seventy-two


 リタは慎ましやかな公園の花壇の横に備えられたベンチでぐーすかと眠っていて、道行く人の注目を集めていた。身体を揺すってもなかなか起きないので私とエイミーは彼女を担いで、苦労して見つけた宿まで運び、やっとのことでベッドに寝かせてあげたのだった。寝ぼけていたのか分からないけれど、運んでいるあいだ何度も頬にキスをされた。エイミーもその口付けの餌食となっていたので、たぶん実際に寝ぼけていたんだろう。寝ぼけてキス魔になる人を私はこれまで知らなかったので、おもしれえ女だと思った。


 私とエイミーは外で夕食をすることにした。共和国料理に舌づつみを打つ、というやつをしたかったのである。深い夜を街灯で照らした街はずいぶんとにぎにぎしく、人通りも熱気もすごい。王国の雰囲気とはやはり違っていた。


「共和国料理はたいていスパイシーで、刺激的だそうです。菜月さん、辛いのは大丈夫な人ですか?」

「んー」


 悩んだ。なんと言ったらいいのだろう。辛い食べ物は好きだけれど、カレー屋さんの「普通」でも私の舌は火傷してしまうし、かといって「甘口」にするとそれはそれで物足りない気もするから、私はいつも人に付き合って行くご飯屋さんの店頭で、どうしたものかと迷っていたのを覚えている。


「嫌いじゃないけど、得意じゃない」

「なるほど」


 私の考え抜いた末の表現に、エイミーは簡単に頷いて、はたしてそれで要領を得たのかは分からなかったけれど、彼女は結局ステーキを選んだ。


「もし辛ければ言ってください。私が全部食べますから」


 薄暗い割に騒がしい店内に入ると、エイミーは声を高くして言った。いつもの声量では周りの声に掻き消されて聞こえなくなってしまうほど、周囲の雑音は大きい。私もいつもより声を張って喋りながら、二人で向かい合ってテーブルを挟んだ。


「エイミーは辛いのいけるの?」

「エイミー、なんでもいけます」

「好き嫌いしないよね」

「お利口さんですからね。あ、菜月さんが悪いと言うわけではないですよ」

「分かってるよ。私、割と選んじゃうからなあ」


 好き嫌いをしないのはエイミーのいいところだ。一方の私はそうでもなかった。母の出す料理はレパートリーがいつも決まっていて、それもあってか私はそれなりに偏食家だったのだ。とはいっても、母のいつも出す見知った料理に私はうんざりとはしなかった。むしろ、見知ったものの方が安心できたわけである。


 ステーキが届くと、エイミーは目にも止まらぬ速さでさっさと平らげて、すぐにおかわりを頼んだ。肝心の料理は、肉に掛けられた特製のソースがピリつく辛さで、胡椒の効きもたしかに強かったけれど、この程度なら食べられないではなかった。


「これくらいなら全然いける、私でも」


 それをエイミーに伝えると、彼女は安心したようにほほえんだ。


「それはよかったです。お酒とか頼みましょうか」

「ううん、明日寝坊したら困る」

「ああ、まあたしかに、酔った人をふたりも抱えるのは私にも難しいですね」


 エイミーは小さく笑うと、いつの間にか食べ終わった二杯目の鉄板を下げて、またおかわりを頼んだ。おそろしい。この子の胃袋は異次元にあるんだ……。


「エイミー、好き嫌いがないとかじゃなくて、めっちゃ食い意地が張ってるんじゃない?」


 私が冗談で言うと、エイミーは飲んでいた水で噎せた。


「わ、失礼ですね! お食事が好きなだけです!」

「それを食い意地って言うんじゃないの?

「じゃあ食い意地ですけど! だめですか!?」

「いいよ、いっぱい食べなよ」


 エイミーは少し頬をふくらませながら怒るふりをして、私の皿からポテトを奪っていった。私はステーキの切れ端を口に運びながら、エイミーがもぐもぐと可愛げに食事をするのを、ハムスターが頬袋にひまわりの種をしまっていく様子を見るみたいな感覚で観察していた。スマホをこっちの世界に持ってこなかったのは失敗だ。この光景を写真に撮って保存しておきたくなった。


 そして私は珍しく、そういうのを思うだけに留めておくことをやめた。


「『日本』じゃさ、みんながカメラ持ってるんだよ」


 エイミーは三杯目のステーキも食べ切って、適当な炭酸を頼んでいるところだった。その目が私を捉えて小さく見開かれる。


「あんな高級なものを、みんなが持っているのですか」

「まあ、高級は高級だったけど――ローン組めるからね」

「ローン」

「分割払い?」

「ああ、割賦ですか」

「そうそう、それ。それでも、ここで買うよりは全然安かったよ。持ち歩けるしさ、他にもたくさん機能ついてたし」

「そのカメラがどうかしたのですか」

「ううん、なんか、ここに持ってきてさ、エイミーのことたくさん撮りたかったなと思ったの」

「――わ、私なんか撮ったって」


 エイミーは顔を赤くして俯くと、ぎゅーっと目をつぶって照れ隠しをするみたいに首を振った。


「いまのも撮りたい」

「なんなんですか今日は、やけに言いますね」

「ほんとだね、なんだろうね」


 そう言いながら、私には、私のこの珍しい物言いがなんなのか分かっていた。エイミーがあの夜、なんでも伝えて欲しいと言ったのを思い出していたのだ。だから、単に伝えたに過ぎなかった。照れ隠しで言葉を隠しても仕方がないとやっと思えただけだった。エイミーがそれで喜んでくれるならいいと思ったし、実際言ってみるとなんでもなかった。少し鼓動が早くなってふわふわするのみだ。


「でもカメラを通すより、実際に目で見た方がよいこともありますよ」


 エイミーが言う。間違ったことを言っているとは感じなかった。


「瞬間を切り取るのは少し私には怖いですね。前後なんて関係なくなってしまいそうです」


 それを言われるとなにも言い返せない。瞬間を切り取ってしまう。カメラになにかを収める行為は、確かにそういうことに近しいかもしれず、また、私にはどうもそういう節がある気がした。エイミーはそのあとしきりにスマホについてる機能が他になにがあるのか知りたがったので、私は仰々しく「一秒で手紙が届く」とか「何千キロ離れてても声が聞ける」とかいうような言い方で説明して、焼肉屋を後にしたのは、そのまま一時間ほど時間を潰してからだった。

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