sixty-four
「まずいわね」
姫は重苦しく言った。
「なにが? 紅茶?」
「なにがまずいって、今週、ウィンベルは共和国での国交樹立200年記念式典で、公演を行うのよ」
「ウィンベル?」
私が首を傾げると、姫は紅茶を一度飲み下す。
「ウィンベル・フィル、王国で最も名高い楽団よ。自殺した夫婦の所属していたオーケストラね。それが共和国に行くの」
姫は例の食卓で、今日半日私を待ち続けていたらしい。ご丁寧に、私のために紅茶や茶菓子も用意されていた。久々に会う、といってもほんの二週間程度のことだったが、会った瞬間姫は淑やかに喜んでくれた。本当ははしたなく手を繋いで再会を喜びたかっただろうけれど、ぐっと飲み込んで私を出迎えてくれたのだった。
ある程度の報告はローゼから済まされていて、私はそれに補足する程度の話をしただけだった。行く末を姫は深く憂慮しているみたいに、時折ため息を吐く。
「いまだ演目で揉めてると聞くわ。交響曲の10番をどっちが指揮するか、決まってない。シモーネに共和国ギルドの息が掛かってると考えられる以上、向こうの土地で――」
言葉を継いでいく姫に、私は少し違和感を持った。この前会った時と少し違う。
「あれ、姫、前髪切った?」
姫はがたりと立ち上がった。
「えっ、切ったの! 分かる!?」
「分かる分かる! 結構ざっくりいったね」
「そうなの! ちょっと鬱陶しくなっちゃったから。ほんとは後ろも菜月みたいに切り揃えようかと思ったんだけど、」
「姫は長い方がいいよ」
「そう言うと思って!」
「あー、言うと思ってかあ」
「いや、あの……」
私たちの会話が盛り上がるのを、ローゼが顰め面で制止した。姫は少なからず怪訝な顔をして、後ろに控えていたローゼを振り返る。
「なに、ローゼ」
「髪型の話は要件を済ませてからではだめなのですか。どうせ菜月は今夜泊まっていくんでしょう」
「え、泊まらないよ」
「あら泊まらないの?」
姫は眉を下げて座り直した。
「エイミーが拐われちゃって。助けに行かなきゃだから」
「なんですかそれ、大丈夫なんですか」
割り込んできたのは向こうに座っていたクライネだった。
「うん、拐われたって言っても知らない人に連れてかれただけで」
「いやいや、大問題じゃないですか。エイミーになにかあったら私――」
腰を浮かせたクライネを、私は首を傾げて見つめた。
「――エイミーになにかあったら、クライネさんに関係あるんですか?」
「え、だって友人だもの」
「友人ですか。そうですか。いや、どこにいるか分かってるし、言葉の綾だから、大丈夫です」
私がそう言うと、クライネは諦めた顔をして座り直した。じっと俯いて、自分の手の甲を眺めている。ローゼがまた苛立たしげに声を上げた。
「だから、そういう話はともかく、とりあえず要件を済ませましょうよ。姫、ウィンベルが共和国で――」
「――ああ、えっと、ウィンベルは共和国で演奏をするけれど、まだ指揮で揉めてて、ただでさえシモーネに目を付けられてるあの楽団が、のこのこ共和国に行くのだから、どうも嫌な感じがするって話がしたかったの。どう思う、菜月」
「共和国で実際に楽団が狙われるってわけ?」
姫は深刻そうに頷いたけれど、私はその危険について、実感が湧かなかった。マカロンに似た菓子を口に運んで、ゆっくりと噛む。
「シモーネはそこに来るかな」
「分からないけれど、可能性だけはあるわね」
甘ったるさが舌を覆うのが明らかな一方で、私にとって不可解なのは、誰もがもうシモーネの関与を疑わないことだった。竜巣での事件だって、シモーネが実際にやったかどうかの確証はない。そのうえ、楽団を狙うといって、どうするのか。楽団員を皆殺しにするというのか。それとも、争う指揮者を殺すというのか。あの女の子が?
「じゃあ行かなきゃだね」
「……ええ。こんなこと、本当に貴女に任せていいのか、私にはいまだに分からないわ」
「でも、私が撒いた種でもあるし」
私が姫を心配させまいとさりげなく言うと、姫はその瞳に陰を落とした。そして振り向かないまま後ろに問う。
「……ローゼ、そう思う?」
問われたローゼが、紫煙を吐くみたいにゆっくりと答えた。
「……斎藤菜月、私にはあなたが撒いた種だというのが分かりかねますね」
ローゼには責められると思っていたから、私は少なからず驚いた。彼女の灰色の瞳をじっと見る。
「どうして? シモーネがこうなったのは私のせいでしょ」
「それなら、あなたがそういう行動をしたのは、あなたを産んだ母親のせいかもね」
「…………」
「因果なんか関係ない。目の前に起こっていることをただ見つめればいい。自分がそれほど偉いと思わないことですね」
「――言い方はともかく、ローゼの言うのが正しい。菜月、貴女は貴女の過去の行いの精算をしに行くのではなくて、いままさに起こっている誰かの不利益を救い上げに行くの。自分が悪いなんて気概で、シモーネが元の場所に立ち返ってくれるなんてことはない。もしシモーネが貴女の言葉を取り違えたり、強く解釈してしまったのだとしても、貴女のすることはそれを詫びて訂正することではなくて、彼女を救った時に吐いたよりずっと美しく気高い言葉で、元の場所に戻してあげることよ」
姫はそう言うが、それこそ私にできるようなこととは思えなかった。私はシモーネに上っ面の言葉を投げて、それで彼女の絶望の表面を撫で回しただけなのだ。そこに更に言葉を突き付けたって、およそ表面的になるようにしか思えない。
「立ち止まっているくらいなら人だって殺すというのは、あなたの言葉だったと思うけれどね、菜月。私たちは誰も高尚じゃない。けれどそれを探しに行くのがあなたの旅の目的だと思っていましたが」
どんよりとした雲が私の胸腔を満たす。よく分からない。罪だと思わされたり、そうではないと言われたり。誰も明らかなことなど言っていなくて、常に矛盾し続けているんだとしたら、それは楽だが、納得はできなかった。
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