fifty-four


 空にある藍染の濃淡が時間に連れて変遷していくのを、一晩中眺めていた。船は夕方に姫の領を出航し、それから半日以上が経とうとしている。例のように寝付けなかったし、船の揺れで少し気分がぼんやりしつつあったから、甲板で柵に持たれて、空を見ていた。朝の薄藍の空は、登ってきた太陽で星々を薄く隠していく。船団はちょうど、浮かれた気持ちを抱きながらも慎重に、整備された河口を抜けたところだった。


 海に出た。まだ白い海だった。いつからかこの世界は陸の世界だと思っていたけれど、ちゃんと海はある。水面は淡い日射しの全てを反射して、弱々しく私の瞳を照らす。壮大で捉えがたい流動は、穏やかに船を揺らしていた。


 茫洋の海域は、私たちを大きくも小さくも見せる。水平線まで何もないのを見ると、私たちが世界を支配したようにも感じるけれど、むしろその得体と限りの知れなさは、私たちをがんじがらめにして離さない支配者にも思えた。夕暮れと朝焼けの区別が付きにくいみたいに、なんでもかんでも白黒付くわけじゃない。


 幾艘の船が遠くに浮いている。動いているようには見えなかった。同じ海なのに、あっちはもう遠い世界に思える。


 海をある程度沖まで出ると、左手に陸地を見ながら、船は速度を上げて進み始めた。どのくらいで着くかと聞くと、それほどかからないとのことだった。それから一時間ほどして、エイミーがぼさぼさの髪で起きてくる。手櫛でそれを整えながら、私にぺこりと遠慮がちな会釈をして、その表情が、私には気にかかった。なぜだか緊張したけれど、そう見えないよう装って声を掛ける。


「酔った?」


 顔色は、朝焼けの薄暗さの中でもだいぶ蒼白いことが分かった。眉根が痛々しく寄せられているから、たぶん寝ている間に船酔いをしたのだろう。エイミーは頷くだけで、大きく息を吸って、船の真ん中で小さな足を踏ん張りながら、遠く向かう先を見つめていた。名も知らぬ鳥の啼き声、海の鷹揚な波の音、少女の小さな視線、登ってきた太陽の煌々とした光線。遮るものが無ければ、どこまでも飛んでいくのだろう。吐き気を抑えて、近くにあるものを見つめるほうがずっと難しいことを、大人になるうちに覚えていく。エイミーは私の顔を、あまり見なくなっていた。以前までは目が合うことの方がずっと多くて、その度に次に何を語ろうかと、頭の中で糸を編むみたいに考え合っていた。でも私も、そろそろ踏ん切りが付き始めていた。エイミーは愛ではないし、少ない時間で急激に深まった仲は、同じような速度で消え失せていく事を知っている。私が悪いし、きっと何もかも悪い。潮風の朝を頬で浴びて、そう決心付けた。エイミーとは、これきり、旅をいずれ何らかの形で終えて、竜巣に戻ってもらおう。あるいは、クライネの元でまた教えてもらったらいい。こういうふうに諦めが付くと、かえって気が楽だった。――気が楽になったと、少なくとも心の表面上は、取り繕うことができる。


 汽笛が、けたたましく、先頭の船から鳴り響いた。船は動き続けて、止まった私たちの時間を、海の上で、ただ遠くに移そうとしているみたいだった。




 停泊するのを振動で感じて、俯いていた顔を上げる。朝日を見てから数時間、船に揺られてうとうとしていたけれど、目覚めてすぐに、空気の味が変わっているのを鼻先で覚えた。


「着いたぞー!」


 船乗りの声が聞こえる。目を先にやって、そして飛び込んできた彩りは、海の美しさと水の洗練された好ましさをぜんぶ詰め込んだひとつの惑星みたいに見えた。薄翠色の絵の具を溶かした青い海、太陽を照り返す白い教会の静粛な外壁、踊り子みたいに輝く赤レンガの屋根、そしてパステルカラーの空、色とりどりの色紙が舞っているようにさえ思える、ヴェニスは華やかさと美麗の街だった。


