fifty-six


「読んでみな。なにが始まったのか、それでよく知るといい。正直に言えばね、ただ姫君が書簡を送ってきただけじゃ、ここまで招かなかったよ」


 私は切られた封の中から一枚の便箋を取り出して、それからそこまで重い意識もなく開いた。しかし手紙は、お願いします、助けてくださいという、悲痛な叫びから始まっていた。


『お願いします、助けてください、魔女にパパが殺されます。私のパパとママはいっつも喧嘩をしています。マエストロがどうとかで、いつも私の前で物を投げあっていました。それが最近止みました。二人とも、とつぜん怯えた顔で、いつも家の戸締りを確認するようになって、それで、私をどこに預けるかと、そういう相談を始めました。寝たふりをして、こっそり部屋を抜け出して、パパとママの話を聞きました。パパが、命を狙われているそうです。それもこれも全てあなたのせいよとママが言い、被害者面はやめろとパパも言い返しました。どちらが悪いのか、私には分かりません。でも、パパの命が狙われていることに変わりはありません。理由は悪いことをしたからだそうです。狙うのは黒い魔女だと聞きました。町の人に聞いたり、新聞で、その魔女のことを調べました。悪いことをした人を、魔法で殺すそうです。お願いします、助けてください、お金は、きっと返します。パパとママを助けてください』


 読んでいるうちに、何度も顔を上げて目を逸らしたくなった。エイミーは私の手元を横から覗き込んでいたけれど、彼女も私と同じ不快感を抱いたようだった。細い眉が訝しげに顰められる。


 ……これは、だから、つまり、また、私が変に、私の意図しないところで、不穏な影として扱われていることを示す、新たな証拠なんだろう。


 新聞屋が悪いばかりでもない。差し止められた新聞の噂はたちまち広まって、伝聞されて歪められていく。百パーセント上手くいく伝言ゲームなんか存在しないのだから、いつの間にか、私がサイコキラーになっていたっておかしくない。愛の事故でさえ、最後には私の責任だと思われることさえあったのだ。


「事実かね、お前はとある一家の崩壊を目論んでいる」


 老婆が問う。私はすぐに言い返した。


「そんなわけ――、どうしてどこぞの家庭のことに首を突っ込んで、そこの父親を殺すんですか、なにが好きで」


 私の言葉を聞いて、老婆は乾ききった笑いを落とす。失笑混じりの不快な音だった。


「だがお前は実際、辺境伯の屋敷に押し入ったではないか」

「…………」


 それは、と反射的に言い訳をしようとしたが、結局口を噤んだ。いま思いついた私の全ての言葉には、絶望的に、絶対的な反論が存在する。


「ああ、黙れるか、馬鹿ではなさそうだね。そうだよ、可哀想な奴隷を助けるという名目があったとしたってね、奴隷も人の物だ、結局は救う側の都合だ。その手紙を送ってきた家にも奴隷がいるならば、お前は自由に踏み込んで、父親を殺してもいいかね、違うだろう。もしかすれば、辺境伯を殺したことで、その家の父親が職を失い、路頭に迷い、悪事を働いたのかもしれない。人助けや世直しとはね、そういうふうに、いつだって波風を起こすものなのさ。共和国ギルドがやっているのはそういうこと、お前さんがやっているのもそういうこと、お前さんが助けた奴隷がやり始めたのもそういうことだ。自分のまいた種で落ちぶれた人を、自分の手で救いあげて救った気になっているだけなんだ。元はと言えばお前が中途半端に手を伸ばしただけなのにね」

「――私は」

「なんだね」


 老婆の瞳が光る。肺の中に、高所の薄い空気が充満していた。エイミーが私の方を見る。じっと見つめる、この子はもう私がしでかす全てのことがなんなのか、分かりきっているのではないかと思う視線だった。


 老婆の言葉が脳内で反響する。しっかりと、一文字一文字、私の脳に突き刺さっていた。そう、だが――、だが、もう、そんなこと、散々考えたのだ。


 エイミーにも問われたし、ローゼにも問われた。変なのは、人を救うことを、なぜだか自らの役割だと信じている私だ。それでいて、姫で、シモーネだ。おかしなことだと分かっている。なぜ救うのかも分からずに手を伸ばして腕を握って、それが最後には自分の手から全て離れていって離れた勢いで何か途方もないことが起きるのも、もう覚えた。誤って足を踏み入れた花壇とか、コーヒーを落とし零したノートとか、私の目の前にはいつもそういうのが広がっている。愛は私と仲良くしていなければ、あの日あの時間あの交差点にはいなくて、車に轢かれて死ななかった。理屈は、散々考えようとした。


