forty-three

赤髪の奴隷 6


 逃げるためならば、男に処女を与えてやるくらい、造作もなかった。従順で、純情な振りをしなければならなかった。与えられた痛手で、ようやく自分の地位を理解したのだと、そう思わせなければならなかった。そのためには心から服従に身を投じ、その瓦礫の最上で身体の隅々を血に染める必要があった。もはや自尊心などなく、そういった至上の価値を持つ何物も、そもそも私の物ではなかったと思い込まなければならず、そういうさなかに思い浮かぶ無機質の様々が、私には救いだった。


 寂れた教会。地に落ちた神々のせいで、信仰はむしろ意味を成さなくなった。神が本当にはいないことこそが、教皇を教皇たらしめるものだったから、それでも足掻き、残り続け、神に媚びへつらい自らの金稼ぎの赦しを乞う司教たちの傍らで、実際に崩れ落ちていった信仰と信仰は、崩壊しその柱に枯れ色の蔦を這わせることになる。私は、地に伏した柱だった。つまり、自らの覇権を世に知らしめるために都落ちを図った神々を見ることが、私には苦痛だったのだ。なぜか。神が人々を救い給わないことを、ただ解釈のみで正当に思っていたのが、神が実際に人を救い得ない木偶の坊だということを、その身を以て示してしまったから。


 私が神の名を口にする時、それは、確かにそれまでの神と同じ神の名前ではあるけれど、私の向いている方向は、誰とも違う。誰にも理解されない信仰。――神は二つに分けられる。すなわち、堕天以前と、堕天以降。堕天以前、不在にのみ価値のあった時。存在は、存在があったとて、誰かにとっては結局のところ、そういうていでの存在という解釈があるにすぎない。それは例えば、男に抱かれる前の私と、男に抱かれたあとの私が、実際には何ら変わっていなくても、自分にとってはもう同じものと見られないことのように。




「今日はこのあと清掃婦を呼んでいる。君たちを見られればまた雇い直さねばならなくなるから、部屋からは出ないようにな」


 地主はすっかり態度を変えた私への対し方をきっちりと穏やかな仕方に変貌させ、話し方や声色さえ和やかになった。私がそれで安心したかといえばそういうことはなく、ただ男の二面性にこわごわと気味の悪さを覚えるだけだった。横たわる男の体に無感情のまま手を這わせながら頷くと、彼は満足そうに唸る。


「金がまた貯まったから、あの場所に新しく絵を飾ったんだ。ギルドの奴らは気前がいい。シモーネ、君のような美しく利口な女子がいれば、新しく奴隷を買う必要もなくなるというものだよ。君はどこをどう切り取ってもこの世の最上の女のままだ。反抗的にしていたあの日々だって、君のその気丈な表情を作るひとつの要因ではないか」


 男は新しく買ったという絵画を見ながら気分が良さそうに喋り続けていた。私を買うために売った絵の、その日焼けの上に重ねて、見知らぬ絵が飾られている。女の身体で女の身体を描いた、悪趣味な油絵だった。良いと思って買うのか、買おうと思って買うのか。いずれにしても、ろくな趣味ではない。


「ねえ、ハンス」

「どうした?」

「私を最初に迎えに来た男、誰だか分かる?」

「ふむ。御者の元へ迎えにやったのはテヌートだったと思うがね。大男だろ?」

「うん。私、その時、その人に身体をまさぐられた」


 私が言うと、男は実に悲壮な表情を浮かべて私の頬を撫でた。


「可哀想なシモーネよ。テヌートは今日限りで暇を出そう。恐ろしいことなど、この屋敷には無い。そうでなければならん。なあ? 大地や街には薄汚い外気が蔓延しているものだ。ここのみが世界で、私と君たちで暮らしていければ良いものを。残念なことに、社交と愛想で金を得る毎日からは逃れられん。息苦しいとはこの事だ。どこに逃げればいいのだろう。楽園は君の胸の中にしかないのか」


 男はそう言いながら、赤ん坊のように私の胸に顔を埋めた。心臓が高鳴る。虫の中を這い回るような不快も、今日で終わる。




 計画はすでに始まっている。朝、清掃婦が来る前にと地主に呼ばれた私が部屋に帰る頃には、カミラは部屋にいない。清掃婦の来る時間には私たちが部屋にいることを要求されているから、清掃婦が来てしまえば私たちはトイレにも行けない。だから、来る前に入ってしまう。時間に煩い手下を黙らせる手段は一つだけだった。カミラは私同様、体を張った。トイレに入って、付いてきた警備を誘い込み、それで、時間を稼ぐ。自由のためならば、できる手段はすべて使う。カミラは決心に躊躇しなかった。


