fifty-five


 観光などせず、早くここに来るべきだったと悟ったのは、ヴェニスを去ってからすぐのことだった。


 ――竜巣は巨大な洞窟をくり抜き、町にしていた。それさえ私には驚愕すべきことだったけれど、大ギルドはどうだったかと言えば、世界樹とも呼ばれる巨大な樹木を、そのままくり抜いたり建材をあてがったりして、一つの街のようにしていた。


 世界樹の外周を回ってくるのには一時間弱ほどかかるらしい。とすると5キロくらいの円周はありそうだった。見上げる先は果てしなく、枝葉は雲に隠れたり、そうでなくても青白く霞んで見届けられなかった。王国側の大ギルドは文字通り世界中に根を張る巨木を、自らの拠点としているわけである。


「世界樹が枯れれば、地が割れると言います。この大きさですから、その根深さも果てしないのでしょう」


 エイミーがぼんやりと言う。


 ぼんやりとしてしまうのは、見上げていると首が痛むからだった。世界樹は――ギルドの本拠地は、圧倒されるのに十分な大きさを持っていた。自然にこんなものが生まれるのか不思議だったが、人間があえて造ろうとしたってこの大きさは無理だ。だから私の目に映った物体としては、生まれて以来の最大で、おそらく死ぬまでに見る物の中でも最大だろうと思った。大ギルドとは名ばかりではない。名も体も実態も壮大だ。


 誰もが魔法使いを志す、少年少女はいつだって魔法使いに魔法を教わりに行く。小ギルドに跋扈していた大男たちでさえ、剣術を練習し肉体を磨く傍らで魔法典片手に暗記を欠かさない。しかしそこまで情熱を燃やしても、大ギルドで依頼を受けられるようになる頃には、足腰が弱っているのが常だという。それどころか、もしかすれば一生小ギルド勤めだってあり得るし、ローゼやイルさんみたいに、まるで魔法を使えない人々も少なくない。私とか、たとえばクライネやシモーネもそうだけれど、そういう「若いの」が魔法を自由に操ってお金を貰って生きるのはごく稀な話らしかった。それを聞くと、努力というのとは程遠い形で魔法を扱えるようになってしまったのが、申し訳の立たないことだと思ってしまう。血も滲ませず、人々が求めるものを手に入れてしまったわけだから、いつかきっと跳ね返りが来る。見習い魔女みたいに、突然ほうきに乗れなくなったり、猫の話し声が聞けなくなったりするんだろう。


 大ギルドの入り口に立っていた老人は、私とエイミーを見るなり、皺の寄った表情を尖らせて頷く。私の服装と杖を見比べて肩をすくめたようにも見えた。顎をしゃくって促す老人に従って中に入ると、やはりどうも不思議な気分になった。植物の中に入っていく経験などなかなかない。


 木組みの階段を上がる。内部は湿った木材の香りで充満しており、図書館みたいに本でいっぱいだった。階を上がれば食堂があったり、出店があったり、本当にひとつの街と相違なく、ここが樹木の内部だと思うと不思議だった。ちらほら人影がある。老若男女が忙しなく行き来しているのを横目で追う。この人々は、全員が大ギルドで依頼を受ける魔法使いではないだろう。これだけなんでも揃っていれば、街みたいに扱われて人々の憩いの場になっていても不思議ではない。でもたまに魔法使いらしい格好をした人がいて、そういう人たちは私と私の杖を見ると決まって首を傾げた。


 ……だいぶ上がった。腿のところが悲鳴を上げ始めると、ふと老人は一つの扉の前で立ち止まる。下は開けた階層が多かったけれど、上に登るにつれて扉の備え付けられた個室が増えていくのを感じていた。ここで寝泊まりする人もいるのだろうか。中でも、私たちが目前にしたこの扉は一際目立った。装飾が派手で、両開きで、重厚だ。


「入れ」


 老人が突然言う。


「ああ、はい」


 急に不躾に来られると、反発心でこっちも無礼になる。


「入りますけど」


 エイミーもそういうタイプの女子だった。それでも一応ノックだけして、扉を開く。開けた視界に、上階層の明るさが飛び込んでくる。白んだ空が向こうに見えて、木をくり抜きあてがった窓から、新緑の葉がちらちら覗いていた。その窓の前で、古びた椅子に座っていたのは、背の低い老婆だった。表情や姿勢に年齢を感じる。それでも健康的な血色をしていた。


 私はすぐに彼女の瞳に目が行った。


 色がない。色がないというのは文字通りだ。彼女の虹彩は白く濁っていた。白目との境は明確に存在しているけれど、遠目ではこっちを向いているかどうかさえ分からなかっただろう。茶色の瞳からそのまま色素を抜いてしまったみたいだった。口元の皺は気難しげにまとまっている。私たちを睨みつけるかのように目元を薄めたが、こっちが見えているのかどうかは判然としなかった。


「お互いの疑問は先に解消しよう」しゃがれた声が乾燥した室内に響く。「目は見えていない。こういう不格好な不自由が何を発端にするかは、ひよっこ魔法使いでも慣れっこだろうか。禁呪だよ。人を殺した。私が最後に見たのは部屋いっぱいの黒髪だった。右に立っているのが、斎藤菜月かな」


