forty-two


 クライネさんは私の目の前に魔術院の機関誌の頁を並べると、そのうちの一枚を見せてくれました。


「エイミー、魔法を学んで理論派の魔術師になりたいなら、最新の研究を追うのは基本的な態度だと思う」

「はい」


「流行は、魔法の保存に関する研究。現状、魔法使いがいなきゃ成り立たない社会になってしまっているけれど、その能力がどういう要因で発生したり、あるいは発生しなかったりするのかが分からない以上、いつか魔法がこの世から消えてしまう可能性もある。だから、魔法を使えない人にも魔法が使えるようにしないといけない」

「なるほど」


 クライネさんに教示をお願いしたあの日から、毎日のように何時間も熱中して魔法の勉強をしています。この方はあまり時間の観念がないのか、平気で半日も喋り続けることもしばしばあり、いくらやる気があったとしてもへとへとになりますが、充実という言葉に近しいものを感じているのが、近況です。


「実際、魔法の保存は可能ですか?」

「完成には至っていないけど、進歩はしてるの。動力の燃料を固形化している一族の案に則って、たとえば火を当てるだけで魔法が発動するとか、そういう簡単な条件の付加を物体に掛けることには成功してる。でも、強く発火するとか、砕け散るとか、その程度のもの。これをどう扱うかは、もはや科学者の領域かも」


 私が納得して返事をすると、クライネさんは紙を机に置いて、私の目を見つめます。瞳は爽やかな熟した檸檬の色を浮かべていました。いつも緊張が浮かぶその口元が綻ぶと、私も少し安心するのです。


「理解が伝わってくる。利口ね、エイミー」


 大人びたような態度。私は正直に言うと、クライネさんのことをあまり掴めてはいません。見た感じでは、私よりもいくらか歳下のように思えるのですが、その立ち振る舞いとか、姿勢とか、あるいは博識さを見て、それでも年少者に見えるかと言うとそうではありません。背伸びをする幼女にも見えなければ、子供心の熟女でもない。とはいえ、敬意を払うべき相手であることは、確かです。


「ありがとうございます。あの、菜月さんも気にしていましたけど、私たちを飛ばした魔法はどう扱ったのですか?」

「実は、あれは見よう見まねというか、あれが初披露だったの」


 彼女はまた書類から一枚の紙を引っ張り出すと、私に見せてくれました。


「ああいう魔法は、とある思想家の言葉がきっかけになっててね、つまり、『無いは無い』って」

「『無いは無い』……ですか? それ、菜月さんも似たようなことを仰っていました」

「あら、あの子が? 知っていたのかな。どういう意味だか、聞いた?」


 私は少し記憶を辿りましたが、その意味について詳しく聞き及んだことはなかったように思います。そうクライネさんに伝えると、彼女もまた少し困ったような顔をしました。


「私も、実はよく分かってないんだ。なんだか抽象的なことばかり言う人だから。でも、その思想家の言葉を真に受けた魔術師が、理論を組み立てたの。つまりね、人は本来、動力無しで宙を飛んだりはしない。けど、飛ばないっていうのは、飛ぶってことがなきゃ、成り立たないでしょ?」

「飛ぶという事実が無ければ、飛ばないという事実も無いから、みたいな……」


「そう! まさにそうなの。魔術師はまず『火を消す』という魔法を作った。それも、火のないところの火を消す魔法。それって、意味がないでしょ? 火のないところで火を消そうとしたって、火を消すっていう現象が起こらないんだから。でも、それっていうのは、火が起こるっていう現象があるなら、火が消える現象も当然にあるかもってところを出発点にしてる。分かる?」


 混乱してきました。少しづつ首を傾げていく私を、クライネさんは微笑んで覗き込んできます。桃色に変わった切り揃った髪の毛がふんわりと踊ると、心地いい春のような香りが漂ってくるようでした。彼女は床に寝転がるシブヤさん(最近お友達になった猫さんです)を一度だけ見ると、紙に向き直ります。握ったペンが図解するのを、私はじっと目で追いました。


