forty
赤髪の奴隷 5
腹部から下腹部を、服の内側から撫で回すような気配を感じて飛び起きた。吸い込んだ悲鳴を抑え込むように、口元が押さえられる。抵抗しようとした動きは、ごく落ち着いた吐息が「しいっ」と言うのを聞いて止まった。
「だれ……っ」
「カミラよ」
名前を聞いても思い当たる顔はない。胸が上下して、暗闇に目が慣れてきてやっと、その人があの黒髪の女だと分かった。
「ごめんね、揺すっても起きなかったから、股ぐら触ったら女は起きるかと思って」
「……何の用?」
「お願い。声をひそめて」
じっと暗い影が私を見ている。他所からの寝息が響くほど静かな部屋だった。意図を掴めず困惑する私に、カミラはぞんざいに言う。
「私と逃げて」
自分の眉根が寄るのが分かった。
「なに言ってるの、あなたが地主に計画をバラしたんじゃ――」
「私が? どうして。私、バラさないって言った。もしバレてたとしたら、他の女が言ったのよ」
顰められた囁き声が、鋭く耳朶に響く。この人が実際に切羽詰まっているだろうというのは、声の色から伝わってきていた。
「……だとしても、あなたは最後まで計画に反対してた。どうして急に心変わりしたわけ?」
カミラは真っ暗な部屋で黙り込む。彼女の控えめな吐息、どんな寝息よりも薄い吐息が聞こえる。彼女はどうしてか、息を吸うことを嫌がっていた。
「――あなたの言葉を聞いたから」
じっと闇を見つめる。屋根がぱきりと軋む音がする。鼓動で身体が小さく揺れているのが分かって、抑え込もうと胸を撫でた。
「私の言葉?」
「自分の子供ができたとき、あの地主が手を出すかもしれないって」
記憶を探って、確かに言ったことを思い出した。老婆になったら捨てられると言ったセッカに、私は「奴の子を孕めば、その子が慰み者になる」と言い返した。
「言ったけど、」
「妊娠してるの」
「え?」
「妊娠してる。あいつの子」
カミラは周囲を気にしながら、しかし声を掠れさせるのが焦れったいとばかりに、落ち着きなく捲し立てる。
「ここを出ても行くあてがないし、この子の事を考えれば逃げるなんて危険なことも、それで生きていくなんて不安定なこともできないと思ってた。でも、あなたが言った言葉が、ずっとずっと離れないのよ。本当に、男は子供に手を出すと思う? 私は思う。あなたがここに来て、たった数日で気が付いたことに、私はまるで気が付いていなかった。でも考えてみれば当たり前だった。それならここを出た方がいい。最近じゃ、ただで人を助ける酔狂な魔法使いがいるって、あいつが愚痴を言ってた。そういう奴が出てくると、金稼ぎのツテが減るって。でも、金がない私たちみたいなのには、これ以上ないことよ。そういう時代なら、私たちは外でも生きていけるかもしれない。シモーネ、赦して。決心が付かずにいたの。あなたの頬を叩いたこと、許して欲しいの。あなたが調和を掻き乱せば、私たちにも害が及ぶと思っていた。お腹の子にだってその因果が及ぶと。つわりで気持ち悪いのに、そんなこと言って気持ちを乱さないでとも思っていた。でもそれが間違いだったのよ。この状態が「調和」だなんて! 泥濘で生きれば泥濘の生き物になる。ならなきゃ泥に溺れて死んでしまうから。でも、あなたが思い出させてくれた。私たちは皮膚を食い破る蟲じゃない。もっと気高い天の使いよ」
言う内に、彼女は泣き出しそうになっていた。この未来も見えぬ扉も開かない房の中で、幾ばくかの夜を、そういうことを考えながら過ごして来たのだろうと思った。背を壁に向け、腹を撫でながら。私より一回りも年上の女性が、私のような少女に縋り付くようなことが自然な状態だとは思えない。でも、彼女は私より弱かった。腹に子を抱えていれば、誰だって気高くはなるが無鉄砲ではいられなくなる。母を助けるのはいつだって長女だ。聖歌を歌いながら騎馬に乗って城を落とすのはいつだって男だ。
お腹の子があの男の子供だったとしても、安寧の中で育て上げようとするカミラの精神が、私はどうしても嫌いにはなれなかった。
「誰が裏切ったか分からない。でも、この人たちを置いて行きたくない」
裏切り者がいるからと言って、逃げる希望を抱いていた彼女たちを置いていく選択はできなかった。カミラが首を振るのが分かる。その毛先がローブに触れ、流水のような音を立てた。
「逃げ切ったあとで救いを求めればいい。姫君は情に厚くて、救った奴隷を何人も城で雇っていると聞いたことがある。まずは裏切られないこと、そうじゃない? 二人でやりましょう。二人で! 男が捕まれば、男に入れ込んでた女も目を覚ます。同じ境遇の私たちなら、きっと協力して生きていける」
「計画は? どうするの? これだって誰が聞き耳を立てているか分からない。また漏れたらまた同じことよ。今度はもっと締め付けが強くなるかも」
「聞いて」
カミラは口を私の耳に寄せた。さっきまでよりも更に小さい、小虫の羽音ほどの声で言う。
「――トイレの、ちり紙。知っているでしょ、あの男はちり紙を半分使って捨てる。半分で捨てるのなら、下の方は見ないわ。一番下から二番目の紙。そこで筆談しましょう。確認したらトイレに流せばいい」
用足しはほとんど無制限に行ける。なぜなら、用足しに使う器官は性行為に使う器官だから。病気になっては男が困る。
二時間に一度、私たちは間を空けて交互に用足しを要求する。私たちが使うトイレは地下室から一番近い場所で、ここは毎朝、男が新聞かなにかに投書する文章の草稿を作るため、習慣的に使われる。なので、ペンも置いてあれば紙にも困らなかった。私たちは袋に入れられたちり紙にそのまま文字を書く。書き留めを確認したら水に流すが、万が一のため、部屋に戻れば私たちにしかわからない合図をする。目を見ない。それだけだった。もし何らかの理由で確認できなければ、逆に見つめる。
計画が本当に動き出したのは、それからだった。
少ないやり取りの中で決まったことはいくつかある。
たとえば、清掃婦が来る曜日を狙うこと。男は家政婦を雇わない。雇えば私たちの存在を知り、恐れから二度とは通わなくなるからだ。そのために、週に一度清掃婦を呼ぶ。清掃婦を呼ぶというのは富豪にはありがちな行為だ。その時は基本的に地主は部屋を空けるし、全部の窓が換気のために開け放たれる。
ここの女性は、長い人では三年近くもいるが、実はここの規則をなんら知らない。知っているとすれば、地主に逆らわないこと、トイレにはいつでも行けること、地主以外の男に触られたらその男を追い出せることである。しかし、なにか要求を試してみたことがない。すなわち、食事は増やせるか、果物は食べられないか、少し話ができないか、今日はベッドに呼んでほしい。そういう要求が通るか否かという試験をしたことがない。
私とカミラは数日で、ある程度のわがままが通じることを明らかにした。私たちはこっそりと舞い上がった。計画が形になっていく。希望で光が見えてきたのだ。
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