fifty-one
「私の考えでは、シモーネ自身が新聞屋と接触した可能性も考えてる」
姫がそう言うのを、ほとんど上の空で聞いていた。そんな私の代わりに意味を聞いたのは、エイミーだった。
「なぜです」
「シモーネはずいぶん菜月に惚れ込んでいたそうじゃない」
「……」
エイミーはすぐに黙り込み、青い髪の先が首元で揺れた。汗ばんだ首すじが緊張するように見えて、私は思わず姫の顔色を窺った。そこに責め立てるような視線はなく、私の不貞が伝わったわけではないのだと気付く。心臓は早鐘を打つのに鼓動は酷く弱い。たぶんローゼかクライネが、アパートでのシモーネの様子を姫に伝えたのだ。それをやるとしたらローゼだが、ローゼもまた姫に全て打ち明けることはできなかった。姫君の恋心を林檎のように磨り潰すことが、彼女には我慢ならなかったからだろう。だから「惚れ込んでいた」程度で済んでいる。
「救われれば、誰だってそうなる」
「ええ、貴女の言う通り。救われれば誰だってそうなる、愛するに余りあるもの。沈んでいた泥濘が深ければ深いほど、人はその醜悪な記憶から離れられない。そして沈鬱な思い出に浸る度に思い出す。誰がそこから引っ張り上げてくれたのか。感謝はやがて恩義になり、そこで止まらなければ信仰になる。信仰と知らずにする信仰は、盲信と呼ばれる。菜月、貴女があの赤い髪の奴隷を救った後、たぶん何か特別な話をしたんでしょう。貴女は人の気持ちが分かるし、なにを言って欲しいのかもよく理解しているから。その結果、シモーネは辺境伯の手元から救われたばかりか、思考まで救われた。『菜月に捧ぐ』は、そういうことよ」
そういうこと、と言われても。私は私にできたことをできる限りでやったに過ぎない。むしろもっと穏健なやり方もあっただろうと思われる方法で、あの屋敷を襲った。ハンスと、ハンスの手下十数人の犠牲。そして奴隷の女九人の救出。天秤は壊れている、何が正しいのかは分からない。あの夜、私は星の振りをした。輝いてもいないのに太陽の光を借りる顔色伺いの星の振りを。シモーネが仮に、私に盲信を向けているとして、それで、それを、私がどう受け止めたらいいというのだろう。
「そんな、私、そこまで抱えきれない」
「貴女が抱えきれるかどうかなんて、彼女には関係ない。とんでもなく惚れられたわね、菜月は思った以上に、悪女だったということかしら」
姫はそう言って、冗談のつもりか笑ったけれど、私たちは皆して目を伏せた。私は、脳が泥となって溶ける感覚で真っ白だった。魔法少女に憧れていたら、悪女になっていた。そして、軽率に抱いた同い年の少女は、大きく非道に傾いて、自らの父親を殺したのだ。
「だから、菜月のことをよく広めるために、新聞屋に話題になりそうな事の顛末を話していたとしても、不思議じゃない。これ程新聞屋が盛り上がった文章を書くのも、そうないことだから。……そして憂慮しなければならないのはね、シモーネの行方がそれ以来掴めていないこと。『菜月に捧ぐ』以外にも言い残して、行方を眩ませた」
「なんて言ったの?」
「『これを、世界で』」
言われても、何か実感の沸くような言葉ではなかった。
「どういうこと?」
「父親殺しが最後じゃないってこと。と、思うけれどね。世直しでもするつもりか分からないけれど、金銭を受け取らず人救いをしてた菜月に看過されたなら、たぶんそういうことなんでしょう」
背中が重くなる、急に夜闇を背負ったかのようだった。
姫の話すのを聞いていて、私はシモーネが発した言葉と、自分が彼女に投げ掛けた言葉を思い出した。私は確かに言った。あなたがあなたを自由にする。その言葉を受けたシモーネが、自分のような人間を救うために、方法に糸目付けず世直しのようなことをしようとするのは、実際考えられることだった。シモーネはそういう衝動を秘めている人だった。
「……という、諸々の事情が重なって、父上はハンスの屋敷に踏み入ったこと自体にも、懐疑的になってしまった。私が貴女を抱え込もうとしてるのも、だから許してくれない。殺害を起こしたシモーネが貴女の名前を掲げているのも、そしてシモーネが行方を眩ませてしまったのにも、父は不信感を抱いている。だから約束が守れない。私は貴女をここに置けない。ごめんなさい、菜月」
