fifty-nine
「子ども、遺書、いずれも見当たりません。探すべきところは探したと思いますが」
「うん、そうだと思った」
ローゼが戻ってきて、改めて部屋の空気に不快な表情を浮かべた。
「存在しなければ推論が完成すると仰ってましたが、これでなにが分かるのですか、先生」
イルさんはローゼの報告を聞くと死体から目を離して、じっとローゼの灰色の瞳を見つめる。
「……姫のところへ帰ったとき、報告はどうするの。ローゼ一人で解決したことにできるの?」
「ええ、とりあえずは。信じてもらえるかは分かりませんが。……まあ、ルイーズ先生が謝礼を求めたりするのであれば、一人で解決したことにはできませんがね」
「お金はいらない。宿でじゅうぶん稼いでる」
「剣術と捜査ばかりか、経営も料理もできるんじゃ敵いませんね。……おっしゃる通りにしますよ、私が帰ってから報告するところまで指示してくれれば、きっと上手くいくのでしょう?」
ローゼの言い方には嫌味のようなものが篭もってもいたが、しかし同時にイルさんを信頼するような口ぶりでもあった。イルさんはローゼの顔を射抜くように見て、それでやがて薄い唇から声を発する。場に似つかわしくない幼い声だ。
「……これは自殺でも他殺でもない、ううん、あるいは自殺でも他殺でもある」
「茶番になるかもしれませんが、素人のような反論だけはしておきましょう。全ての戸締りがされていました、経路はありません、煙突も人が通る隙間はなし、形跡ももちろんなし。人の首を括らせる魔法なんてものは存在しないし、仮にそんな魔法があったとしても、カーテンが締められていました。原則として『見えていないところに魔法は撃てない』のですから、他殺は有り得ません。心中に見えます」
「女の子と遺書がなかった。一家心中するって時に娘がいたら、娘から先に手をかけるのが普通だと思わない? 両親のどちらかが先に死んで怖がらせてしまったら心中の計画はうまくいかない。そして仮に娘を残して両親だけで死ぬとしてもね、娘の行く先を案じず遺書も残さないなんてことあるとは思えない。手紙に書いてあったこの二人の印象と違う。自分たちが魔女に殺されたあとのことを相談していたんでしょ。娘はこの場で死んでない、そして遺書もない、単なる一家心中だとしたらおかしい」
「娘をここで殺すとは限りません。他所で殺して、死体を隠して、ここで二人は死んだのかも」
「いい、ローゼ、聞いて、私たちがまず自殺を疑うのは、全ての鍵が掛かっていたし、犯行の経路がなにひとつないから他殺を疑えないことにある。けど、簡単なことだけど、鍵をかけて去るなんてことは、家主が死んでいればそんなに難しいことじゃない、鍵を持ち去ればいい。だからこれは密室殺人なんで大層なものじゃない――と言いたいところだけど、ローゼ、でも反証を隠してるよね」
言われたローゼは、あからさまに目を薄め細めて不満を表した。降参したように手を挙げて、それを顔の横でぱっと開く。そこには真鍮の鍵が二本握られていた。
「はい、鍵は家の中に」
「うん、だから鍵をかけたのはいなくなった娘だね」
空気がしんと沈んだ。急に陰ったように部屋が暗くなったのは、カーテンが風に煽られるのを一瞬止めたからだった。
「私が鍵を持っていること、どうして分かったんです」
「遺書を探していれば見つかるものだから」
「鍵は家族の人数より多く、四本以上あったかも」
「うん、それはそうかもしれない。ここばかりは私の経験に頼るしかない」
死体のそばで、糸をほどくように、イルさんがすべての疑問符を解消していこうとする。
「……娘が自発的に鍵を掛けて出ていったかは分からない。でも話に聞く限りの、シモーネという人がやりそうなことはいくらか思いつく。つまり、いまある事実を全て真実だとした時にね、見えてくる出来事があるの」
