sixty-five

 とにかく、私が共和国に発つというのは決まった。ローゼやクライネは王国の姫君の側近なので、辺境伯の時のように手伝うことはできないらしかった。私とエイミーで行くことになる。


「菜月、今日は本当に泊まっていかないの?」

「うん。エイミー迎えに行くから」


 食卓での会話を終え、私は姫の部屋に呼ばれて、ベッドの端に腰掛けていた。羽毛の柔らかさで、姫との様々な会話を思い出す。私の言葉に姫はやんわりと悲しそうな顔を浮かべた。


「その後にでも、来てくれたらいいのに」


「エイミーが連れて行かれたって言ったでしょ、その人と話さなきゃいけなくて、それがいつ終わるか分からないし、約束できない」

「そしたら、もし来られければ手紙をくれる? 専用の配達員がいるから、すぐに届くし。貴女、連絡不精でしょ、たまには菜月の文字が見たい」

「うん、分かった。たぶん書くね」

「そう……。もうそろそろ発つの? 次はいつ会えるかしら」

「もう行こうかなって思ってるとこ。共和国でなにもないといいけど」

「そうね、なにもないといい……」


 姫君の声は、浅瀬の波のように沈んだ。いつの間に人前で、そんなに愁いた表情をできるようになったのだろう。そしてそれが私の前でのみ表れる彼女の信頼だということが分かっているからなおさら、土を爪で引っ掻くような罪悪感に溺れた。


「姫?」

「うん?」


 呼び掛けられた姫はふわりと顔を上げて、切った前髪をふるふると払った。私は黙りこくってそっぽを向く。


「ううん、なんでもない」

「……菜月、あれから悩みはない?」

「うん、ない。エイミーも聞いてくれるし」

「エイミーが聞いてくれるの? ならいいわね。そうね、それなら安心……」

「じゃあ、私――」

「あと少し」

「え?」

「あと数分でよいから、もう少しいて。なにも話さなくていいから」

「……うん」


 数分。本当にじっと沈黙に包まれていた。空を駆け巡る鳥の声が窓から聞こえる。城の位置が高くて、座っている私には青空しか望めない。


「ねえ、手を見せて」

「手? やだ、恥ずかしい」

「手なんか恥ずかしがらないでよ。私たち、裸も見せ合ったのに」


 私がそれを聞いた瞬間なにも言わなくなったのを見て、姫は肩を縮ませた。


「心変わりしたの?」

「心変わり? なんの? 姫の魔法使いになること?」


 姫はゆるゆると首を振る。でも答えの言葉は言わなかった。分かっているくせにと言いたげな瞳が水色に反射して、私の両目を見比べる。


「次、いつ会えるかも分からないこと、まるで寂しいなんて感じていないのね」


 私はまたなにも言わなかった。はっきりした言葉を避ける私の機微に気が付きながら、彼女も彼女で、私と言い合う勇気はない。姫の仕草は、いちいち私の心臓を痛めた。彼女に対してまるで一貫した態度を取っていないのを、自分で分かっている。この間は目の前で大泣きしたくせに、いまは少しも声に抑揚がない。


 最低だと頬を叩かれればずっといいと思った。エイミーと話した夜に、私は自分がいかに姫の真っ白な人生にとって、汚物のような存在であるかを思い出してしまった。突然目の前で脱ぎ出して、胸を触らせて、姫の無知を逆手に、剥き出しになった彼女の心臓に突き立てたのが、私のやったことだ。


「私、エイミーだったらよかったのに」

「どうして」

「こんなお城に身を置くより、菜月の横で硬い地面に寝そべっていた方がずっと幸せだもの。羨ましい、羨ましいな――」

「先の見えない旅をするくらいなら、ここにいた方がずっと幸せだよ」

「そんなふうに言うの? なにも分かってない」


 姫の声が尖る。その音は本当になんら身分を感じさせない、年相応な少女のようなものだった。


「なんのこと?」

「安心とか危険とか、安定とか不安定とか、そんなのどうだっていいから貴女の横にいたいって話をしてるのに」

「……私の横にいると、つらいでしょ」私は言葉を一度絶った。「実際、いま、苦しそう」


 時間は、湖を漂う薄氷のように流れる。


「私、こうして苦しいことさえ、貴女のことならつらくない。自然な心の動きでしょう、愛した人のことで苦しむのは、愛の代償でしょう。幸せを受け取る分、不幸せを受け取るのが普通でしょう。――いえ、でも矛盾してるわね。苦しみたくないから、エイミーだったらいいのにって言ったのに」


 私は黙り込んで、血の味を口内で覚えた。前の世界じゃ誰のことも真剣に考えなくて、弄ぶようにしていたけれど、それは、ここまで真っ直ぐ愛を伝えられたことがないからでもあったかもしれない。みんな、私のことなど本当には好きじゃなかっただろう。どこかに影を見て、そこに光を当てようと必死に振舞っていただけだ。姫は首を振る。薄い金色のやわい髪の毛が揺れた。


「エイミーだったら、なんて、おかしな仮定。皇女じゃなければよかったのよ。街で生まれて、菜月に出会って、旅をしようって言われたならよかった」

「それだっておかしな仮定」


 私が立ち上がると、姫は慌てて私の腕を掴んだ。水の揺らめく目元には、白昼ぜんぶを詰め込んだみたいなきらめきが浮かんでいた。それを見ると、喉の奥が苦くなる。こういう美して非情なのを、私はすぐに放っておけなくなってしまう。


「おかしい?」

「おかしい。姫じゃなきゃ私のことを、城まで呼べなかった」


 私の腕を掴んだ腕を、ひっくり返して私が握る。細い手首は、私の手のひらの中でまるで存在しているようにも思えなかった。こんなに強く掴んだら、脈が止まってしまう。でも姫の手は最初から、死んだみたいに白かった。

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