八章 アレグロ・マエストーソ

seventy-one


 船はまた進む。私とエイミーとリタ・ジクシーを載せて。数十キロだけ重くなったが、エンジンは少しも悲鳴を上げずにいた。耳元で優雅に風を切っていくが空気はぬくい。花散る春も超え、世界は初夏に差し掛かりつつあった。


「私とエイミーさんはともかく、菜月ちゃんは入管で止められるかもしれない」

「え、まじ?」


 リタの言うのに、私は眉を下げて返した。考えてみれば当然だった。国境を越えるのなら入国審査くらいあったって不思議じゃない。川を下り、あとほんの数キロで共和国の水門にたどり着くという所で、リタは初めてそれを言った。もっと早く言って欲しかった。


「菜月ちゃん、身分証がないでしょ~。大ギルドに顔が通ってるって言ったって、所属してるわけじゃないし、なにせ話題に困らない謎の魔法使いだからね。またお城に行ったのもちゃんと記事になってたよ」


 リタは至近距離で目を見つめ、私の頬をつんつんとつつきながら言う。エイミーは横でふくれた面をしてそれを見ていた。一方の私はほとんど無表情だった。


「じゃあどうしよ」

「不法入国?」

「そんなのどうしたらいいの」

「入管吹き飛ばすとか」

「ありえない」


 首を振った。そんな気にはならないし、どうせ強行突破するなら他の手段を取る。だが方法を考えるにはもう時間が残されていなかったし、航路だって私たちのわがままで変えられるわけじゃない。陽光をはるか上空のその頭で照り返す岩山に囲われた河は、一直線に共和国領へと向かっていた。流れの少し強い河はその崖のおかげで影になっている。水と苔のにおいが充満していた。


 ウィンベルという王国の楽団による公演があるのは、もう目前の明日だ。王国民と共和国民の友好の証として、共和国民に親しまれた楽曲を、王国民で編成されたオーケストラが奏でる。そしてその友愛と、あるいは顔色伺いの公演に、もしかすれば大きな邪魔が入るかもしれず、それを阻止するのが私の役目だった。


「とりあえず行って、だめだったらそれで考えればよいではないですか」


 エイミーが私からリタを引き剥がしながら言う。


「まあ、そうするしかないか」


 太陽の光線から隠れ、湿り気を帯びた風を浴びながら、私は言った。リタとエイミーがなにか言い合うのを、ほとんど上の空で聞く。頭の中には適当な音楽が流れていた。なにも無ければ、私たちはただ楽団の演奏を聴いて帰ることになる。そうなればこれは単なるバケーションでしかなく、私は胸の内でずっとそうあることを願っていた。この世界の音楽にも興味がある。エイミーが鼻で歌った曲が私の知っている曲に似ていたように、オーケストラもまた私の知っている音楽を演奏するかもしれない。


 そうであれば、私はこの世界と前の世界の妙な関係性をまた感じるかもしれない。だが音楽なんて放っておいても似ることがあるわけだし、そうとも言い切れないのもまた事実だ。検証のためにエイミーから音楽をたくさん聴いてみたかったが、彼女が覚えているのは以前歌ったあの曲くらいのものだった。音楽を保存する機器がないから、繰り返して同じ楽曲を聴いて、覚えるということがそもそもない。空で口ずさめるのはよっぽど金を持っていてコンサートに何度も駆け付けられる人か、作曲家本人かくらいだ。そういう意味では、姫やリタに尋ねてみても同じだったろう。


 そんなことを考えているうちに、船はもう共和国と王国の境に差し掛かっていた。



「なんかよく分かんないけど、入れたね?」

「手が回ってたんだろうね」


 入国管理は実にスムーズに、あるいはむしろ恐ろしくなるくらい簡単に突破した。管理局の男は私の制服と杖を見るなり、素性も確認せずに、連れ立つエイミーとリタも同時に国境を通した。顎で適当にあしらわれたようにも見えたが、それは疚しさをごまかすためにさっさと仕事を済ませたがる態度にも思えた。そう考えるとリタが「手が回っていたかも」というのに説得力はないではない。


「手って言っても、なんの手?」

「さあ、王国ギルドか、王国か、あるいは他のなにかか」


 リタは私を振り返って妖艶に笑みを浮かべたが、その瞬間膝から崩れ落ちて両手を地面に付いた。


「リ、リタさん!?」


 エイミーが慌てて駆け寄る。私も驚いてリタの顔を覗き込んだ。


「なに、どうしたの? どこか痛い?」


 リタは首を振って、髪を悲しげに揺らした。上げられた瞳は潤んで、目でなにかを語ろうとしているように見えた。肩に手を添えてやると、リタは私の手を握った。小さく整った口が開く。


「ごめ、酔ったわ、船」

「船酔い!」


 異国に入って多少私も緊張していたから、リタがなにか魔の手によって毒されたかと思ったが、なにを隠そう彼女は船酔いをしていただけだった。


 だがいずれにしたって船酔いも馬鹿にできるものではなく、リタをさっさと休ませてやる必要があったので、私とエイミーはリタを適当なベンチで休憩させている間に、今夜取る宿を探した。魔法使いの宿探しは本来、それほど難儀するものでもない。というのも、大抵のところは小切手をちらつかせれば、予約が入っていても空けてしまうからだ。とはいえそれでは良心が痛むので、我々は走り回ることとなった。国境沿いでホテルを探すのは難しかった。国交樹立記念日が近いということもあっただろうが、どこも部屋は埋まっていて、結局夕方ごろになってようやく、誰もが尻込みするような高い金を払って、高級な宿を取ったのだった。

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