sixty-eight
声を掛けてきたのは、菜月さんではなかった。黒い魔女帽子と外套に身を包んで、背の低い、焦げた茶色の瞳をした女の人で、それがクライネさんだと気付くのにそう時間はかからなかった。
「なんて言ったの? 用済み? 死んでもらう?」
クライネさんは陰鬱な声で言い直す。別にリタさんを弁護する必要はなかったけれど、クライネさんの底知れなさが私には急に恐ろしくなって、慌てて両手を振った。
「いえ、なんでもないのです、大丈夫ですから」
「言いましたよ」
だが、リタさんは私の気遣いを無視して、クライネさんと睨み合う。リタさんの手は既に杖に伸びている。けれど私には分かっていた。リタさんとクライネさんが争えば、確実にクライネさんが勝つ。歴然とした魔法使い同士の差は、向き合い、脳内で魔法の現象を想像した時点ではっきりするのだ。
「クライネさん、」
「――クライネ?」
私がクライネさんを諌めようと近付くと、リタさんの動きがはたりと止まった。その目には、先程まではなかった緊張の光が走っている。
「クライネか、ああ、王国の――」
だが同時に、好奇心が口角に張り付いていた。
「言いましたよ、死んでもらうって、菜月ちゃんが来なければ、この人は用済みだから。クライネさんも一緒にどうです? 菜月ちゃん待ちますか?」
「エイミーに言ったんですね、そうやって。では死んでもらうのはあなたです」
「あっはは! 私? クライネさん、それで何人目の殺人なんですか」
途端に空気が張り詰める。しかもそれは緊張や気まずさという意味での空気ではなく、空間全体が停滞したかのようなものだ。クライネさんの瞳が淡く光る。じっとした瞬きもしない、澄んだ森の奥のような静寂を漂わせていた。なにが起こるか分かる、クライネさんの魔法だ。それも強力な――。私は慌ててクライネさんに駆け寄って、その瞳を塞いだ。
「クライネさん、だめです、やめてください」
「エイミー、目を塞がれてたら私が不利になる」
「だから、やめてくださいと言ってるんです。こんなところで魔法を撃ったら、何人が死ぬんですか」
「何人かなんて、その人にはもう関係ないんじゃないの?」
「……リタさんも、やめてください。どうしてそんなに挑発するのですか、私のことも、クライネさんのことも」
クライネさんが私の身体を引き剥がそうとする。けれどひ弱な彼女では、それなりに運動のできる私をどかすことはできない。
「で、クライネさん。菜月ちゃんは来るの? お城にいるんだから分かるでしょう?」
「菜月さんは来ませんよ」
それを聞いて私の力が弱まった瞬間に、クライネさんは私の横をするりと抜けた。リタさんと向かい合う。
「来ないの?」
「ええ、皇女とふたりでいます。なにを話しているか知りませんが、馬車も出ない時間です。宿泊していくのでしょう――でもそれはあなたに話すようなことじゃない、けれど菜月さんが来なければ死んでもらうというのであれば、それは確実に起こるのだから、私は当然エイミーを守ります。探すのに手間取りましたが、見付けられてよかった。こんな気の狂った人に拐われているのを、よく放っておけましたね、あの人も」
「エイミーさんのこと、大好きなんですね」
リタさんは驚くほど屈託なく笑顔を浮かべた。けれど私にはこんな状況でそれほど清々しく笑うのがなぜだか分からず空恐ろしかった。
「ああ、えへへ……あははは、好きには隠しごとが付き物ですよね。エイミーさんには話していないんですね、貴女の罪を」
「――それ以上喋るなら、本当に」
「本当に? 殺しますか? ねえ、エイミーさん、この人がなんの禁呪を使ったのか教えて――」
クライネさんの口が動く。抽象詠唱だった。
「――三つの原色を覆い隠し、下賎も高貴も果てに」
私はそれの意味することをすぐに理解して、クライネさんの目を塞ごうとした、だが意味のないことだとすぐに悟った。――禁呪の抽象詠唱。禁呪を唱えるのは実に簡単な言葉で済む。だから文句を詠唱しなければならない。それで、禁呪は唯一、普通の魔法と違って、見えていなくても撃てるものだった。私はクライネさんの発する文言を知っている。死を司る魔法だ。彼女は遠回しにリタさんへの殺意を現象させることなく、死という現象そのものを誘おうとしている。唱えきったらこの場でリタさんは死ぬ。私を脅かそうとする人だが、それでいいとは思えなかった。クライネさんの過去がなんだろうと、新しい罪を抱える必要はない。すでに十分の罰を受けているのに、新たに禁呪の罰を受けるのだっておかしい。けれどどうすればいいのか分からなかった。その間に、クライネさんの詠唱は進んでいく。
「生き抜く証明を唾棄せよ、ス――」
私は、クライネさんの口を塞がなければと思った。だが咄嗟で頭が回らず、ほとんどなにも考えないまま、くちびるで塞いだ。それがクライネさんを止まらせるのに最善だと思った。何を勘違いしたのかどこかで口笛が吹かれる。
クライネさんの詠唱が止まる。ぴくりと固まって、なにも言わなくなった。
「あら、仲がいいんですね」
言葉を継ぐのをついにやめたクライネさんから目を離して、浮ついた言葉を吐いた女の人を睨み付ける。
「リタさん!」
「なに?」
「私は魔法はろくに使えないかもしれませんが、これでも腕っぷしには自信があります。貴女が魔法を唱える前に、ぶん殴って止められるんですよ。死んでもらう? 私がおいそれと、菜月さんに会わぬまま死ぬとお思いですか。残念ながらそんなに淑女ではありません。熊を素手で倒したことだってあるんです、笑ってる場合じゃありません」
「クライネさんを放っておけば、殴る必要もなく私が死んでいたかもしれないのにね」
「殺されてよい人などこの世には一人もいません。試しますか、貴女の魔法より私の蹴りの方が早いですよ。菜月さんだって私に腕相撲では勝てない」
リタさんはまた笑った。よく笑う人だと思った。けれどそれはさっきまでの、まるでなんにも期待していないから世の中がおかしくて笑うようなものとは違って、本当に愉しいみたいな笑いだった。私ははと似たような人に思い当たる。なんにも期待していないから、いつ死んだっていいと思っている人だ。だからクライネさんに死の魔法を突き付けられても、まるで動じなかった。
「分かった、じゃあ腕相撲しよ!」
わたくし、エイミー・アイ・ケイシー、ひょろひょろしているので舐められがちですが、腕相撲は圧勝でした。
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