forty-one
がちゃん! ばたん! 雨が降ってきたな、珍しいな、と思い、ローゼに天気の世間話でも振ろうかと思っている最中に、私たちの拠点の扉がけたたましい音を立てて開閉した。「なによ」と言いながら読んでいた本から顔を上げたローゼと共に、私も思案から離れて扉の方を見る。そこに立っていたのは、魔女帽と黒い外套に身を包む、いつも通り真っ黒なクライネだった。
彼女は帽子の端から今しがた降り始めた雨の水滴をぽたぽたと落としながら、息を切らして部屋の中にいる私たちを見つめる。その瞳が大きく開かれていて、なにか助けを求めるような感情が渦巻いているのが、私にはすぐに分かった。
その後ろから階段を駆け上がる音がして、私がほとんど無意識に探していた人がそこにいることが分かった。彼女もまたクライネと同じようにぞんざいに扉を開け閉めすると、クライネに向く。
「クライネさん! きっと怒られますって、ローゼさんとかに……! 動物は免疫の反応とかが出ますから、まずは確認しないと……」
エイミーが捲し立てる。なんの話をしているのかはすぐに分かった。クライネがその胸元に、長毛の黒い仔猫を抱えていたのだ。その毛からも雨粒が滴っていて、仔猫は小さく震えている。しゅんと俯いたクライネが、魔女帽で顔を隠したが、トゥキーラが濡れた魔女帽と外套を取ってやり、猫と彼女をタオルで包み込む。クライネの髪と瞳は、灰色がかった紫色だった。
「なに? にゃんこ?」
ローゼが言う。なに、この人、猫のことにゃんこっていうタイプの人なの? 私は驚きで口元を抑えた。クライネがおずおずとローゼを見る。
「飼いたい」
「飼いたいって、あなた……どこで飼うのよ」
「お城?」
ローゼはクライネの目を見てため息をつく。肩を竦めて足を組んだ。
「あなたそうやって言って、前もなんか亀を拾ってきて、結局餌をやってるのは私か姫じゃないの」
「私がやろうとするともう与えられてるんだもん! まだ時間の感覚、全然戻らないんですから……」
「というかその猫、どうしたんですか?」
ローゼとクライネの言い合いに私が割って入ると、エイミーが髪を濡らしたまま答える。トゥキーラがタオルを持ってきたところだった。
「クライネさんと二人で、一昨日事件があった公園に行ってきたんです。そこの端のところで布に包まれて……たぶん捨てられたのだと思いますが」
「怪我をしてるんだと思うんです。毛で隠れて見えにくいですが、ほら」
クライネが後ろ脚の毛を掻き分けると、痛んだのか、仔猫は小さく鳴いた。そこには実際、小さな傷のようなものが見えて、痛々しそうな目線を皆が向けた。仔猫はもう一度、愛らしい声で鳴く。
怪我をしていて、公園の端にいた。怪我をしたのは、私たちのせいだろうか。
「ていうか、可愛いわね、その子、ちょっと私にも触らせてくださいよ」
「いやです! ローゼは斬りかねません。ローゼは動いている物を斬る傾向にありますから」
「ないわよ! もしそうなら亀もあなたもずたずたでしょうが」
「お願いします、ここにいさせてあげてください。そしたら触らせてあげますから」
「あのね、野良猫を見つける度拾ってくるつもり?」
言い返す言葉が無く、クライネは身をよじる。エイミーも新たにできた師にどう声をかけたらいいのかとおどおどする。ここ数日で、エイミーとクライネはいじらしい程の仲良しさんたちになっていた。
「ねえ、なにも問題ないなら飼ってあげたらいいんじゃないの? 怪我してるの、私たちのせいかもよ」
「どうして?」
「だって、襲撃された公園のところにいたんでしょ? その時に怪我をしたのかも」
「食べ物もなく二日も生きられませんよ。あなたたちが襲われた後よ、そこに置かれたのは。捨てたやつ見つけてぶん殴るくらいならともかく、拾って育てるのがにゃんこのためになるとも限らないんだから」
「じゃあ戻すの? めちゃくちゃな気狂いに拾われるかも。こんな雨だし」
中立のエイミーを除けば、飼う選択が多数だ。別にローゼとて猫を捨ておきたいわけではない。数十分そのまま押し問答をして、ローゼが折れた。そして、ローゼは猫を抱く権利を得た。
とりあえず、城で飼えるかは姫に書簡で聞くとして、結果が分かるまではここに置いておくことになった。仔猫はローゼの腕の中にじっと収まって、次第に喉を鳴らしながら前足をローゼの腕に何度も押し付けてから眠りについていった。それを見つめていると、ローゼが私の視線に気が付く。
「あなたも触りたいの?」
私は慌てて首を振る。小動物は見てる分には好きだけど、あまり触ろうとは思えなかった。
「私が抱いたら、死なせちゃいそう。責任取れない」
「綿菓子じゃないんですよ」
「綿菓子だったらいいよ。綿菓子は死なないから」
「いいから、ほら、青髪、これ運んであげなさい」
頷いたエイミーが私のところに仔猫を持ってきて、膝の上に置いた。腹部が心もとない弾力を持っていて、そのくせ、頭部と脚はめちゃくちゃに固くて、浮いていきそうなほど軽かった。膝に置かれた猫に触る仕方が分からず、私の両手は命乞いをする人みたいに挙げられている。仔猫は不意に姿勢を変えると、その一瞬で私の目を見て、また前足をしまって眠りについた。
「顔が分かるのかな、人の」
「どうなんでしょうね。でも、落ち着いて眠りましたよ」
エイミーがあやすような声で言う。頷いて、猫の背中をつついてみた。猫は何事もないかのように眠り続けている。エイミーが私の隣に座った。クライネも食卓を囲む椅子に座ると、不安げに口を開く。
「名前を決めてあげたいです」
おお、と小さな歓声が上がる。名付け親になることなんか、そうそうない。全員のテンションがそこはかとなく上がる一方で、ローゼだけが落ち着いていた。
「なによ名前なんか。公園で拾ったんだから『こうえん』とかでいいでしょ」
私はショックでもうなにも言えなかった。こんなに残酷なことがありますか? 自分はローゼとかいう素敵な名前を付けてもらって、公園で拾ったからこうえん!? 信じられない、非人道的だ!
