thirty-six

 エイミーと公園を後にした。


 空気が張り詰めたのは、まだ数歩も歩いていないふとした刹那だった。エイミーが不意に立ち止まる。なにかと思って見つめると、割れんばかりに深刻な表情を浮かべたエイミーは、私を歪めた眉で見返す。


「菜月さん、なにか、変じゃないですか」

「変? なにが?」

「なにか……空気が、ざわめくのを、感じませんか? 違和感がすごいのです。……私たち、ここにいるべきじゃないと思います……!」


 空気――? エイミーの焦燥は凄まじかったが、私にはなんら感じ取れなかった。空気はいつもの夜に似て、ひどい静けさを抱いているのみだった。だからといって、私は鷹揚に構えようとも思えない。エイミーがここまで言うのに、きっとなにもないとは信じられなかった。


「覚えがあるんです。この感覚に……離れなきゃいけません……菜月さん! 離れなきゃ……っ」

「落ち着いて――」


 私が言い切る前に、エイミーが私の右手を握って走り出す。痛みに顔が歪んだけれど、エイミーはそれどころではなかった。


 そして、音が轟いた。空気と耳の奥が揺れる程の、凄まじい音が。そのすぐあとに、風が私たちを追い越し、小さな砂や葉が、背中に強く衝突する。怯えで動きを止めたがる身体に鞭を打ち、なにが起きたのかと振り返る。


 髪が浮き上がるような怖気が差した。エイミーも立ち止まる。私たちがさっきまでいた、ほんの数十メートル先が、抉れたように忽然と闇夜で意識を失っていたのだ。あの噴水の素敵な公園には、ただ煉瓦の破片のみが散り、周囲の建物は発砲スチロールのように簡単に欠け、形を歪めていた。一帯はこの一瞬で、瓦礫の砂漠と化したのである。


 エイミーが異変に気付かなければ、今頃、私たち――。


「菜月さん、止まらないでください、走って」


 エイミーの声が、不安を伝染させる。


「また来そうなの?」

「分かりません、でも、あんなの一溜りも……正体も分からないのに――」

「いや、」私は先を急ごうとするエイミーの手を強く握る。「見えた」


 削れて荒廃し、一切の穏やかな雰囲気が消え去ってしまった地面に、フードの付いた外套を羽織る人影が見えた。その口が動き出す。今度こそ、空気が張り詰めるのを感じた。


「菜月さん、また……!」

「うん、私にも分かる」


 二度目なら、確実に分かる。全身の肌が浮き立つような感覚。なのに、視界と聴覚はしんと静まり返っていて、全ての生物的な動きが、空と地面の先で止まってしまったように感じる。エイミーが違和感と言っていたのは、これだ。


 私たちを仕留めようとしているのか。私たちの方を見ている。きっと魔法だ。あれほど大きな魔法なら、詠唱に時間が掛かるに違いない。さっきはその間に私たちが照準からズレて、たまたま外れた。だが今度はどう来るか分からない。走り去ったとて、一帯を消し飛ばす威力なら、壁の裏に隠れたって無意味だ。今度は逃げる先さえ考慮して撃ってくるかもしれない。なぜ襲われている? 分からない、考えはまとまらない。本能が警告を発している。


 どうしたら――。先に仕留める? いや、あちらだって小さな魔法を唱え直すだけだ。


「エイミー、目をつむって」

「……はい!」


 何故、と聞く暇があれば、エイミーは素直に従った。


『――ティ・ニルーグ・ラシュ』


 自分でも目をつむった。瞼の裏の血の色が、瞬間的に姿を現す。閃光を散らす魔法。暗闇には、突如として太陽ほどの輝きが現れたに違いなかった。目眩しにくらいなってくれればいい。エイミーの手を引いて走り出す。とりあえずは、奴の視界から外れなければ――。


「――えっ」


 外套の人間は、真正面にいた。反射的に振り返る。そこから人が消えているわけではなかった。敵は一人じゃなかった! ヤケだ、と思った。口が動く前に足が出る。魔法使いとしては二流なのかもしれないが、関係なかった。想像以上に勢いのついた足が、外套の向こう側にある肉の感触を蹴り飛ばす。体勢が崩れたところを追撃することはできなかった。後ろの魔法使いがどうしてくるか分からなかったからだ。正面の魔法使いの手が私に伸びてくる。だが、力は加わらなかった。フードが外れ、男の顔が見える。口をぽかんと開けて、虚ろな目でそのまま地面に崩れ落ちた。