 エイミーが立ち上がって、私を見た。その瞳は、藍色をほのかに散らしている。その奥に私の黒髪が見えた。それほど近かった。


「夢みたいです、私」

「来たかったの? ずっと」


 エイミーは頷く。


「でも、一人じゃ、ここにはきっと、来られなかった――」


 生きることの、酸いも甘いも、きっと死ぬ時には同じくらい与えられているのではないかと、たまに思う。幸と不幸の数は最初から決まっているんではいか。不幸のあとには幸せが現れるし、幸せのあとには不幸が現れることが常だから、そう思うことも、なにも飛んだ理屈ではないのではないか。エイミーの苦しみがどれほどかは知らなかったけれど、彼女は失意の底にあっても欲することをやめはしなかった。潤んだ瞳は不意に私を振り返る。風に焼かれて揺らいだ髪が何度も繰り返し頬の白さを隠そうとして、その向こう側でじっと青い目が私の瞳を見つめていた。


「別で過ごしたいですか。それとも、私が案内してもいいですか」


 急くように必要な作業をする船員の慌ただしさも遠くに見えるようだった。エイミーのじっとした、冷ややかな視線を受けて、私はその先に熱を見た。


「私だって一人じゃ来られなかった。案内してくれなきゃ、無理」


 自分でもどうしたらいいのか分からない。離れたがっているんじゃないの。だったら一緒にいる時間なんか少ない方がいいに違いないのに。


 銀紙を散らしたみたいに輝かしい空気が街を包んでいる。花には作れない水の色が眼下から心を刺す。エイミーは意を決した顔で、私の右手を掴んで引っ張った。その頬が少しだけ緩んで、無邪気な笑みを彼女は浮かべる。


「行きましょう」


・・・・・


 街の中に入っていくと、竜巣に似て雑然と、統一されない人々の服装が目に付いた。なのに雰囲気は裏返したみたいだった。建物は全てこじんまりと軒を連ねていたが、小花の植えられた花壇のように色とりどりで、見ていると可愛らしい気持ちになれる。往来は舟で行き来すると言われていたが、実際のところ、大抵の要所は、小舟に乗って移動する必要もないらしい。


 なにがあるのか分からないので、見たい場所も思い付かなかったが、すべてエイミーが頭に入れてきていた。観光地としては誰もが夢見る場所らしく、エイミーもまた夢見る少女だ。一度も訪れたことがないのにも関わらず、実に滑らかに街を縫って私を案内した。


 白亜の壁と丸いシンボルが太陽で銀に光る教会、雲のように聳え立つ宮殿、野鳥が平和を体現して人からパンくずを貰いながら生きている広場、煉瓦の塔。最後には舟に乗った。ゴンドラはゆらゆらと私たちを運び、街の建物の間をすいすい潜り抜けて行って、人の行き交うお城みたいな橋の下とか、両側に高い建物と窓際に白い柱の並ぶ路地裏みたいな空間を、水の上で通り過ぎて行った。やがて海に出ると、その頃にはもう日が暮れていた。暗がりでもゴンドラはゆったりと進み、そして不意に動きを止めた。訝しんでオールを握る男性を見た。エイミーは黒く幕を落とされた海に、暗い目をやっていた。どこへ行くのか知らなかった。船頭とのやり取りはすべてエイミーがしてくれていたし、財布も預けていたから。ただ小さな波の音だけが聞こえていて、どういう意図の静寂なのだろうと思った。


 不意に大きな音が鳴って、視界の端を閃光に染める。驚いて身を縮める。でも花火だった。


 鷹揚と存在する黒い底なしの液体の上に、極彩色が弾ける。夕立ちあとの虹を破裂させたみたいだった。突然始まって、驚いて、準備もできていなかったから、胸がいっぱいになって、なにも言えなくなった。エイミーは知っていたんだろうか、彼女は瞳に色を弾けさせて、黙って弾ける空を見つめていた。


 耳を劈く音が鳴る。船頭も花が咲くのを見ている。


「どうして、私はいつだって、最後なのですか」


 そして小さな震える声が、花火の残響のように私の耳に届く。私はなにも答えられなかった。


「悩みを告げるのだって、イルさんが最初だったし、愛するのだって、姫さまやシモーネさんが先だった。私、もう菜月さんとは生きていけないかもしれません、胸が苦しいんです。死にたいと思いました、生まれて初めて。愛することがこんなに苦しいなんて、私を見つけてくれた人を求めるのがこんなに寂しいなんて。胸の中が満たされるか空っぽになるかのどちらかで、舞台や音楽で語られるような美しい姿をしてないなんて――」

「エイミー……」

「……菜月さん、」


 花火、綺麗ですね。


 花は踊るようにぱらぱら散って、眩しさの記憶と耳鳴りだけを残して、闇夜に消えていく。

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