 私たちが使えるトイレは一つに限定されているけれど、カミラがトイレに警備を押さえ込んでいることは誰にも知られていない。私が男の部屋を出て私たちの部屋に連れて行かれる途中で、トイレを要求する。そこで起きることは、明白だ。


「ねえ、トイレに行かせて」


 男の部屋を出て、白いローブに身を包んだ私が連れ立つ警備に要求すると、警備は面倒そうにため息をついて顎をしゃくった。トイレの扉の前に立つ。中からは微かな物音が漏れ聞こえてきていたが、たぶん、そうと知らなければ気が付きはしなかっただろう。おもむろに扉を開く。


 私と、後ろから付いてきていた警備の目に飛び込んだのは、カミラに覆い被さる男の姿だった。


 後ろの男が戸惑って上ずった声を上げる。中の男も振り向いて、慌ててズボンを引き上げた。


「お前、何してる……」


 ここから先は、賭けだった。不正確さのない計画など、私には立てられなかった。男たちのやり取りを、まるで天敵の巣に飛び込んだカエルみたいな目を装って、固唾を飲んで見守るしかない。


「違う、違うんだ。こいつが誘惑を」

「しかし、だからといって……とんでもない仕打ちを食らうぞ」


 賭けに勝ったと言える状況は、この状態を見た警備が、不貞を働いた同僚を地主に密告することだった。


「私、誘惑なんか……」


 カミラの声に、責め立てる男は過剰に反応する。


「お前は黙っていろ! ……どうするんだ、この女たちに手を出して、あの方に知れたらもう次にはろくな職も巡ってこないぞ。彼はそこら中に顔が利くんだ!」

「……ゆ、誘惑されたのは事実だ! 急に服を脱ぎ出して……そんな状況で欲を抑えるのは不可能だ! 分かるだろ、男なんだから!」


 唾を飛ばすような説得を受け、男は苦い顔をする。どちらも額に汗をかいて、私たちが何か余計なことを言えば殴りかねない鬼気迫る表情をしていた。権力者たる雇い主の私物に手を出すとは、そういうことなのだ。


「だが、この事を知られた後に何を言ったとて状況は変わらん! この女が告げ口した後では何だって嘘にしか聞こえんだろ。先に疑わしい方が、最後まで疑わしいのだ! お前が言うのが仮に事実だとしたって……いや、分かった。こうしよう」


 男が言葉を区切る。悪寒を帯びた予感があった。――賭けは、負けた。


「こいつは、逃げようとした。そういう話にしよう。その後で何を言ったって、嘘にしか聞こえん。――幸い、おてんば娘も一緒だ」




 腕を無造作に掴まれ、カミラと二人で地主の部屋に逆戻りした。地主は最初、当惑の表情を浮かべたが、私たちの様子を見て、何があったか察したかのように肩を落とした。


 手下は嘘を混ぜた事情を説明する。つまり、カミラが清掃婦の訪問に乗じて逃げようとトイレに潜んでいたと。事情を知る私も協力者に仕立て上げられた。私は一か八か異議を唱えたが、警備の男が言った通り、確かに先に疑わしい方が最後まで疑わしいようだった。ハンスはただ首を振るだけだ。訪問を知らせるベルが鳴る。清掃婦が来てしまった。清掃婦が換気のため窓を開け放つ瞬間、外に飛び出るつもりだったが、ここにいてはそうもいかない。


「シモーネ、君という人間は……」


 きっと睨み付ける。


「気安く呼ばないで」


 どんなに強かに振舞って見せても、男三人に囲まれた状態では事の仕様もない。男が掴む腕は痛むし、カミラのことも心配だった。


 計画に賭けが混ざるのは、避けられなかった。だから、この展開を予想していなかったわけではない。つまり、私が思うより手下同士の絆が強く、密告の運びにならない可能性も、こうして警備が自分の身を守るために私たちを犠牲にしようとすることも想像付かなかったわけではない。


 予想外だったのは、私たち二人を抑えるのに警備が二人付いたことだ。……私の先見が劣っていた。自分の地位を守ろうとする奴が、必死に私たちを悪者にしようとすることまでは考え付いていたのに、他の警備を味方に付けることまでは、予想できなかった。でも、考えてみれば、当然の成り行きだ。


「こいつらを、どうしますか」


 男が地主に問う。その瞬間、さらに予想外の事が起きた。


 地震だ。


 地鳴りには大きすぎる爆音が窓の向こうで響く。耳を塞ぎたくなるほどの音だった。それを追うようにして床が不安定に揺れ、屋敷は悲鳴を上げるみたいにぎしぎしと鳴った。警備の腕を握る力が不意に強くなる。揺れは短時間で止んだ。それで気が付く。今のは、地震というより――。

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