sixty
「さて、シモーネを追わなければ話は終わらないわけですが、先生、私はどうすべきですか」
「……そうだね。菜月ちゃんに付き合って貰って、報告をしてきて欲しい。第一発見者は菜月ちゃんで、ローゼが調べたらシモーネの関与が明らかだった。そう言ってくれたらいい。ここで話した推測まで話す必要はない。シモーネの関与が明らかであることが分かれば、報告としては上出来でしょ。そしてそれは菜月ちゃんがする方がうまくいく」
「あら先生、どうして私だけじゃだめなんです?」
「なんとなくなんだけど、皇女はすごく気に入ったんじゃない? 菜月ちゃんのこと」
「それは、皇女のことを考えてみたら、自然とそう見えるというわけですか」
「皇女のことと、菜月ちゃんのことを考えると、なんとなくそういう気がするってだけ」
ローゼは降参するように両手を上げた。
「仰せのままにします。実際、先生のことを隠したまま報告するのなら、それがよいでしょう。菜月には姫も追及の手を弛めますから」
言いながら、ローゼは厭わしげに私の目を見た。
「ねえ、姫のところに行くの、急いだ方がいい?」
私は見返してローゼに問いかけると、彼女はゆるゆると首を横に振った。
「そりゃ早いほうがいいけれど、今日いますぐ発てとは言いませんよ。なにかあるわけ?」
「ううん、なにかってほどじゃないけど――」
竜巣に戻ってくることになったのは、幸いだったと思っている。ここで起きた悲惨な事件は喜ばしいことではないけれど、同時に私の決心を固めつつもあった。シモーネを追って、しっかりと話をしなければならないということがはっきりとした。そしてもうひとつ、私には確固といえるような決心がある。
「イルさんの宿に、また泊まっていきたくて」
私がそう言うと、空間は少しだけ糸を解いたようになった。イルさんは小さく笑って頷く。ローゼも拒否しなかった。
「では、明日にでも城にいらっしゃい。姫はいつでも貴女を待っているし、報告もできるだけ早いほうがいいですからね。もし大事があって遅れるなら、手紙で機嫌でも取りなさいな。さて、応援を呼んで現場の処理が終われば、私はすぐに領に帰ります、帰る際ご挨拶には伺えませんので、先生――」
「うん」
「お力添え、ありがとうございました」
ローゼは頭こそ下げなかったが、目を伏せ、灰の長い睫毛で瞳を覆った。イルさんはゆるゆると首を振る。先生と呼ばれていても不思議な人ではないけれど、それにはやはり肌も瞳もくちびるも、瑞々しすぎるほどだった。堅物のローゼの信頼をこれほど得るのに、どれほどの苦労を携えたのだろう。それで、どうやってなんでもないように振舞っているのだろう。
「……いいよ、驚いたけど、久しぶりにローゼの顔を見られたのは、よかった」
「宿のことは誰にも知られないようにします」
「バレたって処刑されてしまうわけではないろうし、気を付けすぎる必要はないけどね。それでローゼがなんらかの処分を喰らいそうになるんなら、その時は私のことを売ってくれていい」
ローゼは聞いているうちに、イルさんから目を離した。部屋を出て行こうとして、その去り際に小さな声を残していく。
「いえ、恩義くらいは尽くします」
・・・・・
ローゼと別れて、三人で竜宿に戻った。食事も風呂も済ませてみると、イルさんが用意してくれていたのは、私たちが以前使っていた二人用の一部屋だった。この展開を予想していないではなかったけれど、実際部屋に入って、ひとつのベッドしかないのを見ると、眩しくてあまりじっくりとは眺められなかった。
エイミーといつだって行動を共にするのが、この世界に来てからの私の過ごし方だったと思う。しかし、シモーネとの一件があってから――気の休まる暇がなかったのもあるだろうけれど、エイミーと二人でベッドに入ることはなかった。突然失われた習慣は、ただ空中をふわふわと漂って、取り戻すことも可能ではあるのに、私もエイミーも、まるで手を伸ばそうとしないでいた。それに、ただ習慣だけを取り戻しても、それがただ湖の上に張るような、踏んだら割れる薄氷と大差ない心もとなさを抱いていることを、二人して知っていただろう。
