五章 これを、世界で
thirty-nine
赤髪の奴隷4
「あの男、トイレのちり紙を袋の半分まで使ったら捨てるのよ」
「え、どうして? 意味、ある?」
「金持ちの誇示に違いないわよ。そんなことしたって、なんにもならないのに」
一日が始まり、のそのそと起き始めると、自然と部屋の隅に集まって、こそこそと脱走の計画を立てるようになった。男の愚痴を合間に挟んで溜飲を下げようとするのはここ数日でできた流れで、奴隷たちの新たな趣味だった。
「清掃婦にも手を出そうとして、叩かれてたわよ」
セッカが言うと、忍んだ笑いが部屋を包む。
「奴隷にしか相手にされないから、こんなことしてるに違いないわ。あれほど惨めな男、奴隷街にもいなかった。ねえ、そうじゃない? きっとろくな愛を受けてこなかったのよ」
私は時折頬を綻ばせるくらいで、憎まれ口を叩くことはなかった。男の話など、どうでもいい。でも早くここを出るなら、彼女たちの不満を高揚させるのも必要不可欠だった。
会話に参加するのはほとんど全員で、参加しないのは、あの艶やかな黒髪を携える、舞台女優じみた女だけだった。彼女は時折、聞き耳を立てるみたいにこちらを窺うが、しかし下らないと言わんばかりにそっぽを向く。
あの人に計画をバラされては困る。できれば仲間に引き入れたかったが、私に対する態度は初日からずっと固いままだ。自分の前髪が、薄暗闇でも赤く染まっているのが見える。胸下まで伸びた毛先をふと触った。
「ねえ、逃げる気はないのですか」
私が声を掛けると、女は鬱陶しそうに首を振った。こっちを見る瞳は雨を浴びたみたいに潤んでいて、口を開くなら最低限と言わんばかりに、ただ「いい」と言う。
「いい、とは、ここにいたいのですか?」
「ほっといて。別に、告げ口したりしないから」
こうも突っぱねられると、何も言えはしない。周りの女たちは、早くも黒髪への無視を決め込み、計画から排除しようとしていた。
告げ口したりしないから――。考えを見透かされると気恥ずかしくなる。でもやはり、なにより、私たちは足並み揃えて脱出をしなければならない。
私はあえて彼女にも聞こえるように、その後の話し合いを続けた。最終的に、計画はかなり大胆に仕上がった。
力ずくで脱出するのは、私以外魔法を使えないから無理だ。武器らしき武器を手に入れることもできない。手下を人質に取ったとて、地主はなんら動揺しない。だから、地主本人を人質に取る。地主さえ人質にしてしまえば、手下は地主の身を危険に晒すことはできないし、私たちは大層な武器も武装も準備も必要ない。 大胆とはいえ、現実的で、合理的な発想だった。魔法を使える私が地主を脅し、その隙にもう一人が手足を縛り付けてしまう。魔法の発動を匂わせたまま私たちの部屋を警備に解放させ、皆も連れて行く。
準備が必要ないなら、実行は早い方がいい。しかしそれには二つの条件が揃う必要があった。一つは、しばらく呼ばれていない私が、また呼ばれること。もう一つは、一緒に呼ばれるのが、計画に参加しようとしない黒髪の女ではないこと。
そう、あの男は、しばらく私を呼び付けていない。理由は簡単だった。この部屋で私に憐れな思いをさせて、呼ばれることを悦びにするような女を作るためだ。魔法で男を燃やしたあの日、男は私の食事だけを増やすように言った。待遇に序列を作り、女たちの嫉妬を集め、この部屋に希望を持たせないためだ。だがそうはいかなかった。まさにその日から脱走の計画は始まったし、食事など、分け与えればよかった。それどころか、この部屋にはそこまでの大食漢も住んではいない。自分がその肥えた腹でよく食うからといって、女たちがそうではないということを、奴は女でも無ければ痩せてもいないから知らなかった。せめてこれがスイーツだったら、考えるのも恐ろしいことではあったけれど。
「私が呼ばれた日、その日が、何があっても実行する日になる」
私の言葉に、女たちは荘厳さを伴って頷いた。
・・・・・
そして、その日はそう遠くなかった。扉が外側から叩かれると、名前が呼ばれる。私とセッカの名前が聞こえたのは、計画が決定してからすぐだった。