「大丈夫よ、すなわちね、起こることを打ち消すと、起こらない。起こることを、打ち消すことを、打ち消すと?」

「……起こる?」

「その通り。彼は『火を消す魔法を消す魔法』を作って、逆説的に、火を起こす魔法を『フィレ』の他に作り上げたのよ」


「つまり、飛ばないという事実を打ち消すことで飛ぶという現象を起こしたということですか?」

「あの日やったのはそれ」

「そんな……! それって、魔法の歴史全部が覆っちゃうのでは!」


 私が驚いて声を上げると、クライネさんは残念そうに首を振ります。


「でもね、扱える人がそこまで多くないはずなの。あの日、あれだけで魔力をほとんど使っちゃったから。よっぽど魔力に自信があるか、才能がないと。詠唱と暗記も長いし、抽象詠唱も事前にやってたの」


 魔法は、具体的で、抽象的な想像を伴って発現をさせる。けれど、世の中の物事について、人は必ずしも理解しているわけではない。科学者の研究を読み込んだって分からないことがしばしばあるのが普通。そこで、その理解の一部と発現の条件を助ける抽象詠唱なるものが存在している。難解な魔法には補足として付随させられているのが基本です。


「彼の研究に付いていった感覚派の魔法使いも、相当骨が折れたらしいから、簡略化がされるまでは現実的じゃないかもね」


 進歩は嬉しいことです。聞かされる度に舞い上がるような想いを得るものですが、なかなか上手くいかない場合も、枚挙にいとまがありません。技術はまず優れた人たちのもので、優れた人たちが飽きた頃に、私たちに回ってくる。


「そういえば、菜月さん。あの人は杖を持ち歩いてるよね、どうして?」


「ああ、それは」菜月さんのことを思うと、おもわず顔の筋肉が緩んでしまうのが、最近の悩みでした。「好きだから、らしいです。魔法使いは杖を持つものなんだとか――あっ、私それについても気になることがあって!」


「なあに?」


 少し下にいるクライネさんの見上げてくる瞳を見ながら、あの時のことを思い出します。


「以前、ポミュリンの退治をしたことがあって」

「ああ、船乗りの依頼でやったらしいね」

「はい。あの日、少し危ない場面があって、菜月さんが急ごしらえの電撃の魔法を使って助けてくれたんです。その時、杖の先から魔法を出していたように思うんです」


「先から? ポミュリンに向けて?」

「はい、電撃の魔法の特性かとも思いましたが、平地でもぶちかませるのをこの間見たので、離れているところに撃つことは通常通り可能な様なんです。もし、杖の先から魔法を繰り出すことができれば、視界外への発現が可能だったりするんじゃないかと思って――」


「エイミー! あなた……!」

「え、はい! なにか、素っ頓狂なことを言いましたか」

「いいえ、機関誌にあなたの名前が乗る日も近いわよ。いますぐ菜月さんを呼んできて、あの人で実験しよう、ほら」

「いえ! もう夜中ですよ! 菜月さんは寝られないのに布団に入る時間は絶対に変えないんです。もう起きてくれません」

「そうですか……」


 クライネさんがしゅんと肩を落とした瞬間に、髪の色が真っ黒に変わりました。シブヤさんと同じ色の、同じ獣耳が、輝石の光を吸収しているのが神秘的でした。


「私たち――エイミー、あなたもその端くれだけどね、私たち理論派の魔術師は、感覚派の人たちに驚かされることばかりなの。理屈上できそうにないことを、あの方たちは感覚だけでやってみせたりする。現象があって理屈があるのか、理屈があって現象があるのか、それとも、なにもないからなにかがあるのか、私には分からない。エイミー、あなたの持論として、魔力の才能は何に由来すると?」


「年齢と聞いたことがありますが」

「菜月さんや、何歳になっても魔法の使えないローゼがその反証よ。聞き及んだことでなく、あなたの持論を」


 菜月さんとローゼさんの違いを考えたらいいのでしょうか。そうという訳でもないような気がします。持論もなにも、秀才たちですらいまだに議論の決着が付かない魔法の才の分野に、一家言などありません。首を振ると、そんな私の様子を見て、クライネさんは花をこぼすように笑いました。


