fifty-seven

「音楽家は各地を飛び回るから、交通の便がいい竜巣に家を持ってるっていうのは珍しいことじゃない。珍しいことじゃないから、探すのはちょっと難儀するかもね」


 かつて三人でお酒を飲み交わした竜巣のカウンターで、探している一家の話をイルさんにした。私とエイミーの前には林檎を絞ったジュースが出されている。氷で冷やされ結露したグラスが水滴を零して、机の木組みに染みていた。


「やっぱ難しいですか? でも、その手紙には、『マエストロ』って言葉くらいしか手掛かりがなくて」


 イルさんに隠しごとをするのは無意味なので、大まかな事の流れはすでに話していた。私の行いが何か不穏なことを招いていることを、彼女は一切責めなかった。むしろ同情するみたいに、私の話と、その手紙のことを聞いていて、今は一緒にことの成り行きを憂いてくれている。


 マエストロといえば、たいていの場合はオーケストラの指揮者を指す。要は「大先生」の意味だから権威があるし、それゆえそう呼ばれる人はけして多くない。それ自体を探すのは、それほど苦労しないだろう。だが、だからといってマエストロと話題に出す人を探すのは簡単ではない。彼らがオーケストラの構成員とは限らないし、オーケストラの構成員だったとて、その人数自体が多い。まして、マエストロが本当にオーケストラの指揮者のことなのかという点においても、確実なことは言えなかった。作家でも演奏家でも、敬意を込めて、あるいは愛称としてそう呼ばれることは少なくない。


「……そうだね、だから、探すんだったら」


 手紙から顔を上げて、イルさんは言った。


「いっつも物を投げあって言い合いしてた家、これを探した方が早いかも」


 私は思わず「わあ」と言った。マエストロという特殊な手掛かりに引っ張られすぎていたが、そうだ、夫婦仲が悪くて喧嘩の多い家は、よく目立つ。物を投げ合っていたというのだから、近所にも聞こえていたはずだ。そっちを手札に探したらいい。聞き込みを繰り返していったら、いずれ見つかるだろう。音楽家を探そうと走り回るよりはよっぽど簡単なはずだ。盲点だった。隣の家に住んでいる人がなんの職業に就いているかなんて大抵の人にははっきりしないわけだから、その方がよっぽど効率がいい。


「とはいえ、竜巣も人が多いです。広くはないですが、色んな人が集まりますから、探すなら早い方がいいかもしれません。森の奥に住んでたりしたら厄介です」


 私たちがそうして話していると、不意に竜巣の扉の鐘が鳴って、人影が扉をゆっくりと開いた。イルさんはカウンターから身体を起こして、そちらを見つめる。私達もくつろぎすぎていたので、少しだけ気まずくなって、なんとなく意味のない咳払いをした。カウンターに変なのがたむろってると思われるのも竜宿のイメージに良くはないだろう。


 だが、扉を開けて入ってきた人のが単なる宿泊目的の客ではなく、私のよく知る人だったので、少なからず驚きを隠せなかった。だが、エイミーとイルさんは、私以上の反応を示した。驚き、というよりは、時が止まったみたいな呆然を浮かべていた。イルさんはじっと黙り込んだ。エイミーはこくりと喉を鳴らして、生唾を飲み込む。


 入ってきたのは、黒い鎧を着たローゼだった。


「え、ローゼじゃん」

「…………」


 ローゼは私の顔を見て、冷たい溜め息を吐く。その表情は、ほとんど死人みたいに白かった。その灰色の瞳から視線が、イルさんに注がれた。


「こんなとこにいらしたんですか、先生」

「……ローゼ、」


 イルさんとローゼが空気を挟んで見つめ合う。ローゼは何度も厭わしそうに息を吐いた。ローゼがなぜここに現れたのか、そして現れたとして、どうしてこうも空気が冷え切って凍り付くのか。そしてローゼはいま、確かにイルさんに向かって「先生」と呼んだのか、問いたくても問えなかった。声を発せる状況とは思えない。


「……なんでここが分かったの?」

「シモーネ・ベルの消息を追う過程で、竜巣に変な動きがあることを知りました。同じものを追っているのだから、きっと菜月や青髪もここに戻るだろうというのが、姫の予想です」