「クライネの予感が当たって良かったわ。感謝してくださいね、菜月」

「ローゼ……」


 ローゼがいた。彼女は血のついた剣を魔法使いの外套で拭うと、私を見る。黒い外套が月光を反射して、白い刃がこちらを睨むみたいに見えた。


「状況は?」

「よく分かんない。でもあっちの魔法使いがやばい。ここを吹き飛ばす気」


 振り返って指を差そうとすると、今度こそ何もいなかった。


「あれ」

「あっちのはクライネがやりました。賊は二人?」

「分かんない、いまのところは……」

「いえ、二人じゃありません。あの魔法使いの所へ飛ぶ間に何人も同じ背格好の奴らを見ました。姫の土地を汚すのは忍びありません、菜月さん、エイミー、ローゼ、覚悟はいいですか」


 不意に闇から現れたクライネが、私の背中に両手を当てる。


「高いところが苦手なら、目をつぶってて、ください。――」


 微かに聞き取り難い声量でクライネがなにかを呟くと、触れた両手から突き飛ばされるような感覚がして、思わず短かな悲鳴を上げた。私を押し退けるような風が背中を包み込む。裂くような速度で空を飛んでいた。街はみるみる小さくなっていき、ずっと先に見えていた外壁さえ越えた。


「これ、着地どうしたらいいわけ!?」

「菜月さん!」


 見ると、エイミーも飛ばされてきていた。急に訪れた高所と浮遊感が恐ろしく、地面が近づくにつれ焦燥が足元を駆け上がってきた。


「なんでこんなことするわけー!」

「私が付加魔法を掛けます!」

「やめなさい、クライネがそこまで考えてないわけがないわ」


 ローゼもまた飛ばされてくる。実際、壁を越え、あの見慣れただだっ広い草原が近付くと、反対側に引っ張るような力が働いて、多少足先が痛い程度で済んだ。クライネが私たちの前に姿を現す。


「姫がわたしやローゼを菜月さんたちに付けたのは、もしかしたらこれを考慮していたからかもしれないです」


 クライネの言葉を聞いたローゼは私をじっと見つめる。


「ああ、そういうこと」

「どういうこと?」


 聞いても、ローゼは肩をすくめるだけだった。


「神はまだ教えていないって言うでしょ」

「言わない。どういう意味?」

「知らないうちが華」

「知らぬが仏ってやつ?」

「ほとけ?」

「ほっとけですか?」

「ノー」

「雑談はそこまでです。追撃はそう遅くないと思います」


 クライネが舌足らずに言う通り、外套の奴らは既に草原に降り立っていた。そしてそれは思った以上に多く、目視するだけで10人程度はいる。魔法使いが10人以上は、こっちの分が圧倒的に悪いのではないか。


「私は前線に出るわ。魔法使いの命乞いは楽しいんですよ、語彙に富んでるから」


 趣味の悪いローゼが剣を抜いて颯爽と敵陣に向かって行くと、エイミーが私の裾を掴む。


「菜月さん、私武器がありません」


 エイミーが言った。そして――抱いたのは、ほんの小さな不自然だった。


 例えば、ベッドで寝ていて、二度寝をして、ほんの5分のつもりが20分が経っていた時のような。


 あるいは、一度経験したことを、もう一度追体験しているような、そう、デジャヴ的な浮遊感。草木の殊更、小さなズレ。


「武器、あるじゃん」

「え?」


 エイミーが呆然と聞き返すのも無理はなかった。急に、地面にぽつりと、エイミーが普段持ち歩く短銃が置いてあったのだ。さっきまでは無かったはずなのに。


「どうしてここに……? クライネさんですか?」

「いや、わたしは持ってきてません。懐かどこかに仕舞ってたんじゃ? とりあえず、私もローゼの援護をしてきます」


 クライネが発つ。


「そんなはずは……なにか、紙が。絵が付いてます、菜月さん」

「絵が?」


 銃に紙が貼り付けてあった。エイミーがそれを取って私に差し出す。そして、エイミーが差し出したその紙を見て、私は唖然とした。紙に書いてあるのは絵ではない、文字だ。


 そして、日本語だった。


『死ぬ心配はせず、存分に力を使って』


 ――日本語、日本語ですって? 急に目前が混乱する。確かに「日本語」だった。そう、日本語。これが明らかに私の使い続けてきた言語なのだとしたら、私、今まで何語でエイミーたちと話して、何語を読んでいたわけ。


 今まで見ていた文字とは明らかに違う、慣れ親しんだ日本の文字が、風に曝され揺れてうごめく。


「エイミー?」

「はい」

「私っていま、普通に話してる?」

「……いまもなにも、ずっと普通ですよ」

「この文字、読めないの?」

「これ、文字ですか? 菜月さんは読めるんですか?」


 喋りながら、エイミーは短銃に弾を込める。暗く、風の吹き抜ける草原の夜に、不意に孤独を覚えた。


「これ、日本語だよ」

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