「私の一説、聞いてくれる?」

「はい」

「とある哲学者が『非論理空間』と言いました。なんのことだと?」

「け、見当も付きません」


「言葉にならない脳の感覚的な空間のことをそう呼んだの。つまり、人間の感覚は、言葉にあてはまらない何かである。型抜きのされない溶けたチョコレート、冷やして固めて型抜きをした瞬間に言葉となって私たちの口から出てくる。それ以前にある感覚の、液体的な状態の深さ。つまり、非論理空間の広さが、魔法に影響を与えるんだと思うの。私たちはつい言葉に定義を当てはめてしまう。あの子が言葉にするのを嫌がる感じを抱いたことはない?」


 菜月さんと過ごして一ヶ月弱。思い当たる節は無数にあります。あの方は確かに、言葉にさせようとするとじっと黙り込んで、訥々と話をするのがいつもの様子でした。喋る時間より考え込んでいる時間の方が長い、眠れない夜にはきっと星空と同じ脳内をしているに違いありません。おそらくは誰よりも物事を考えているのに、それを言葉にする度にどうしても納得がいかないから、あの女性の沈黙は宝石のような価値を持つ。語らないことがあの方の美学であると、そんな気がします。頷くと、クライネさんもそうしました。


「ローゼは思ったことは言うタイプだし、言葉にそれほどの価値を抱いてない。私たちも、たぶんそう。感覚的な深さと、その稀有な態度が、魔力を作る……というか、魔力はなにか動力的なものではなくて、脳の疲労の限界で、想像力のそもそも深い人にとっては、魔法を使うことが苦役にならないのではないかと、そう思ってるの」


「魔力は私たちの身体に溜まった気力とかでなく、脳の感覚的な部分の限界、ですか?」


 クライネさんは頷きました。


「でも、だとすれば、クライネさんがあれほど魔法が使えるのは、どうしてですか」


 私が聞くと、クライネさんは無邪気な微笑みを浮かべます。それがあまりにも、本当に無垢だったので、私はその表情から目が離せませんでした。


「私、さっきは菜月さんとローゼの年齢で反証できるって言ったけど、年齢もね、実はあると思う」

「でも、仮に年齢が要因だったとしても――」

「エイミーの言いたいことは分かる。私が、歳をとっているようには見えないんでしょ。でもね、こう見えて、私はもう400年くらい、生きてる」


 思わず握り込んだ私の手をクライネさんが掴んで、緊張を解かせようと撫で付けてくれても、私の驚きは止みませんでした。冗談に思えなかったのは、クライネさんが冗談を言う人ではないからです。


「禁呪を使って与えられた罰は、この恥ずかしい容姿だけじゃないの。真っ白な何もない空間で、おそらくは、400年くらい過ごした。推定だけどね。だから私は400歳だし、魔力量もたくさん。そういうこと」

「そんな……なにもないところで?」

「うん。でも、これ以上は話したくない。思い出すだけで吐き気がする思い出だから」

「あ、えと、ごめんなさい」

「ねえ、誰にも言わないでね。あなただけ」


 私は声も出せず頷く他ありませんでした。もとより、誰かに言いふらそうとは思ってはいませんでしたが、共有された内緒の重さがずんと胸元に落ちてくるようでした。


「さて、そろそろ寝る? 明日は、地主の家に行く日だし」

「……はい」

「エイミー、ちょっと寄って」

「はい?」


 私がクライネさんの近くに寄ると、その人は私の頬を両手で抱いて、唇に口付けをしました。困って放心する私をクライネさんはじっと見つめて、ただ「寝る前のキス」と言うと、私の背中を押して部屋から出しました。部屋を出た廊下で、私は膝を抱えて座り込みます。共和国民じゃ、あるまいし……。


× × × × ×


「あ、エイミー、やっと来た」

「はい。エイミー、来ました」


 菜月さんの部屋の扉を開けて、どっと安堵する心地が背中を撫で回すのを感じました。菜月さんはベッドから脚を投げ出して座っていて、部屋に入ってきた私を、ほんの少しだけ口元を弛めて、迎え入れてくれます。


 菜月さんと寝るのが、もう普通になってしまいました。もうそれ以外には考えられないくらいに。もはや人が枕無しでは寝られないのと同じで、私は菜月さん無しでは寝付けません。私をこうにまでしてしまったというのは、菜月さんに重大な責任があると思うのですが、本人には言いません。