イルさんが呼吸を挟むと、ローゼが色のない視線で私を見つめる。
「――菜月、付いてきてる? 貴女にも関わりがあることよ」
ローゼの問い掛けに頷くと、イルさんはさらに続けた。
「とりあえず、ここの夫婦には何らかの不和があったと考えるのが自然。手紙に書いてあったようにね。二人が楽器をやっているのは身体的な特徴から明らかだから、どこかのオーケストラで人間関係上のいざこざがあったんだろうと思う。手紙の『マエストロがどう』という話にはひとつ心当たりがある。ローゼも知ってるよね。指揮者のことで揉めてる楽団があるのは、いまやどこの新聞でも書かれてる有名な話だから。老マエストロと若い指揮者の権力争い、伝統的で保守的な指揮者と、新進気鋭、テンポがまるで楽譜通りではない新しいカリスマ指揮者、オーケストラは二人のどちらを支持するかで揉めていて、特に誰かのなんとかって曲をどちらが指揮するかについては、だいぶ紛糾したらしい。夫婦はどちらも同じ楽団に属しているけれど、支持は割れた。およそ、よくある話に照らし合わせれば、女の方がどちらかの指揮者に肩入れして、男の方がそれに嫉妬、もう片方の人間を支持したんじゃないかな。もちろん逆だって構わないけどね。とにかく、他所にまで聞こえる夫婦喧嘩はそうして始まった。犯人が何に目を付けたかは分からないけど、もしかすればオーケストラの不和は報道されるよりずっと深刻だったのかもしれない。何かしらの問題が起きそうだった。あるいはもう起きていた。それで、もし犯人がシモーネなんだとしたら、彼女はたぶん、この家の娘に同情してしまったんじゃないかな。それでこの夫婦を制裁してやろうとした」
私たちは、じっと聞き入っていた。イルさんはまるで全てを目の前で見てきたかのように語っている。普通だったらこんなもの当たるはずもないが、指摘を入れるような箇所は思い付かない。現状存在する物事が全て真実なら、という仮説ありきではあるが、それにしたってこの少ない事情だけで、ここまで説明を付けられれば反論は思い付かない。事件現場を見ただけ、話を総合しただけ、反証はこれからいくらでも出てくるかもしれないが、私の頭では到底辿り着けそうもない仮説であることは間違いないように思えた。
「私は菜月ちゃんとエイミーから、シモーネという人のことを聞いた。運命が生み出したのは黒い魔女なんかじゃなくて、赤い魔女だったって私は思うんだ」
イルさんはそう言って、私を見る。私は急に自分が恥ずかしくなって、俯いた。
「シモーネ・ベルは世直しの手始めに、大きな諍いを探して、オーケストラの指揮権争いに目を付けた。解決を目論むうちに、この家庭のことを知る。別々の指揮者を支持し合い、いがみ合う夫婦をね。そしてそこには可哀想な娘もいた。色恋に巻き込まれる子供ほど惨めで哀れなものはないから、同情屋のシモーネは放っておけなくなった。けれどどうする? 菜月ちゃんやエイミーから話を聞いて、私がすぐに感じたのはね――ローゼ、ローゼも気付いているかもしれないけど、シモーネ・ベルは行動力に溢れているのに、一方で――」
「慎重さに欠けている」
言葉を引き継いだローゼに、イルさんは頷かなかったが、目を閉じて肯定した。
「計画的な行動なんてものとは程遠い人。私は散々色んな人を見てきたけど、こういう人種は大概、大掛かりで厄介だけれど、ぼろも多くて欠陥だらけの犯罪をする――」
身体が強ばるのを不意に感じた。イルさんの声が遮られる。
遮ったのは自分の声だった。
「シモーネは――」
自分でも意図していない声が出て、緊張の汗が首筋を通るのが分かった。イルさんが私を見つめる。
「シモーネは、そんなに愚かですか」
「愚かよ」私の問いにはすぐに、ローゼの澄んだ声が飛んでくる。彼女が腰に差す刃のように鋭い声だった。「なあに、庇いたいわけですか、これをやった人を」
