fifty-two

「何か言いましたか、それ」


 光が入らず薄暗い、焦げた灰色をしたコンクリートで囲まれた部屋に、金属で作られた重い扉を軽い心地で引いて入ってきたのは、ローゼという名の女騎士だった。椅子に縛り付けられ足掻く男に、頻りに声を掛けていたであろう男が振り向く。街なら誰もが目を引くような美形の青年だった。彼は入ってきたのがローゼだと気が付くと、白い歯を覗かせる。しかし今や瞳は色を失いつつあった。


「いや、まだ何も……自分の力不足で、ローゼ先生には敵いませんね。途中で可哀想になっちゃって」

「まあ、気持ちは分かりますがね。あと先生と呼ぶのはやめなさい」

「気を付けます」


 ローゼは神経が衰弱しつつあるその部下を後ろに下げ、自らが椅子の男に相対した。椅子は男の物しか用意されていないので、ローゼはちょうど小さな少年に目線を合わせてやるみたいな姿勢になる。男は口を開かない代わりに目元を大きく開き、彼女たちに酷い殺意が滲むような視線を投げ掛けていた。


「大して難しい要求をした覚えはありませんよ。斎藤菜月について、どうしてああも扇情的な文章を書く理由があったのか、聞きたいだけです、我々は」


 男はローゼの色のない瞳を睨み付け、何も言わない。ローゼは声色もまた無色だった。不透明な、重い無色。その癖、こういう場に慣れるにはまだ若すぎるほど、肌は白く艷やかだった。


「言えば何かと便宜を図ると、そう言ってるんです。意味が分かりますか」


 部屋は閑散としていた。人がいれば、人を見る他ない。人の命を脅かすような物は一つも置かれていないが、いつ運び込まれてもおかしくないような、淀んだ空気が蔓延している。煙草の煙の噎せ返る空気さえ、それよりはマシに思えるほどだった。ローゼの声は実に機械的だった。


「逆に言えば、何も語らなければ、不都合があなたを襲うということです」

「……それでも国家か!」


 男が初めて声を発した。顎髭を生やし、髪にはまだ白いものが混じらない若く気力の旺盛な男が、声を荒げる。ローゼは当然のように動じなかった。


「それでも? どれ?」

「国民の生活を脅かし、不安を煽り、無理やり何かを語らせようとするのが、あの姫君が、笑顔の裏でいつも考えていることなのかと聞いている! 報道は自由だ、我々の固有の権利だ!」

「騎士の前で姫を侮辱しないことですね、世界がいくつあっても足りなくなりますよ。固有の権利と言いますが、最初にぐちゃぐちゃにしてしまったのは貴方がたです。……無駄話はよしましょう。あなたには、三歳になる娘がいますね」


 男はきっとローゼを睨み上げた。


「……っ、地獄へ落ちるぞ……!」


 しかし、当然のようにローゼはうろたえなかった。ただ燃え尽くした廃墟に似た灰色の瞳が、澄んで男を見つめていた。


「ああ、そうですか? 地獄にね――。……私はただこう言いたかったんですよ。貴方が素直に話し、我々の一定の要求に従いさえすれば、貴方の三歳になる娘が、大学に通うまでにかかる金を、全部肩代わりしてあげてもいいと」


 呼吸の音が止まる。唐突に突き付けられた条件に、男は目に見えてたじろいだ。自らを脅かす何かが起きている、娘という言葉が出てそれは明らかになった――そう思っていた。だが、状況はもっと深刻で、それでいて悪趣味だった。善意が時に悪意を凌駕することは、新聞屋で働いていればよく知っていることだった。


「…………」

「娘の好きな物はなに? 魔法学? 神学? 物理学? 信念は立派でも、新聞記者の安月給じゃ、娘のやりたいこともろくにやらせてやれないでしょう。芸術家になりたくたって、絵具もろくに買えないんじゃ情けないでしょう、ねえ、パパ」


 男はローゼの言葉を聞いてから、数分黙り続けた。その間、ローゼはじっと彼の額から流れ落ちてくる汗を目で追っていた。ローゼが「パパ」と冗談がましく言うのは、大人びた彼女の雰囲気に似つかわしくなかったが、それにも関わらず、男には何故か自分の娘が重なって見えた。男はやがて項垂れた。埃臭い部屋に、汗が落ちて染みを作る。