「……ああ、それで、竜巣にいたことまでは掴めていたけれどそれ以上のことが分からなかった菜月ちゃんやエイミーを、待ち伏せして尾けたわけ?」

「おっしゃる通りです、まあ二人を匿っていたのが先生だったのは、予想外ですが。こういうのをクローゼットから焼き菓子と言うんですかね。しかし論理的なのは衰えませんね、先生」

「ローゼ、先生と呼ぶのをまずやめて」


 話は途切れ、沈黙が流れた。私は意を決して、口を開く。


「クローゼットから焼き菓子ってなに、棚からぼた餅と一緒? ローゼってイルさんと知り合いなの?」


 こういう時、空気が読めないふりをすることは、割かし難度の高いことだったが、これが通じたのは、あれが高校の教室だったからだった。「ああ菜月は仕方ないよね、大丈夫だよ」と声を掛けてくれるのは何故か私を甘やかすクラスメイトだ。


 だが、イルさんやローゼは、そういう人々ではない。そういう小手先の会話に引っかかる人たちではない。結局答えたのはエイミーだった。


「菜月さん、黙っていたわけではありませんが――イルさんは、私の村の捜査を担当してくれた、憲兵さんです」

「えっ」イルさんを見る。「ほんとに?」


 イルさんは視線だけで私に返事をした。


「じゃあ、姫のことも知ってるんだ」

「知ってるもなにもね、あなた」ローゼが言う。「ルイーズ先生は王国憲兵の分隊長で、私の直属の上司ですよ。教育係でもあった」

「元、を付け忘れないで。もう憲兵じゃない」


 それでローゼと知り合いで、先生と呼ぶ間柄なのだ。イルさんの眼差しの鋭さや、察しの良さも、これで納得がいく。そういえば、そういうのが仕事だったのだといつぞや言っていた気がする。仕事にしていたからそれができるのか、それができたから仕事にしていたのかはともかく、やはりただ者ではなかった。


 エイミーとの関係も、エイミーのことをやたら気にかけていた理由も、これではっきりした。細かい事情は分からないが、イルさんは両親を喪った直後のエイミーを知っているわけだ。


 エイミーが姫の前で竜巣のことを話したがらなかったのも、イルさんが自分の居場所を隠していることを知っていたからだろう。


「……ローゼ、私はローゼが私の敵だと思いたくないよ」

「先生、それは私も同じ気持ちです」

「でも、ここに私がいることは、姫に伝えるんでしょ?」


 ローゼはちらとエイミーの方を見た。その視線の意味も分からず、私は空気みたいに話を聞いているしかない。


「先生にも事情があることは、存じています。私たちの前から唐突に姿を消してしまったことも、納得していないわけではありません。……もし、あなたがここにいらっしゃることを、私が姫に伝えなければ、背任です。しかし背任をして、即切り捨てられるほど、あの姫君から嫌われているわけでもありません」

「……なら、条件は?」

「相変わらず話の早い方ですね、手紙の差出人捜しに付き合ってください。竜巣から出る必要はありません」


 イルさんはほんの一瞬だけ眉を歪めて、すぐに息を吐いて頷いた。


・・・・・


 待っていて、と言われて、ローゼとイルさんが二人で外に出て、それからジュースを飲みきらないうちに、二人は帰ってきた。


「家の場所、掴めたよ」

「えっ、もう?」

「菜月、こちらは王国憲兵の先生ですよ。これくらいモーニングティーを飲む前にもできる」

「ローゼ……!」


 言われたイルさんが珍しく頬を赤らめて、ローゼの脇腹を小突いた。


 イルさんは竜宿を出て、数歩もしないうちに話しかける人を決めて、たった三人に聞き込みをして、それで位置を特定してしまったらしい。そうローゼがどこか喜ばしげに話した。彼女はもしかしたら、相当イルさんのことを慕っていたのかもしれないというのが、彼女の態度で分かった。そして、憲兵時代の関係も、きっと悪くなかった。


「これから現場に行くけれど、魔法使いに付いてきてほしいのですよ、シモーネがいたら私たちじゃ対処しようがないので」


 ローゼが言う。頷くと、私は杖を持って立ち上がった。エイミーも席を立ち、竜宿を出る。ローゼが剣の鞘をくるくると弄んで通行人をドン引きさせているのを、私たち三人は後ろから見ながら、付いていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る