thirty-four

 悶着はあったが、進歩もある。ローゼは私に対していくらか冷たい態度を向けることを減らした。その心境の変化の理由は分からなかったけれど、その後の作戦会議はかなりスムーズに進んで、大枠が固まった。


 その作戦にとりわけた準備は必要なかったけれど、決行の日はしばらく先に設定された。一週間後、屋敷に付け入る隙ができるはずであり、それを待つことになる。


 一週間はここにいなければならない。なので一週間分の生活必需品を買いに出たり、さらに具体的な作戦の案練りをするうちに夜も更けて、一旦、全員が解散し、自室へと入ったところだった。


 固いベッドの上に仰向けで寝そべって、ぼんやりと灰色の天井を見つめる。左手にできた深い傷がいまだに痛むから、握るとも開くともいえない形で固定して、痛みを和らげていた。でないと我慢できないくらいに疼いてしまう。


 後も先も考えていなかった、あの時は。目先の死に飛びついたような気もしたけれど、それができたのなら、どうして駅のホームでは跳べなかったのだろうと疑問にも思う。


 人間関係の危機に陥ったとき、どういう言葉を弄すべきか知っているのに、ローゼを説得しようとしていなかったことも、私には不思議だった。手のひらから赤い糸が零れるのと同じように、口からは取り留めのない水銀のようなものがこぼれ落ちた。


 寝返りを何度も打って、枕の位置を何度も変えて、布団の中に冷たい空間を探して足をもぞもぞと動かす。しばらく放心してから、何かが足りない、と思った。私は、なんとなく前の世界と今の世界を分けて考えている。転校した時もそうだったけれど、それ以前とそれ以降では、なんだか自分が変わったような気になる。実際は何ら変わっていなくて、ただ環境が隠れていた自我を発散させるだけなのだろうけれど、それでも、屈託の少なさは段違いで、ここの方が生きやすかった。自分の身の置いている場所が、身の丈に合っていないことは感じる。それは、魔法を扱うこともそうだし、お城に呼ばれることも、姫と会うことも、人から大事な役目を任されることも含めて、そう思う。それでも、過ごしやすかった。


 また寝返りを打つ。どうして、私はただ簡単に寝るということさえ、ままならないんだろう。そう身の重さを感じて布団を抱き寄せた。そしてようやく思い至る。……そうだ、一緒に寝る人がいないんだ。


「……え、エイミーは?」

「えっ! 扉の前にいますけど!」


 あまりの物悲しさにぼやいたら、部屋の外から愛らしい声がして、動揺して身体を起こした。


「いたの!?」

「い、いえ! ずっと居たみたいになると、外聞が少し悪いですが……いま来たら菜月さんが呼んでいたので、お返事を。……もしよければ、入っても」

「も、もち!」


 許可を取ったのに殊勝にノックをして、エイミーが入ってくる。風呂上がりでぼんやりと額が汗ばんでいて、湯の香りを漂わせていた。エイミーは、私の横に寄ってきて、おだやかに座る。


「寝ようかとも思ったのですが、どうも寝る気にならなくて。ほら、一人だと、耳鳴りがすごいんです」

「……うん、そうだよね」


 寝るのは寂しい。一人でいると耳鳴りがうるさい。そう告白したエイミーに、二度と寂しい思いはさせないと約束したのは私だったはずなのに――。


「昨日は――」

「――ち、近くに! 噴水のある、綺麗な公園があったのを、さっき見てですね、雰囲気のいい場所だったので、菜月さんと行きたいなと思って、……どうですか?」


 エイミーの青い睫毛が湿っている。その下には愛い虹彩も佇んでいた。血は朱色で頬を染め、椿の花びらを白いキャンバスに塗ったみたいだった。


「……うん、行こう」


・・・・・


 わざわざ場所を変えるのは、いつだって何かが上手くいかない時だ。先輩や友人の呼び出し、男子の呼び付け、教師の召集――、母が呼び寄せるのも、警察が呼ぶのも、いつもの場所ではだめな時、外でならよい時、ろくな結果は運ばれてこない。石を投げるのは、割れ物の少ない場所でなければならないからだ。


 薄暗い道に輝石の街灯の光が落ちて、赤い煉瓦をやわく照らしていた。噴水の巡る音が暗がりの向こうで響き、時折吹く風に低木の葉は、蟻の行列が荷を運ぶような音を立てた。泡で包んだような静謐な夜中に、エイミーはベンチに座って、私を招く。


「どうですか、気持ちいい場所ではないですか、ここ。あの姫様は、街の景観にも気を使っているらしいですよ」

「……几帳面な人だね」


 視界が暗さに慣れると、輝石の光を反射して、飛沫が散るのも向こうに見えた。エイミーの瞳がその輝きをすべて捉えているのも、見えた。小さく開かれたくちびる。彼女はいつも、ゆるやかに空気を吸っている。細く、おいしく味わうみたいに。


「姫様と愛し合ったのですか」


 直截的な言葉に胸がすくむ。でも、エイミーの素敵なところだった。遠回しに探りを入れたって、最後に言うのが同じことなら、修辞など無駄だと知っている。知ってくれている。凜然な声色。泣き虫な少女が、時に誰よりも強かに見えることがあるように。その瞳の色が深いのは、誰より不安を経験した証拠で、彼女の声が震えているのに潔く佇むのは、誰より恐怖を経験しているからだ。


「うん」

「……それは、愛し合っているから、愛し合ったのですか」


 首を横に振ると、自分の髪が肩に触れる音がした。それは服を脱ぎ落とす時の音によく似ていて、眼前は急にあの夜に戻されたかのように、薄暗い部屋を浮かべた。その部屋の中で、エイミーが私が恥を晒すのを見ている気がした。あの二人の空間は、いまや二人の空間ではない。


「さっきも、言ったけど、それは分からない」

「……私、ローゼさんからあの話が出た時、これは私たちの問題だと、思いました。でも、そんなの思いすごしだとも思いました。はっきりしなかったらごめんなさい。上手く話をまとめられなくて、なにを言ってるのかは、自分でも分からないんですけど――これは、私たちの問題ではなくて、やっぱり菜月さんだけの問題なのでしょうか」


 私の口もとは固く結ばれて動かない。そんな様子を見て、エイミーは私の右手の甲を触った。


「菜月さん」青い瞳は、夜で濃く深い藍色を口紅で塗ったようだった。星を呼んだみたいにきらきら輝いて、私をじっと見上げている。「私と姫様、どっちが好きですか」

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