 まるで何か色を浮かべるのが禁忌であるかのように、すべて吸い込んでしまいそうな真っ黒な髪と真っ黒な瞳。それとは対照的に、夏の輝く雲のように、全て跳ね返してしまいそうな真っ白な肌。その素肌に控えめに浮かぶ青い血管、大きくて丸いのに射るような瞳、絶望だけ知った幼い女子のような。芯の通った姿勢、でも疲れて切ったかのように静かな佇まい。この方は、観察すればするほど、不思議な気持ちにさせる人でした。真冬の夜空を眺めていると、前後の感覚が遠のいて、きっと空気はこの地を丸く覆っているのだと思う時がある、ああいう感覚を細部に持っている人、手を伸ばした先には絶対にあるのに、けして届かない人――。


 この人が持つ、人を引き付ける力。その場にいない時でも、誰かが気にしていて、欠ければ欠けたことが気になって仕方がなくなる。菜月さんはある日私たちの前に現れたけれど、きっとどこかに置いてきた人たちがいるはず。


 私は菜月さんの隣に座って、その人の髪を触りたい衝動を抑えながら、口を開きました。


「菜月さんは、いつか『日本』に帰ってしまうんですか」

「え?」

「置いてきた人が、いるのではありませんか」


 答えを聞くのは惜しい。でも聞かずにはいられない。そういう自分の節操の無さと焦燥が卑しく思えました。私の言葉に菜月さんは一度止まって、それからその大きな瞳で、空気を視界に捉えようとするみたいに、虚空をぼおっと見つめていました。


「いるのかな、置いてきた人が」

「帰りたいと思いますか」

「分かんない」菜月さんは何かを決心したみたいに、息を吸います。「ここに来てから、帰りたいとも帰りたくないとも思わなかった。それは、誰がどこにいるとかではなくて、もしかしたら、エイミー、あなたの言った通りかも」


「私の、どの言葉ですか」

「私が自分のことを考えてないって言ったこと。実際、私なんか、どこにいたって変わらない。私がどこにいるか、私にとってはどうでもいい。でも私がいなきゃ成り立たない場所が、私が支えてないと崩れてしまう洞穴が、どこにあるか、そういうことは考えている気がする」


 菜月さんは菜月さんのために生きられない。自分のことを酷く卑下しているから。私に魔が差したのは、それを改めて認識した時でした。この人を、同情に身を捧げる聖女にしないためには、つまり、この人がただまず自分のことを助けるには、大きな意地汚い衝動が必要で、私の急速に回り始めた脳内は、その答えを出すのに時間をかけませんでした。


「菜月さん、禁呪は、ほんの300年前まで人間も自由に使えたそうです」


 それで、とりわけた思慮もなくすぐに行動を始めたのが、自分にとっては不思議なことで、また空恐ろしいことでした。


「え、そうなんだ」

「はい。それで、全知と全能を得た人類は、神の存在を忘れてしまいました。だから300年前、神は地上に降りてきたんです」


 菜月さんの眉が寄ります。彼女の国には、神はいなくて、魔法もない。菜月さんは何も嫌わないけれど、いつも篤い信仰者だけは目を顰めて見ていた。


 なぜなら、菜月さんの最大の敵は――、彼女が人を救う理由は――、彼女が自分を労わらない訳は――。


「いるんですよ、神は。四年に一度、凱旋します。通り道には街が建てられないから、だだ広い草原が街と街の間を囲っているんです」

「降りてくるの? 神が?」


「はい、構造の神と、生死の神と、時間の神が、三日間に渡って人々の前に姿を表します。存在を忘れさせないために、禁呪が自分たちのものだと示すために」


 言い切ると、不快な息切れが自分を襲って、菜月さんの瞳に、赤い光が稲妻のように走り抜けたのを、私は見逃しませんでした。それで、自分のした行いが、果たして正しかったのか分からなくなる。これは、菜月さんを暗い洞から引っ張り上げる、私の唯一の救い方でした。けれど、それは、猛獣の前でその子供を惨殺するようなことと相違ありません。


 菜月さんが口を開く。何事もないように。地面に落ちた惨い現実を、無感情に見つめるみたいに、厳かで、神々しく、静かに言う。


「ああ、そうなんだ。神がいるんだ。じゃあ殺さなきゃ、だめだ」


 ――運命、――運命、――運命。

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