死体に指がさされる。ローゼはぞんざいな仕方で死体に接した。私はまともにその先を見れずにいた。見ても見なくても、もう脳裏に焼き付いている。自殺の末路だ、私が欲し続けた自殺の。視線を床に逸らして落とす。黒い染みが、暗い木目に見える。私の罪の色だと思った。唇を噛むと、それに気が付いたのか、ローゼの声はいくらか穏やかさを帯びて、私を諭すような色に変わった。
「これですよ、これ。よく見なさいな、いまに圧迫されて目ん玉も転がり落ちてくるから。――大方ね、オーケストラをどうこうしようと考えているうちに、この家の哀れな状況を憂慮していたら、なにがなんだか分からなくなって、ただ娘だけを救おうとして、その結果がこれ。オーケストラのでかい問題は後回し。目の前の物事に思考を支配されて、衝動と同情だけであんよが動いてる。そういうのを愚かじゃないと言うのならなに?」
言い返す言葉はない。イルさんが事件の流れを説明するのと同じ力がローゼの言葉にも働いていた。しかし、それはただたったいま知ったようなことというわけでもない。私自身似たようなことを彼女に思っているのだ。――ハンス辺境伯や自身の父親を殺すことを判断した人だから、何をしたっておかしくはない。はっきりとした自意識を持っていて、それでいて自分の怒りや悲しみや矛盾に敏感だった。そこから発せられる衝動的な行動。夜中に私の部屋へやってきたのは、まさに彼女のそういう部分の表れだった。
イルさんはゆっくり頷く。
「……残念だけど、ローゼの言う通りだと思う。別にシモーネという人を愚弄するつもりはないよ。でも罪は罪、罪における愚かさは愚かさ。人格どうこうじゃなくて、私はいま犯罪について論じてる。菜月ちゃん、分かる?」
「はい」
「でもその愛情だけは忘れないでいてね。シモーネを救えるのは菜月ちゃんの、そういう美しさだけだと思うんだ」
頷く他にはなかった。エイミーの気がかりな視線が私を刺しているのを頬で感じる。エイミーが不意に視線を逸らして、イルさんの方を見た。
「けれどこれは、どのようにしてやったのですか」
「二人の首を縄に掛けた方法は、経験上いくつも思い付く。人の良心をどこまで傷付ければ、その人は死んでしまうのか、私たちは感覚のみで知っている。この家に入ることは容易かったと思う。黒い魔女の到来を示唆すれば、家族はただ黒い色にだけ怯える。赤い髪と白い服の女にはまるで警戒しなかった。招き入れてしまって、それで始まったのはおどろおどろしいほどの尋問だったかもしれないし、娘や世間にすべてを打ち明けるという脅迫だったかもしれない。少なくとも、この夫婦にやり直す時間は与えられなかった」
イルさんの説明をそのまま信じるのなら、シモーネはこの二人に、死んだ方がずっとましだと思わせたのだ。椅子に座って、二人を、目の前で、じっくりと、焼き切る視線で見つめて、罪を認めさせた。彼女の燃えるような赤い髪はその時彼らにどのような印象を与えただろう。赤い瞳はなにを彼らに示唆したのか。
シモーネとの夜はいやに扇情的だった。彼女は演技をするうちに男を喜ばせる手段を覚えて、それを私を喜ばせるために使った。抱いたとも抱かれたとも言えない夜だった。浮ついた空気はひとつも無く、暗闇にただ蝋燭が点って、溶けた蝋が床に、音も立てずに落ちる。温度の低い熱は、じっくりと床の木目を焼いて、やがて家全てを、周囲すべてを燃やし尽くす業火と化す。彼女にいまここで死ねと言われたら、私はあの時死んでいたっておかしくなかった。原罪という言葉に似た響きを、シモーネ・ベルは他人に与える。
彼女を、こうなってしまった彼女を止められるのは、本当に私なのか。愛情をいつも誤解している気がする私が、その言葉で。
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