あの日。エイミーの必死の疑問に、私はなにも答えなかった。ヴェニスで過ごした花火の夜の、彼女の感情の爆発に、私はただ無言で答えたのだ。エイミーが花火を散らすのに、私はそれを反射する他ない黒い水面のように佇んでいた。――どうしていつだって、私が最後なのですか。彼女の寂寞の問いに答えられないうちは、もう二度と一緒には寝られないと思った。それを無視して頭を撫で続けるほど、私はエイミーに対して不誠実であれなかった。そう、不誠実では。もはやなにが誠実で、不誠実かも分からないわけだけれど――結局、二人の空間は用意されてしまった。あの抜け目ない宿主は、私とエイミーの不和に気付いてか気付かないでか――いや、たぶんなにかしらの変化に気づいて、始まりとなった二人の部屋を用意したのだ。だがそれを、ある種の機会だと思ったのも、私には事実だった。
私がエイミーを、最後に置いている。当然そのつもりなどなかった。私の意識の外だった。けれど、エイミーはたしかに感じたのだ、自分だけがいつも最後で、周りの誰かが私にとっての最初だと。私と共にあったこのしばらくの期間で、そうしたことがエイミーの中で積み重なったのだ。そして彼女の言葉で、私は実際、無意識の自分の行動に気が付いた。
やがて無意識の自分の行動の理由を考えるうちに、はっきりしてきたこともある。
――壁際の机に向かって、ただ輝石の光に目を薄めて、光が視界の隅で伸びるのを追っていた。その時に、エイミーは風呂を上がって、まだしっとりとした肌を照らしながら、部屋に入ってきた。ノックはなかった。この部屋は二人の部屋だったから、ノックは必要ないし、誰か――第三者が、先に入っていることもない。エイミーはちらりと私を見た。碧色をした瞳が、大きく私を捉える。
私は口を開けて、それでまた閉じるのを繰り返した。それをするうちに段々呼吸も難しくなってきて、空から急降下していくみたいに胸の辺りが痛んだ。私には、重い罪がある。エイミーに、死にたいとまで思わせた罪が。死にたいという感情が、それが瞬間的で一過性のものだったとしても、どれほど重苦しい衝動なのか、私は知っているというのにだ。
想像で、何度も自分を殺すのが、そういう願望の側面だった。うまくいかない物事とか、自分を突き刺すあらゆる事物とか、そういうことに振り回されて、まともに物も考えられない自分に苛立つ内に、どう死ぬか考える。そして自分が死んだら、誰がどう思ってくれるか想像する。エイミーが、そこまで追い詰められた理由は明らかだった。彼女自身も言っていた。それを聞いて私は、エイミーの私に抱える感情がどんなものか、分からないほど無邪気でも鈍感でもない。
エイミーはきっと、自分がどのようにしてか死んだあと、私がどう思うか考え尽くしたに違いなかった。あなたがいつだって私を最後に置いたからだと、だから私は自分で命の楔を断ち切ったのだと、そう伝えたかったに違いない。
自殺を考えることは、人生にとっての薬だと、誰かが言っていた。そう、実際、人生の途上で立ち往生をして、行き先もはっきりせず、なにか悪いことばかりが想起させられる時に、死ぬことを考えるのは、何かしら不安を落ち着ける効果を持っている。だが、もしそのように自殺を思うことが、人生にとっての何がしかの特効薬であるならば、そう、もし自殺の想起が麻酔ならば、自殺それ自体は、なんなのか。
夜空のちらつく星でもなく、真夜中の飛行機の音でもなく、悲哀に沈んだ川の流れる音でもないならば、なんなのか。
そうだ、自殺それ自体は薬ではない。自殺は、全てを解決する、万能な天国の道具だった。どん底に陥ったときに、手繰り寄せられる水の糸として、重苦しく洗練されて佇んでいる。私は、自殺の信頼に肩を預けた悲痛の時を、どれだけ細かく切り取っても覚えている。私には、エイミーにそれを味合わせたことが、なにより苦しかった。
息を整えて、エイミーに身体を向ける。座ったまま、俯いて、彼女の白い脚を見つめた。エイミーはきっとなにかを予感したのか、静かに細い呼吸をして、なにも言わなかった。
「エイミー、私はお城に行くけど」
「…………」
「私は、エイミーはここに残るべきだと思う」
「それは、菜月さん、」エイミーの声は最初かすれていた。彼女は取り繕うために、咳払いをして、スカートの裾を強く握り締めた。「報告が済むまで、竜巣で待機していろということですか」
私は首を横に振った。自分の髪の毛が首に触れて不快だった。エイミーが握った手を離す。ぱたりと腕が力を失い、首吊り死体のように項垂れた。
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