 でも――結局、私はいつだって感情の虜なのだ。感傷という一族の末裔だ。ローゼにも言った。そこで立ち止まっているくらいなら、人だって殺す。世界だって滅ぼす。そこに見栄はない。酔狂と思われても、別に嘘じゃない。


「――私は、説教をされるために、ここに呼ばれたんですか」


 憂いで響く。朝の白んだ空気に似合わない私の声が、窓から木々に吸い込まれていく。老婆は私のいる方角を、じっと白い目で見つめる。


「ああ――」


 やがて、大きく空を仰いだ。壮大な交響曲を聴いて、嘆息を吐くみたいに、背をもたれた。


「――やはり生意気だったね。どうしたらそんな歳で、老人みたいに世が厭われるのか聞いてみたい。だが今はどうでもいいことだ。そうさ、説教するために呼んだわけではない。それを言い出したら、我々が竜を退治することにだって理屈が付かないからね。ただ、そういうことに手を出すやつが、想像よりずっと仕様もない女だったら、情けないから殺してやろうと思っただけだよ。――手紙は読んだね。お前の名前が出てきたなら、もしかすればシモーネ・ベルと無関係ではないかもしれない。文体は少女のようだが、筆致は大人のものだと聞いている。おそらく代筆だろう。字も書けん小娘が手紙を送ってきたわけだ。まあ、字は私も書けないが――。消印は竜巣になってる。『マエストロ』と言う言葉があったね。竜巣で音楽家の一家を探すのがいいだろう」

「竜巣ですか」

「ああ」

「私たちに、行かせていいのですか」

「シモーネ・ベルを追うためにここへ来たんじゃないのかね」

「ああ、いえ、そうなんですが」

「まあ、そうさね。言いたいことは分かる。我々がお前さんを信頼できない理由や、消してしまいたい理由はたくさんある。ただで依頼をこなされちゃ、こっちも商売上がったりだし、共和国ギルドの奇妙な動きも誘発する、姫君はお前に肩入れして仕方ない、癇に障って仕方がないからね。それでも面倒を見てやると言っているんだ、厚意に甘えたらいい。有能な魔法使いが好きなんだよ、分かりな」


 老婆はそれを言ったきり、目を閉じた。私は素直に頷いて、すぐにまた気が付いて「はい」と言った。


 私たちは、なんの巡り合せか、また竜巣に舞い戻ることが決まった。手元にある手紙の文面を、繰り返し目で追う。なにが起きているのか、それは分からないが、これにシモーネが関わっているのなら、さっさと向かわなければならない。


 ここから竜巣まではそこそこの日数がかかる。休むのは船上でも可能だろうから、すぐに大ギルドの世界樹を後にすることにした。他の魔法使いからの視線で居心地も悪かった。


「イルさん元気かなあ」


 私がぼやくと、エイミーは小さく笑った。


「身体だけは丈夫です。でも、私がいなくなって寂しくなって気が滅入ってる可能性はあります」

「大いにあるね」


・・・・・


 音楽一家を探す前に、私たちはまず当然のように、竜宿の扉を叩いた。イルさんに会いたかったというだけでもない。人探しをするのに一躍買ってくれそうだったからだ。


 約束も無しで訪れたので、イルさんの驚きようと言ったらなかった。私の頭の中では、イルさんはもっと大人びていたけど、実際久しぶりに会ってみるとずっと幼い顔立ちをしていて驚いた。短い銀髪を無理に後ろで束ね、小さな尻尾を作っているのも幼い女の子みたいで、驚きで開く水色の瞳がやたら無邪気だったのもその印象を強めた。


 この人に好意を持てたのが、もう竜巣を出る最後の時だったのがもったいなかった。素直に接したらとんでもなく優しい人だったのに、酷いくらいに反発をしてしまってた。イルさんは、そういう私の変化した感情にやはりすぐ気が付いて、桜を散らすみたいに微笑んだ。エイミーに抱きついていた手をほどくと、私にも両手を広げた。難しかったけれど、おずおずと近づいていって、イルさんの細い腰に腕を回すと、これがなんでだか分からないけどものすごく安心して、自分を知ってくれている人、という、本当だったら逃避したくなるようなことが、とても嬉しかった。


「おかえり、がんばったね」


 イルさんは優しく私の耳元で言った。なにが起きたか全て知っているみたいな口ぶりだった。


「……はい」


 がんばった、のかもしれないけれど、むしろ、がんばったのみだったかもしれない。罪を犯して、罰をまだ受けていない、そういう浮いた不快感が、私の身を襲い続けていた。だから、この柔らかい抱擁をただ手放しに受け入れるのが、私にはまだ難しかった。

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