sixty-six

「私のこと、利用しようとして呼んだくせに。町娘にはそんなことできない」

「ええ、最初はそうだった。最初はね。なにも知らなかったから。菜月が、こんなに私の心を掴んで離さない、気持ちのいい人だと知らなかった。責めているの? それが貴女の気がかりなの? それならごめんなさい」

「違う」


 姫の身体をベッドに押し倒した。柔らかい衝突音が鳴る。


「私だってあなたを利用しようとした」


 姫は首を振る。白く陽を返す首筋が目を引いた。


「お互いに打算があったなら、それは誰も責めようがない。それに、私はそれが普通の世界に身を置いてる。私のことなんか誰も見ていない。私の権力や、持ち物にしか興味がない」


 そう、誰も自分のことなど見てくれない。姫の言うことが分かるぶん、私は切なくなった。夜中に花壇に踏み込んで、白い花だけを蹴散らす。鞭打つ。花は血を散らすように散る。返り血を浴びて、ああこの植物もまた生きていたのだと知る。奪うだけ奪って、そこには人しかいないことを私たちは手遅れになって初めて知るのだ。


「だからこそ、私は、菜月が初めて私の、私であることを見付けてくれたのだと思っていた」

「いまも見てる。勝手に勘違いしないで」

「では手紙をください。会いに来てよ」

「来たでしょ」

「でも帰るんでしょう」


「分かった」自分の黒い髪の毛が、ゆらりと目前に落ちてくる。「帰らない。今日は死ぬまであなたを愛してあげる」


 私は顔を背ける姫の頬を抱えて、無理やり私の方へ向けた。諦めたように息を吐いた姫に顔を近づける。人が望むなら、そうしてあげたくなる。私は心から慈愛を受けることに慣れていなかった。そしてそれに、深く惹かれていた。姫君の金色に輝く髪が白いシーツの上で踊る。私はまた軽薄な愛を背負うのだ。青空における雲、夜空における星。いずれかが、いや、青空が存在せねば雲は存在しない、夜空が存在しなければ星は存在しない。私の運命が存在しなければ、姫の恋情もまた存在しないはずだった。私はどんな瞬間の目の前に立ち尽くしても、生まれてこなければよかったと思うのだ。


 くちびるが触れれば、姫は小さく呻く。細く紅を引いた薄いくちびるも、触れればこんなにみずみずしく、椿のように柔らかい。舌を差し込むと強い熱を帯びて優しく湿った姫君の口内を感じる。指は手探りで彼女身体をさまよって、姫が善がると知っているところを撫でる。小さくて薄い耳、隠れているから見えなかったけれど、きっと美しいうなじ、日を照り目を引く首筋、薄く浮いた鎖骨、たゆたう胸とその表面、くびれた脇腹、形のいい腰骨、手のひらを包むような腰の裏、心地いい温度の太ももの付け根、どこに触れても、天使の羽根に触れているような気がした。目の前が段々と白くなる。誰かを喜ばせている時にいつも感じるのは、私の空虚さだった。身体を弄る機械的な行為は、私の内面をどこかへ放出して、亡き者にする。姫が私の頭を抱える。彼女も私のことをよく知っている。私が本当に深く、海の底のような愛着を抱いていないことを、もはや知っているのだろう。それでもこれで、この簡単な行為だけで満足しようとしている。少女の健気な遊びだった。危険な禁忌を犯しているという、その浮ついた事実に縋っているにすぎないのだ。私たちは愚かじゃないからそれを知っているけど、知っているのに「する」のだから尚のこと愚かだった。


 姫は声を我慢する。白昼に囁くには重い愛の言葉を、喉の奥で憚った。高尚なくせに低俗だった。低俗の割に美しかった。私たちはいつも普遍的な姿を演じているに過ぎない。一糸も纏わなければその瞬間に人智とはかけ離れるのだ。知っている。私たちは高尚な愛の理論家で、最も軽薄な愛の実際家なのだ。だがそれのなにが悪いと言うのだろう。それのなにが罪悪なのだと言うのだろう。私たちは生まれた時点で罪を背負って、この世という地獄に産み落とされたのだから、目前の快楽と悦楽に沈むことのなにが、誰の不快なのだろう。


 姫は小さく耳元で、私の鼓膜をくすぐるような声を上げる。足元から駆け上がってくる快感が、すぐに私を襲う気がした。シーツがしわくちゃになる。老いていくのと同じだった。老いる前に死にたい。肉欲に沈むのはそれだ。老いる前に死ぬことだ。これから先何度、誰を抱いたって、私は姫のことを思い出すだろうと感じていた。それは姫にとってもそうだろうということも分かっている。罪、罪――神聖なものとは程遠い。絵画にすれば破られて燃やされる。異端で異質で美学とは程遠い私と姫君の人生が、ほんの囁くような喘ぎ声となって、白い部屋に、羽毛で包まれた部屋に、消えて、失せて、沈んで、いく。

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