられるから」
息絶え絶えのリタが、私の頬に手を寄せる。エイミーはリタの胸を押さえながら、手を真っ赤にして、俯いて何度も首を振っていた。現実を否定しようと必死だった。
リタは三つの魔法と、それに必要な抽象詠唱を私に口頭で伝えきり、それを済ませると、もう仕事は終わったと言わんばかりの安らかな顔をして、全ての息を吐き切って、そのまま、動かなくなった。
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