thirty-five
「…………」
「答えられないんですか。私は、お城と菜月さんのどちらが好きか答えられますよ。菜月さんより大切なものなんて、私いま、ひとつもありません」
エイミーは、私の小さな冗談まで覚えていた。きっと仕草までつぶさに覚えているんだろう。嘘のない感情。他に大切なものなんか一つもないと、そんなこと、言われたことない。胸腔は居心地の良さに浮足立ち、綿に包まれるような浮遊感にかえって不安を抱いた。だったら答えてみようか。私はあなたのことを誰よりも大切に想っていると。でも、返ってくる言葉は分かりきってる。では、なぜ、姫様を抱いたのですか。
何も言えない。嘘も付けなければ本当のことも言えない。そういう状態をなんと呼ぶのだろう。不誠実? 非道徳? 無神経? 無思慮? すべて? それが私のすべてなら、なんと滑稽なのかと悲しくなる。私は何かであった物の成れの果てなのだ。春には踊られた、見向きもされない枯れの木。冬があったから春がいいのだね、とは思われない。確かに春はあったのに、と思われるのがオチ。
存在なしで、無いはやはり無い。でも私は無いことを常に持ち続けている。きっと私は、みんなが生まれたあとに、生まれたに違いなかった。
「奴隷の人たちを救うために、必要なことだと思った」
「必要なこと?」
「実際、うまくいった」
「ではもっと嬉しそうにしてはどうですか」
エイミーが天使のような声で言う。
「できない。だって、そのためだけに人の愛を利用したのに」
エイミーが眉を寄せる。なにか考え込む時に、人の顔をじっと見つめたままにする仕草。瞳が左右に揺れて、私の両の目を見比べる。離せば消えゆくと思っているかのように、じっと。そして、また細い息を吸う。肺で混ざり合う夜の漆黒の空気が、私には想像された。
「……ああ、なるほど。私、分かりました。菜月さんは優しくて素敵な人で、だからみんなを助けようとするのだと思ってました。でもそれ以上に、きっと、自分のことをなんとも思っていないのですね。人を助けることは、自分を犠牲にすることだと、そう思ってる」
「エイミー、私、あなたにそんなこと言われたくない」
「いいえ、菜月さん、あなたにこれを言えるのは、私だけです」
「私、なに言われたって変われない」
「ええ、人は変わりません。変わりたくても無理です。でも、誤解を解くことはできます。菜月さんは、きっと、奴隷の人を助けるために、姫様を利用したと悔いているんでしょうけれど、それは違うと思います」
「話、聞いてた? ローゼにも言われた通り、私は彼女を利用して――」
「――姫様が可哀想だと、そう思ったのでは」
甘やかすみたいな温い風が頬を掠めていって、目元に熱がこもった。
「姫が? 可哀想?」
エイミーが言うのは突拍子もないようなことに聞こえたけれど、覚えのある感情でもあった。
あの人は、吹けば消える蝋燭の火だ。金魚のように優美にガーベラ色のドレスを躍らせているけど、なんら喜んではいなかった。熱帯の海の珊瑚礁のような、あの瞳もあの髪も、彼女にとっては道具でしかない。自分に役割しか感じられていないのが、暗いのにやたら広い部屋で、布団を抱きしめて一人で寝ている彼女が、私は確かに、惨めだと思った。
「さっきも言いましたが、菜月さんは姫様を下げて利用したんじゃありません。自分自身を突き落として、人を救ったんです。あなたはそういう人だから。……私、それが良いことかどうかは分かりません。でも、菜月さんが菜月さんを大事にしないことだけは、どうしても許せない。だから怖かったのです、一人で城に行かせるのが。そういうことを、しかねないと思ったから。私、お城が大爆発する方が、ずっとましだと思ってました」
私が人を助けようとするのは、私が私をなんとも思っていないから。エイミーはそう言った。きっと、けして私を非難しようとするつもりなく、いつだって私の少し下で、おずおずと上目遣いで、好意的な視線で見て、私のことをそう解いたのだ。それが私には嬉しかったけれど、やはり、仮面を剥がれることは、私にとっては心臓横に針を刺されることと相違なかった。
「私が旅に出たのも、奴隷を助けるのも、姫を抱くのも、全部、自分を貶めてるからって、そう言いたいの? 私の良心じゃなく?」
自分の良心なんてものを信じているわけではない。国語教師のように、説いて教えることができるわけでもないけれど、聞かずにはいられなかった。エイミーは髪を払うみたいに首を振る。
「良心という言葉が、人間のどんな部分を指すのか、私には分かりません。菜月さんが自分を見下げ果てて、それで人を救うなら、それは、心配にはなります。でも、仕方ないとも思います。しかし、やっぱり、私たちの話になった時にですね、思うのですよ――菜月さんは、私のことが可哀想で、一緒にいてくれたんじゃないかなって。そう思うと、やたらに惨めではありませんか」
惨めという切ない言葉を発する割に、エイミーの声は軽やかだった。けれど、それで安心するほど、私は人の心が分からないではない。軽やかに聞こえるのは、そう装っているからだ。声色はいつも、胸の中とは違う重さで出てくる。深刻なことほど軽く言い、軽薄なことほど重苦しく言うのが、常だった。