心臓が早鐘を鳴らす。今日、ここから出る。立ち上がり、軋む膝の間接の音が手下に聞こえないか不安だった。扉を開けてじろりと私の身体を見回す男が、なにかに勘づいていないかと呼吸が浅くなる。部屋に行き、油断を誘って、すぐに決めなければならない。頭の中で何度も想像する。きっと素早く行動できるセッカが一緒だったのは心強かった。
「おい、赤い髪の女」
私が一歩前に出ようとすると、男に声を掛けられて、身が硬直する。
緊張が顔に出ていた? 挙動不審だった? おどおどとしすぎた? 喉が枯れを訴える。瞳が揺れ、男の顔を捉えた。
「なに」
「お前は、これだ」
男は手に布を握っていた。それを、私の目元に持ってくる。何をされるのかと身構えるうちに、視界が塞がれた。塞がれたと分かった瞬間、崩れ落ちそうだった。魔法は、見えていないところには撃てない。目が見えていなければ撃てない。
計画は、その時点で失敗だった。私があの日、あの男に、魔法を撃ち込んだばかりに、私は脱走の方法すら失ってしまった。
私はその日、結局、しっかりと、男の慰み者になった。
魔法を使い、腹に蹴りを入れられたあの日、私が無鉄砲でいられたのは、その痛みをまだ知らなかったからだ。知らぬ痛みを受け入れるのは簡単だった。だが、働かない視覚が、どこから飛んでくるか分からないあの腹部の痛みへの恐怖を増幅させる。二人目はいらない。婦人たちのあの愚痴は、一度痛みを知ってしまったから。腹を抑えて寝られない夜を思うと、なにも大胆なことなどできなかった。
口に汚物がぶち込まれる。何度吐き気を催しても時間が進むことはなく、ただ血の色も透かせない暗闇の中で動かない身体と運命を呪う。いつからこうなったのだろう。ただ幸せであろうとしただけなのに。それとも、幸せであろうとしたから? そうなのかもしれない。息が苦しい。望めば大抵の事が叶わないのはまだ人が猿だった時代からそうに違いなかった。自らの欲望を手にするのは、いつだって高慢で横暴な人間ばかりだ。彼らは死を恐れる。死ねば得た物を手放すことになるから。敬虔なる者は常に失い、失い、失い、そして、死など凌駕する。神は与えた。私たちに、罪を。けれど贖罪が、男のナニとは、あまりに――。
・・・・・
「ふざけてる! なにもできなかったのよ、この子!」
セッカが怒鳴る。戻ってきた薄暗い室内で、私はじっと口内の不快感を押し殺すようにしながら、寂れた木組みの床を見ていた。憐憫の残る悲愴感。みな、今日の脱走に期待していた。いい報せが来るかと思えば、私が持ってきたのは、私が敗北した報せだった。
痛々しい視線を向けられているのが分かる。セッカの矛先は鋭く私を貫こうとしている。期待が裏切られたのだから、彼女がひどく怒るのも当然のことだった。
「ごめん、なにもできなかった」
「ごめんですって! この数日、私たちは何をしてたわけ? 滑稽よ、思い返してご覧なさい、あなたたちも!」
セッカが部屋を見回すと、全員が目を伏せた。
「どうして、だめだったわけ?」
うちの一人が聞く。セッカは声を高くして答えた。
「目を塞がれたからよ! この子が来た日、魔法なんか使ったのが悪かった!」
「どうしても取れなかったの? 目隠しは」
次に聞いたのは、黒髪の女だった。私は思わず顔を上げる。彼女がこの話に参加するとは思っていなかったからだ。答えようとして、声が掠れる。咳で払って、私は口を開いた。
「男の態度は慎重だった。ずっと私の手を離さなかった。隙を見て目隠しを取ることもできなかった」
そこまで言って、不意に予感が脳裏を走る。男は慎重だった。男が私をしばらく呼ばなかったのは何故か? 私をおかしくするためだ。それで頃合いを見て呼んだはずなのに、あの慎重さは何一つの信用もないことを表していた。目も、手も、口も、なにも自由にしなかった。
……計画を、知っていたのでは。そして、その計画は決して上手くいかないと思い知らせるために呼んだのでは。
黒髪の女を見る。密告するとしたら――この人しかいない。わざわざ男の態度を聞いたのも、それを思い出させるため? 彼女は最初から計画に参加しようとしなかった。逃げるなんて、と私をぶった。じっと見つめると、彼女は初めて私を強く見返した。コウモリの羽根の色をした瞳が、暗闇で淡く光っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます