sixty-one

「首を振らないでくださいよ、じゃあ、どういう意味なんです? ここに残るというのが、そうでないとしたら――」

「――旅を終わりにしよう、これで」

「は?」


 エイミーの細い青毛の隙間から瞳が覗き、その目元に、窓際の鳥の羽のような影が走った。私は一息に息を吸う。


「折も、折でしょ。一通り、やることはやって、エイミーも魔法使いとしてできることも増えて、クライネさんのおかげで魔術師にも一歩近付いた。たくさんお仕事もしたし、私のこういう活動は、やっぱり真面目にやってたら姫みたいな人に評価されて、手助けして貰えるんだってことも分かった。今回はこういうふうになっちゃったけど、これが解決したらまた一からきっとできるようになるし、もうやり方も覚えた。だから私一人でもやれる。エイミーも、きっとこれから勉強がたくさんあるだろうし、ほら、ちょうど、なんとなく切りがいい時にさ、竜宿、戻ってきたじゃん。イルさんすごい嬉しそうだったから、やっぱりエイミーと離れたくなかったんだよ。色んなところに行ったし、船に乗って世界樹も、港町も見た。旅の目的はさ、ある程度、果たしたでしょ。だから、ここでおしまいにしよう。終着地点にしよう、二人の。始まったところに帰ってきたこの今に」


 すらすらと澱みなく、言葉は、エイミーの顔色も伺わないまま出てきた。ずっと考えていたのか、あるいは一瞬のうちにすべて思い付いたのかは全く分からなかったが、少なくとも、ありとあらゆる言葉がいまの私の本心のように思えた。


 あまりに長い時間が経った気がして、ふと顔を上げてみると、エイミーはじっと私の目を見つめていた。その視線には湿度もなく、彼女はまるで心のひとつも動かされなかったかのように佇んでいる。目が合った途端、エイミーは息を吸った。


「菜月さん、菜月さんはやはり忘れているのですか、私に掛けた言葉の数々を」


 エイミーの喉から発せられたか細い声は、いつもの下から疑るようなものではなかった。


 私はその声で、突然夕立に降られたみたいな心地になった。いつもいつも、自分のことで精一杯になって、大抵の場合、それが他人の仕業であるということも相まって、その人が実際にはどんな人だったかというのを、ついに忘れてしまう時がある。私は、エイミーが私との関係でしか存在しないと錯覚するわけだ。だがエイミーはエイミーでしかなく、彼女の頭の中にも、常に客観視された私がいる。当たり前の暗い事実が霧雨となって、私の身体を芯から冷やしていくような気がした。


「またそうやって一人で決めてしまうわけですか。私のことなんか一寸ほども考えずに。菜月さんが私について語って全てのことをいま申し上げましょうか。『一緒にはいられない』、『旅は終わりにしよう』、このふたつですよ、ふたつ! 菜月さんの言ってくださったことが、全部私に対する否定だなんて、考えるだけで身が凍えませんか」

「そんな……私、エイミーにたくさん――」

「仰ってくださいましたか? 思い出せますか、いま挙げたふたつのことの他に。それは、大きな、金槌で殴るような重い否定よりも、たしかに多かったのですか?」


 私はなにも言えず、口を閉じた。私は、頭の中で思うだけで、エイミーには少しも語らなかったのではないか。姫やシモーネにしたような軽口を一切せずに、ただこういう折にだけ、重要なことだと言って、否定を投げ掛けまくっていたのではないか。


「私の耳鳴りの原因は、菜月さんではなかったですけれど、一度忘れさせてくれたのに、もはや忘れさせてはくれないから、それさえ菜月さんの仕業になってしまいました。私は、こんなに、すべて、菜月さんに日々を覆われて――、いえ、……けれど、言ってくれたこともありましたね。『好き』と。でも、菜月さん、考えてみてもくださいよ、たった一度の好きが、一体どれほどの効力を及ぼすと? どれくらいの期間、それに縋っていられると? そういう、嘘か本当かも分からない、刹那的な愛の言葉に」


 愛という単語が聞こえて、私の身体は少し震えた。エイミーは目敏くそれに気が付いて、小さく微笑んだ。


「きっと、愛という名のつく人なのでしょう。菜月さんの大切な人は」


 私は慌てて首を振る。嘘などつきたくなかったけれど、肯定してしまいたくもなかった。だがエイミーも折れない。


「いえ、最初に私を間違えた時、愛と呼びました。それに、私の名前の中にも『アイ』と付くことを聞いて、どれだけ落胆した顔をしていたか、私ははっきりと覚えています。愛という明らかで、それでいてごく普遍的な単語が、菜月さんの前にちらつくとき、いつだって目を逸らしてなんでもないふうを装って、まるでなにもない空間を見つめていました」


 エイミーは息を吸う。肺が膨らんで、胸元が苦しそうに反応した。


「私を、初めての初めてにして欲しいのです。愛さんのことを教えてください。私と同じ顔をして、時折私と同じ仕草をする女の人のことを。あなたが誰よりも好きだったその人のことを。――もし、私が菜月さんにとって、その人の代わりでしかないとしても、たとえば、もし私がその人に何ら似ていなければ、いまこうして話をしてさえいなかったとしても、それでも、私は、あなたの大切な人になれたならよかった。私がいつだって最後なのが、そこに理由が、あるとするならば、私はある程度、幸福なんです。そういうことを伝えて欲しいのです」

「……一緒に旅をするとか、同じ、部屋で眠るとか、そういうこと、好きでもなんでもない人とするような人間じゃないよ、私」


 私は思わず反発したが、エイミーは俯いて、ゆっくり首を振った。


「ええ、そうかもしれません。でも、私に伝わったのは否定ばかりです。伝えなくても伝わると、そう思っているのですか。私はイルさんのように鋭敏でも、姫さまのように生まれた瞬間から愛され続けたような女子でもないんです、言ってくれなきゃ何も伝わりません、自分のことに自信もありません」

「これだけ、行動で示したって伝わらないなら、言ったってきっと信じてくれないくせに」

「でも、浮かれはしますよ。否定が金槌のように重いのなら、肯定は羽毛と相違ないのです。風に飛ばされて消えていきます。だからその度言ってくれなきゃ、鈍痛だけが後頭部に遺り続ける――信じないんではないんです、優しすぎるので残らないのです。両親のことを思い出そうとしたって、死んだあの日の張り付いた表情しか浮かんでこないんです。無条件で愛してくれなんて言いません。条件付きなら条件を教えてください。私はなにも菜月さんにお返しできていないのです。――行動、行動と言いましたか。行動がいちばん信用なりませんよ、とりわけ菜月さんの行動は! もしあなたの行動を信用するなら、私よりも、姫さまやシモーネさんの方がお好きなんでしょう」


 隣の部屋の扉が閉まる音がした。誰かが廊下を歩いて、下へ降りていく。その足音が遠ざかるのを、待つ必要もないのにふたりで待っていた。――エイミーの自白は、私の臓腑に、湯煎されて溶けたチョコレートのように落ちて、胸を熱で焦がした。それで思った。私は彼女に対して実に誠実であろうとして、結果的に不誠実であったのだ。


 姫君に、シモーネに、愛を語った時、それが本心かどうかよく考えた。だがそれ自体が愛の論駁だった。愛は被疑者にならない。本心に疑いは生じない。私は自身の感情がなにかを、理屈で説明しようとした。だがそれ自体誤謬だった。


 エイミーになんら伝えることができなかったのは、ないし、しなかったのは、私の中でもはやそれを言葉にする必要がなかったからだ。口内で氷を噛んで、その固さと冷たさを確かめる必要もなかったからだ。しかしそれ故にエイミーを、蜘蛛の巣の張る薄暗い部屋に閉じ込めた。静寂で耳鳴りを誘発した。


「愛は――」私は唾を飲んだ。愛のことを語るのは、難しかった。エイミーが、両親のことをもはや死の瞬間でしか思い出せないと言ったのと同じように、私もまた、愛をあの瞬間でしか思い出せないのだ。「たしかに、あなたに似てた。でも、少しでも言葉を交わせば、少しも同じじゃないことが分かった。愛は、溌剌で、生きていくことや、運命に、なんら疑いを持っていなかった」


 言いながら浮かんできたのは、愛もまた、エイミーと同じような残酷な経験に曝されれば、ああ生きてはいなかったのだろうかという疑問だった。


「私のことを、常に気にかけてくれていて、私はあの子がいなければ空っぽだったけれど、そういう私の空いた穴を塞ごうとしてくれたり、水を注ごうとしてくれたのはいつもあの子だった。雪みたいに現れて、世界全部白銀に染めて、時おり熱風が吹いて全部溶かしていく。私にとって愛は嵐だった。平穏とは真逆の女の子だった。それは私の生き方があまりにも希釈されすぎていたからそう見えていただけかもしれないけれど、いずれにしても、急に喪うにしては、私の人生には彼女は重かった」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る