seventy
「菜月さんは菜月さんで、クライネさんはクライネさんです。比べる対象になんか、どちらもなりません」
「詭弁」
「詭弁と言うなら、なにを聞きたいのかはっきりしてください」
「私と菜月さんは比較していないかもしれない。でも菜月さんと旅をすることと私と城に住むことは比較できる。それであなたは前者を選んでる。だから詭弁だと言うの」
「もうすでに掴んだものと、未知のもののことですよ。菜月さんとの旅は始まっています、二人でいない時すら進行している。でもクライネさんとの生活がより良くて、正しいかどうかなんて、まだ分からないじゃありませんか」
「だから何度も言うけれど、拐った人を追いかけない人が、正しいわけ? あなたはそれで満足だって言うの?」
「菜月さんのそこだけを取り上げて責めるのは、間違ってると思います」
「…………」
クライネさんの引く力が弱まる。
「たしかに、迎えに来てくださらなかったのは悲しい。クライネさんが来てくれて本当に頼もしかった。でも菜月さんの欠点はそれだけじゃない。他にももっとたくさんあるんです、長く一緒にいるから、悪いところも知っているんです。同時に美点もたくさんある。私は菜月さんと旅をしたいのです。それが最後に報われなかったとしても」
クライネさんは黙り込んで、ずっと俯いていた。朝焼けの向こうで、小鳥が囀るのが聞こえる。頬に日が差す。前髪が風に揺らされる。じっと黙っていた。
「……私、あなたのことが好きよ」
クライネさんの小さな声が、その静けさを包むように響いた。私は首を振る。
「そんなこと言ってもらえるほど、私はクライネさんに何かしてあげられたことなんてありません」
目が合って、木々が揺れるのを止めるような感覚に包まれた。時間が止まったかのように思えたのだ。
「あなたの真っ直ぐさ。魔法を学ぶ時の真剣な眼差し。新しく何かを知った時の純粋な喜び方。――私は、なんにも深く考えず禁呪を扱って、人に厭われる姿になってしまった。穢れもののように扱われてきた。それで姫君に助けられて、優雅な生活を送らせてもらってる。でもそれはあのお方がよくする、可哀想なものを扱う手つきでしかない。けれどエイミー、あなたは私に少しも色目を使わなかった。すぐ変わる髪色や頭に生える獣の耳を見ても、少しも切なくなんかならなかった。ローゼもそうだったけれど、あの子は私のことなんかどうだっていいだけ。魔法使いとして、魔術師として慕ってくれたのは、あなただけだった。あなたは私の抱えることを聞こうとしないし知ろうとしない。でも聞かせれば聞くし知って欲しいと言えば知ってくれる」
私がなにも応えられないのを見て、クライネさんはまた俯いて首を振った。魔女帽がドレスの裾のように踊る。
「菜月さんはあなたを放って、姫の部屋にいる。また、姫と寝たんですよ」
呼吸が浅くなるのを感じた。その感覚を抱いてすぐに、こんなことではダメだと思い直して、すうと息を吸う。胸の苦しさを誤魔化すみたいに、大きく息を吐いた。
「そんなこと私に言って、一体どうしようって言うんですかクライネさん」
「女の人といるために、あなたを迎えに行くのを遅らせた。そんな人に捧げては、あなたの人生がふいになる――」
「――それを決めるのは私です……っ!」
思わず大きな声が出た。クライネさんの身体がびくりと震える。窺いがちな視線が少し下から投げ掛けられた。けれどその弱々しさを可哀想に思うほど、いまの私には余裕がなかった。切なくなって胸が痛くなるというのは本当だ。比喩じゃない。心臓辺りの血圧が急に上がったみたいになって、締め付けられるように痛むんだ。菜月さんと共にいるというのはそういう痛みに耐えるということでもあった。恋をするというのは、精神に傷を負うということを、受け入れるということだ。
「それを言ってどうしようというんですか。わたしがそれで、じゃあお城に行きます、あんな人よりクライネさんのほうがずっと誠実で私のことを大事にしてくれますと、そう言うと私が思ったのですか」
「違う」
「違いませんよ、そうです。リタさんが私のことを魔法も使えない女だと思っていたみたいに、クライネさんはいま私を壊れたグラスみたいに扱ったではないですか。分かってるんですよ、菜月さんがどういう人かなんて、私が一番。今日来てくれなかった理由に姫さまがある可能性だって、考えて考えて考え抜きました。その上でまだ旅を続けると言ってるんです。嫉妬させたかったのですか、それとも私と菜月さんを引き剥がそうとしたんですか。信じられません、私が傷付くのを分かっててそれを言ったのが!」
クライネさんは腕を振って、私の掴んだ右手を突き放す。
「あなたを守ろうとしたのに、そんなふうに無碍に扱われるなんて思ってなかった」
「自分の身くらい自分で守ると言ってるんです。自分の機嫌も自分で取ります。どういうつもりで私に言ったんですか、私を守るために? 私のためなんかでなく、クライネさんの勝手ではありませんか」
「好きな人が傷付いていくのを、どうして見ていられると思うの!」
顔を上げたクライネさんの瞳に光るものが浮かぶ。私の力を失った腕を、今度は彼女が強く掴んだ。
「守りたくなるのなんて自然なことじゃない? 大切に思ってる人が危険な旅に身を投じて、危険な恋をしているのを見たら、なにか言ってやりたくなるのが自然じゃないの? どうして分かってくれないの、どうして私じゃダメなの、どうして菜月さんなの。先に出会っただけで、どうしてあなたが全身を捧ぐの」
私は言葉を失った。私が菜月さんに大して思うようなことを、クライネさんは私に思ってくれているのだ。けれど私には、それが蔦が身体に絡まるようなものに思えてしまった。
「……クライネさんの気持ちはありがたいです、私にはもったいないくらい。仰ることも理解しています。お城が安心で、クライネさんの横が安全だというのも分かります。でも、安心であることや、安全であることや、危険を避けることを望んでいるなら、ふつう、最初から旅なんてしないですよ」
クライネさんはなにも言わない。私の腕を掴んだまま、俯いて何度も頭を振っていた。
「私は、最初から危険だなんてこと分かって、それで旅を始めたのです。菜月さんが突拍子もなく、誰も起きていない夜のように掴めない人だというのも分かって、それで付いてきたのです。無謀だろうと愚かだろうと、そんなこと理解しているんです。でも、その先に見る景色を探しているんですよ。眠れない夜の先にある白んでくる朝とか、どうしようもない憂鬱の先にある輝きとか、そういう瞬間を目指している。生きていることが、死ぬよりも、あとの虚しさよりも、素晴らしいということを、私は死ぬほどの苦痛のあとに見付けられると、そう思っている。クライネさん、あなたが愛してくれるのは嬉しい、私もクライネさんを愛しています。ずっとクライネさんの横にいないという事実だけで、それが否定されるわけではありません。遠くでも、いない時でも想っています」
「それで後悔することになっても……?」
言われて、私は色んな思い出を辿った。菜月さんに出会う前のことから、苦しいことに苛まれた時のことも、自らの行いが悪い結果を呼んだような日もあった。人との関係や会話、喧嘩や悪態、傷付けたことも傷付られたこともたくさんあった。あらゆる、悪いことが続いた時期もあった。思い出そうとすれば嫌な思い出なんて無際限に出てくる。そして、クライネさんを見て微笑んだ。
「私は、生まれてから一度も、後悔というものをしたことがないんです」
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