「……可哀想と思っているかなんて分からない。そんなつもり、私にはない。でも分かることはあるよ、私、最初は、エイミーのこともただ利用するつもりでいた」
私はやはり軽口を叩くみたいに、自嘲気味に笑いながら言ったが、それでもエイミーは怯まなかった。心地いい色を浮かべた肌に、蒼白い影が作られる。夜と昼の色だった。
「ええ、たまたま、菜月さんに都合よく物事が運ぶことはあるでしょう。それでも利用したと思えるほどの結果がやってくるのは、菜月さんが濡れた瞳で人に接するからです。私の境遇をすぐに察してくれたあの日、どれだけ救われた思いがしたか、分かりますか。私もきっとこの人のことを分かってあげたいと思わされたのも、あなたがそういう人だったからです。菜月さんはそうやって、憐憫を携えて……相手が可哀想なら、何かしてやろうとする。弱点だけを見付けて付け入ってしまうとローゼさんが言っていましたけれど、それは、冷酷な人間には不可能なことです。時に自分の身体を差し出して解決しそうなことなら、差し出してしまう。なにか、大きなものに逆らうみたいに! 私にはそういうふうに、菜月さんが見えます」
「そういうふうに見えていて、それで、私より大切な人はいないって、言えるの?」
「イルさん程ではありませんが、私にだって人のことは分かるんですよ。言葉にしないことも、伝わります。いつだって堅苦しく、理屈ばかり並び立てているわけではないのです。……言葉は、誰かに作られて、誰かに使われてきたものです。私たちの情動や感動や卑屈や悪意は、心の中で絵の具のようになっている時が本当の姿で……私は、菜月さんを見ていると、その色が伝わってくるみたいに思えるんです。それで、私は菜月さんのその色が、すき――」
私から目を逸らさず、言い続けていたエイミーの言葉が止まる。慌てて取り繕うみたいに私から手を離すけれど、輝石に照らされ、頬が赤く染まっていた。なにを言おうとしたのかが私にも分かると、急に目に熱いものが込み上げて、右手の傷がどくどくと痛み始める。
「た、大切だと、思ったんです……」
しぼんでいく声に、抑えきれない愛しさが増す。心臓のところから愛が張り詰めて、制服を破って飛び出てきそうだった。
「私、言葉にしない自分の感情は、信じきれない」
鬱々とした私の声で、情動に突き動かされていた夜の空気が静まり返る。それは不意に少女的な背徳の様相を浮かべた。時間が止まったような錯覚を抱く。いまこの空間以外のことを考えることが、禁止されているような気さえした。墨落とした夜、遠くで流れる星、円天は球を描く。エイミーのぱっちりとした空のような目が、いじらしく地面を見つめる。
私の言葉は嘘だ。口にしたって、自分の感情を信じることはできない。
「言葉は、とても強いです。それは、言葉にしてしまえば、本当のことになってしまうということでも、あります」
エイミーの声は、掠れて小さい。私には、エイミーの言うことはよく分かっていた。私の知りうる感覚で、エイミーがそれを言うこと自体、意外に思えるのだった。
「ねえ、なにを言おうとしたの」
「へ……?」
「さっき、なにを言いかけたの?」
「――……す、」
彼女の言葉を待つ、声は細く震えていた。指を何度も交差させ、落ち着きなく脚をすり合わせる。
「……好きって」
心臓が急降下する。自分で聞いたくせに、なにも言い返せなかった。滑るような空気には掴む取手もない。顔が熱くなるのを感じる。エイミーから目を逸らして、地面を見つめた。自分で聞いたくせに。自分で聞いたくせに!
言葉は強いから、使えば本当になってしまう。だからこそ、広い意味のある曖昧な言葉の方が美しく思える。大切な、とか、愛する、とかは、狭い定義に感情を当てはめてしまうものだけど、じゃあ、「好き」は、なに? どういう、好き? どのくらい好き?
「私、」も。言いたかったけど、口はそれ以上動かなかった。愛も私によく好きと言った。私もそれに返せばよかったけど、言葉がどういう意味か考えるうちに、やっぱり何も言えなくなっていた。私が思うより、意味があったら、私が思うほど、意味がなかったら、言葉は宙を漂って、夜闇に吸われて消えてしまう。だから飲み込んで私の臓腑にした。
俯いていた瞳をエイミーに向けると、彼女が唾を飲み込むのが分かった。少し滲んだ星を浮かべる空。きっと砂に満ちた惑星ですら首を横に振る。
「菜月さん、大丈夫ですから。なにも言わなくて、それでいいです」
「ごめん……」
「いいえ……あの」
「うん」
「まだ、私と旅をしてくれますか」
「エイミーは、してくれるの」
エイミーは無言で頷いて、私の手を取り、その内側を見るために、指を開いていく。そこにある深い傷を見て、小さく呻いた。可哀想に。そう言いたげに、巣から落ちた雛鳥を戻してあげる時のように、優しく私の手を包み込む。
「大切な人が傷付くのを、何もせず口を開けて、でも目を離せずにじっと見つめる時の、その残酷さを、どうか知ってください」
そのことを、私はよく知っているはずなのに、当たり前のことも、どうして自分のこととなると難しいのだろう。私にとって生きるとは、空を掴むことだ。違法な薬液を血管に打ち込むことだ。不可能に近くて、常に危険を帯びていて、それでいて――。
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