「……何を話すんだった」

「シモーネ・ベルと接触したでしょう。目を瞠るほど髪の赤い女」

「ああ」

「何を話したか、言ってください」

「大したことは、何も話してない」


 だが――。そう言うと、男は事の起こりから説明し始めた。しかしそれは全て、大方姫君とローゼが予想していた域を出ないものだった。シモーネ・ベルは、こうして国家が動くことさえ想定していたのだ。


 しかし、“あれ”は――と、ローゼは思う。“あれ”は、それほど賢くはない。いずれ綻びを見せる。ああいうのは犯罪に不向きだ。それをローゼは経験から知っていた。


・・・・・


 菜月さんが姫様の部屋に呼ばれ、それで待たされる間に、私はクライネさんの部屋へ失礼していました。菜月さんと姫様の間にどのような用事があるのか、私には想像も付きませんが、それがあってもなくても、ここへ来ることに変わりはなかったでしょう。クライネさんに別れを告げずに出ていくことは、できません。


「それではクライネさん、私も出ます」


 私は、深々とお辞儀をしました。小さな手が頭の上に乗って、頭の形に沿うように、手は首筋へと落ちていきます。クライネさんの青い瞳が覗き込んで、目が合いました。小さく微笑むのを見て、私も同じようにしました。


「ええ、エイミー、寂しくなるけれど」


 お城にあるクライネさん専用の自室だというここは、書物に溢れ書類が散らばる、研究室と呼んでも相違ないような雑然とした部屋でした。二日に一度トゥキーラさんが片付けても、こうなってしまうそうです。


「姫様も、報告の機会を設ける必要があるとおっしゃっていましたから、きっとすぐに会えます」

「そうね。楽しみにしている」

「短い期間でしたが、それでも――ずいぶんお世話になりました」

「私の教えたこと、きっと忘れないでね」


 クライネさんはそう言うと、恥ずかしそうに、魔女帽を机の上から拾い上げて、被ってしまいました。表情があまり窺えなくなって、私も急に物恥ずかしい気持ちに襲われます。自分だけ見えているのは、恥ずかしい。


「きっと立派な魔術師に……というと、本当に今生の別れになりますね」


 部屋に小さな笑いが起きます。


「少しでも自分の魔法が分かっていたらと、思います」

「そうね……」


 クライネさんはここに至って、突然寂しそうな声を出しました。それが今までにない響きだったので、思わず口をぎゅっと結びます。それに気付いてか、それとも気付かないでか、クライネさんは私に思い切り近付いて、その口元を緩やかに撫でました。


「最後にキスは?」

「えっ、いえ、私は……」

「してくれない? おやすみの時はしてくれたのに」


 あれだって、別に、しようとして、したわけじゃありません。不意打ちで、そんなことするだなんて思っていなかったから、今でも夜に思い出すくらい、びっくりだったのに――。クライネさんの口元が拗ねて尖って、青色をした瞳が私をまた、下から見上げました。


「クライネさんは、挨拶で口づけをするのが、普通なんですか」

「普通じゃないよ。普通じゃないけど、きちんとした愛情表現だと思ってる」

「…………」


 それを聞いて、ふと自分の中に降り立った黒い衝動が、身を焦がしていきました。きっとその一瞬で様々なことを同時に考えたに違いないけれど、それが何なのか考える間もなく、私はきゅっと目をつむってしまったのです。クライネさんの温かい手のひらが頬に触れました。


「またね、エイミー、愛してる」


 くちびるに甘い香りが乗って、それを風が吹き抜けていったとき、私はなんてことをしたのだろうと、すぐに後悔しました。火酒の重さに似た衝撃が、脳天を登っていくのが、どんな恋よりも淡く思えて、浅はかに思えたのです。――でも、もはや本当に口付けを捧ぐべき天使が振り向いてくださらない時、身近にある出来心が、階段を一つ駆け上がらせることも、あるのではないでしょうか。そのような言い訳は結局、喉の奥に消えていきます。誰かの吐いた息を――寂しげで、孤独をついに最後まで絞ったような呼吸を、伴って。

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