「……ううん、姫が謝ることじゃなくてさ」
そもそも、姫君が私たちの生活を保障してくれるという話になったこと自体、空から急に降って湧いた幸福だった。だからそれが破談になったことに文句はない。姫君の寂しそうな声も理解できたが、それほど国王という存在に嫌われてしまった私が、これからどうなっていくのだろうという先行きが、私に現れた新たな問題だむた。途方に暮れ放浪することになることのだろうか。それが私にとってちょうどいい罰だろうか。そして、そこに何が伴うのか。私を苦しめることは、何よりそれだった。
エイミーと一緒にいたくない。離れたくて仕方がなかった。顔を見ると愛しさが募る。けれどそれ自体が気まずい。姫の肌が薄い檸檬色の陽光に刺されて、白く光っている。私の黒い制服の、スカートの裾が純白の部屋の空間に、影を差している。
「私って、国を出なきゃいけない?」
私の問いに、姫はすぐに答えられなかった。綺麗な日の様な顔に蒼色の影を落とし、私の瞳をじっと見る。
「そうなることだけは、私、どうしても避けたいのよ、菜月」
「でも、あなたのお父さんに嫌われちゃったんでしょ、私」
私と姫が話しているのを、横でエイミーがじっと聞いている。彼女が気にしているのは、シモーネのことだけじゃない。あの夜のことをローゼに伝えられて以来、エイミーと姫が顔を会わすのは、思えばこれが初めてだ。いつの間にか親密になった私たちの会話の仕様を見て、その小花が生けられた花瓶のように丸く、愛らしい頭で、なにを考えているのか、私にはそれが最も怖ろしかった。何も考えてくれていなければいい。それが一番いい。好きな人は、いつだって何も考えていなければいい。好ましい色の瞳で見つめられれば見つめられるほど、自分の皮を剥いでいくような気分になる。見つめている人が剥いでいるのではない、私が自ら脱いでいくのだ。
「疑いは自分で払うのが世の常、信頼を勝ち取るのも同じ」
「……シモーネを追えばいい?」
「察しが良すぎるのも悩みの種よね。――そう、それしか助言できないことが悲しいけれど、でも、実際、シモーネが他所でやろうとしていることを止めてしまえるのは、もう貴女しか残っていないとも言える。行き先に当てがないわけじゃないの」
「シモーネの?」
「ええ。人を恨んでいるのに人を救おうとしている人が行く先は、世間の言う共和国ギルドと決まってる。シモーネの魔法の才がどれほどか分からないけど、ハンスの屋敷を燃やし尽くしたのは彼女の炎でしょう。能力のある魔法使いが行き着くのは、お城ばかりじゃない。分かるでしょう、菜月、大ギルドへ行くの、あなたも。大ギルドにいれば、王国の嫌疑なんか関係ない。もともと国籍なんて無いようなものだし、私が王国ギルドに紹介状を書いておく、そこで仕事を探しながら、シモーネの影を追って欲しいの。そして貴女自身で、貴女がけして殺害の先導者でないということを証明して、戻ってきて」
頷く他なかった。シモーネ。彼女は父親を殺して、もしかすればもう、引くに引けなくなってしまっているかもしれない。右手に握った赤い血の付いた凶器が、黒い背景に浮かんで想像される。彼女のその背中を追うのは自分の役目のように思えたし、自分の疑いを晴らすのが自分の役割だと言うのも、当然な話だった。杞憂はわだかまる。エイミーは、私に付いてくるだろうか。なんと言ったらいいのか分からなかった。置いていきたいわけでも、もちろん無いけれど、だからといって、もう連れ回せるような間柄じゃ無いような気がした。良い期間がどれだけ長くたって、むしろ長ければ長いほど、一度の綻びで、ひびの入ったコンクリートは崩れ去ってしまう。
「そして、エイミー」
エイミーに声を掛けたのは、姫だった。
「はい、姫様」
「菜月をしっかりと、支えてあげてね」
優しい声色だったが、命令だった。姫は途端に崩れ去る私の精神を知っている。支えてあげてと誰かに言うのは、愛情が届かないところで人を縛り付ける楔のように働くことを、この姫君は宇宙を知るみたいに知っていた。エイミーは厳かに頷いた。
「――はい」
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