 私は頷いたが、慌てて追いかけるように「はい」と言った。


「もう一人いるね、エイミー・アイ・ケイシー」

「はい、失礼しております」

「王国の姫君が書簡を送ってきた。こういうのはかなり困るんだがね、まあ、あの子もまだうら若い。世間知らずにも程はあるだろうが、その程を逸脱したとも言えないだろう」


 若い時分にはきっと愛らしい声をしていたに違いない。老婆の声は、部屋に優しく響いていた。しかしその表層は、憎き世に揉みくちゃにされた人のようにしわがれている。


「『黒い魔女と呼ばれてしまっているけれど、か弱い女の子を送ります、面倒を見てあげてください』。無礼にも手紙は挨拶もなしにそれで始まっていた。目的も聞いた。人を追っているね?」

「はい、シモーネという人を」

「噂は聞いている。世俗の事件になど興味はないけれどね。金持ちが断罪されようが、女奴隷が売女扱いされようが、我々の仕事には関係ない――と思いたいところではあるが、実際はそうじゃない。共和国ギルドが首を突っ込みそうな事件だ。だから刺客を放ったんだ」

「刺客? ハンスにですか」


 エイミーが問う。しわくちゃの顔が笑った。枯れ葉のような笑い声が溢れる。


「お前たちにだよ」


 私はじっとその老婆を見つめていた。驚きを顔に出すまいとしていたのである。実際に表情に驚愕を見せたって、目が見えないのだから老婆は気づきもしないだろうが、彼女の纏う晩秋の香りは、彼女の底知れなさを、つまり、こちらの表情など見越してしまいかねない、そういう底知れなさを与えていた。


「返り討ちに遭うとは思わなかったがね。もちろん前線に送るような魔法使いを送ったわけではないが、それでも人数は増やしたはずだ。誤算はお前たちがそこそこの魔法使いだったこと、それに何故か戦い慣れていたこと、さらには姫君が愛猫を二人も付けていたことだ。こっちに殺す意図は無かったが、こっちの刺客はきちんと殺された。恨んでもよいんだよ」

「なぜ私たちに刺客を送ったのですか。恨むならこっちですよ」

「斎藤菜月、私は覇者だよ」


 漢字がすぐに思い浮かばなかった。ハシャ、なんのことだと思った。しばらく考えて、適当に相槌を打つ。


「ああ、そうですか」


 私の態度が不満だったのか、老婆は小さく息を吐いた。だがすぐに笑い声が漏れる。


「小娘が私の前に立てば、もっと怖気づくものだけどね。魔力を感じないわけではないだろう。しかし、お前からは一つの生意気さも感じない。従順なのが恥ずかしくて反発を志す若造の多さにはほとほと呆れるが、お前のはそうではない。諦念だね。死にたいくせに生きている」

「やめてください」


 エイミーが割って入った。


「なぜ送ってきたのです、刺客を。あなたのような方が、私たちに目をかけること自体――」

「ああ、不思議な魔力さ。だがお前たちは実際、姫君にも目を掛けられたじゃないか。運命を信じるかい。肥溜めで生まれて肥溜めで死んでいくものもいる、雲の上で生まれてネズミに食われて死ぬのもいる、一方で、普通に生きていたら姫君に見つめられたりすることも、ギルドの魔法使いの手のひらで転がされたりすることもあるだろう。……ああ、喋りすぎていけないね。寡黙を装うこともよく考えるんだが、人はそう簡単に変われない。お喋り好きのババアだと思われるのも癪だ、疑問に答えよう。刺客を送ったのは、さっきも言ったように、共和国ギルドの気味悪い介入を防ぐためだった。あの辺境伯はちょうど王国と共和国の思想の曖昧なところに立っていたからね。その悪事を暴こうとしているやつがいると私の耳に入るのはそう遅くなかった。破滅はひょんなことから起こる。ぽっと出魔法使いの世直しが、国家を崩壊させることなんか歴史的に見れば珍しいことじゃなかった。だから刺客を送った。お前を止めるためだ。だがだめだったね。姫君はある程度、お前の身の危険を予測していたから慎重に事を運んだし、クライネや……あの剣士の名前はなんだったけね、あの小娘をお前に付けた。我々の人海を以っても、お前たちは物事を済ませてしまった。その結果、やはりどうしようもないことになったじゃないか。シモーネ・ベルはお前さんの功績を、まるで敵国に占領された都市を解放した戦士かのように喧伝し、お前の思想に影響を受け、共和国ギルドへ行った。これから何が始まると思う?」


 私とエイミーは何も言わなかった。ただの一歩目のつもりが、世界をどうこうなどと考えるはずもない。私たちはただ、本当にただ一歩目を踏み出しただけだった、カルロス少年の依頼を聞いて、彼の力を借りて、それで多少、当初の目的が果たしやすくなると考えていただけだった。エイミーやローゼは、最初は私の行動をある程度批判していたけれど、それだって政治的ななにかを意図してのことではない。手を伸ばせばなにに手を伸ばしているのか分からなくなっていくというエイミーの説得は、けしてシモーネが殺人に手を染めることを予期していたわけではない。が、しかしこうなった。なにに手を伸ばしているのか、もはや自分でも分からない。これから何が始まると聞かれても、こっちが教えて欲しいくらいだった。


 私が黙りこくっていると、老婆は私に手紙を寄越した。


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