「こうえん! ありえない! あなた母親の名前なんていうの!?」
「え? 母親はエダだけど」
「エダさんから産まれたからあなたもエダ!」
「ローゼの名付けはあまりに才能がないので、参考にするのはやめましょう」
「あの、」
エイミーが手を挙げる。
「ポンすけ、どうですか?」
「いいですね、エイミー」
エイミーの提案にクライネが頷く。いや、いいか? たとえポンすけが可愛い名前だったとしても、この子をよく見てよ。ポンすけっぽくはなくない?
「ポンすけって感じではないわよ」
ローゼが言うと、私の膝の上で眠りつく仔猫を見て、エイミーも「たしかに」と手を下げる。ローゼは人を批判する立場にはいないけれど、こればかりはファインプレーだった。
「菜月さんはなにかないですか?」
「え~……?」
仔猫は時折姿勢を変えながら、私の膝から離れようとはしない。あまり肉付きのいい身体ではないけれど、仔猫には不満がないようだった。脚を動かさないようにしていると、少しつらいけど、不思議と居心地は悪くなかった。仔猫はやせ細っていて、長い体毛に隠されてはいるけれど、連なる建物みたいに背骨が出張っていた。
「『新宿』とか……」
「シンジュク? なんか傷口の擬音みたいで不快ね」
「傷口の擬音! 東京の根幹だよ!?」
「なんの話よ!」
「どうやら私たちではダメなようです。子供は持たない方がいいかもしれません。トゥキーラ、あなたはなにかありますか?」
クライネが話を振ると、トゥキーラは首を傾げた。
「姫様に書簡を送るのですよね」
「そうですね」
「姫様に決めてもらいましょう」
それが一番良さそうだった。
姫に手紙を送ると、返事はその日中に返ってきた。配達屋は封筒の姫の名を見て真っ先へここに届けたらしい。受け取った封筒の紙はエイミーの髪の毛と同じくらいすべすべで、ただ「猫の名前を決めてください」というだけの私たちの手紙に対して、姫は三枚で返してきた。しかしそのうちの二枚が私に対する想いだったので、ローゼはげんなりとした顔を隠さなかった。
『菜月、お手紙をありがとう。連絡がないと不安になるけれど、連絡が来るとそれはそれで不安になりますね。夕暮れに闇に染まっていく空を見て、あなたの髪の色を思い出します。ねえ、あなたは雲のない青空が好き? それとも、雲の流れる昼が好き? 私はあなたが好きよ(ここにハートマークが描かれている)。お城の、とりわけ仲のいい女子をあなたに付けたから、少し寂しい夜を送っています。夜の空が海だったらと思わない? そうしたら、波の音で淋しさも紛れるかしら。いえ、菜月の寝息ならもっといいわ。あなたの吐息は波の音より可愛らしいもの。菜月はあまり眠れないたちよね。静寂の夜をどう過ごすというの? ぜひ教えていただきたいです。月に私の影を見るかしら、なんてね……。ところで猫の名前でしたね。私は名付けには類稀な才能があると母君によく褒められたものです。お人形遊びには、名付けが欠かせませんもの。あなたを想う夜、夜に紅茶を頂くのは褒められたことではありませんけれども、どうしても我慢できなくて、昨夜自分で淹れました。けれど、暗くて紅茶の濃さを加減できず、ひどく渋い茶になってしまって、恥ずかしい思いをしました。……渋い味を噛み締める一夜。そうね、猫の名前は「シブヤ」なんてどうかしら』
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