四章 罪悪
thirty-one
赤髪の奴隷 3
呼び付けられるまでには数日の期間があって、私はその間中、誰とも話をしなかった。初日に声を掛けて来たあの黒髪の、私を殴った女とも。あの時に見せた優しさや気概は彼女から綺麗に消え失せ、虚ろな光を瞳に灯しては、時おり主人に呼ばれて消えていく。
私を含めて全部で10人。狭苦しく息苦しい室内は、常に曇天の雲の中で溺れているのと大差ないように思えた。生きるために生きている。いや、もはや生きることしかできないから生きている。私より以前からここにいた女たちが話をすることは稀にあったが、その掠れた密かな音の意味を、聞き取ろうとする気力はなかった。俯き続ける私に話し掛ける女もいなかった。
初めてあの地主からの呼び付けがあった時、だから安堵した感情が浮かんだことを、私はすぐに呪った。自分が乞食のように、貧相な幸福に逃げようとしたことが腹立たしかった。鬱屈とした感情を、人に呼ばれることで解放できるのだと思って、安易にそこへ逃げようとした自分が腹立たしかった。
乞食、乞食? 私はそれにも及ばない。乞食にだって幸福はあるのだから。
私に残されているのはもはやなんだというのだろう。あの新たな時代の産物に立ち、賛美歌を歌っていた時。あの時が恋しい。神の存在など忘れてしまえるほどの日常があったことが。でもこの手の内にはもはや、天井から降る見えない塵しかありはしない。愚かな父親は、貴族を三人もあの世へ送ってしまった。法を強姦すれば、理由や動機など鼠の死骸と相違ないのにも関わらず。誰だって文句はない。犯罪者だって犯罪をする前は言っていた。犯罪者など地獄へ落とせと言っていたではないか。
地主は一度に二人ずつ呼ぶ。これまでもそうだったらしい。私が加わって二で割れる人数になったことは、大層嬉しいことだろうと皮肉に思った。
寝室は薄暗かった。部屋の全てのカーテンが閉じられ、天蓋の付いた仰々しいベッドの上で男はふてぶてしく横たわっていた。私と共に呼ばれたもう一人の女――黒髪の女が騒いでいた時に諌めた、短い茶髪で狐のような目元を作る女を侍らせると、気味の悪い講義を始めるみたいに、奴隷区で与えられたままの誰かの古着を着る私をじろじろと見つめ、口を開いた。
「ここでの過ごし方を教えよう。まずはその服を脱げ」
私は立ち尽くして動かない。ただじっと男を睨み付ける。にやにやとする口元から、澱んだ下水の臭いがするみたいだった。
「横のテーブルに下着が置いてあるだろう。ほかの女と同じ物だ。もう仲良くはなったか? なあ、セッカ。どうだい」
狐目の女はセッカというらしい。落ち着いた瞳で男を見ると、細い身躯を男の身体に寄せた。
「ええ、なんでも話すわ」
「なら着たらいい。君たちのために高く仕入れているものだ。無碍にしないでほしい」
下卑た声。泥水に足を浸している。薄汚れた液体は脚を伝っていまに口まで上ってくる。その時の、その砂利の味を覚悟しなければならなかった。
「ねえ、早くしないとずっとよ。用も足せない」
女が言う。屈辱とはこういうことを言うのだと思った。自分の信仰を疑い、週末の典礼を欠席したあの時、母の罰で教会の前に二日も立たされたあの日より、ずっと屈辱的で、恥辱的だった。やるべきことをやらなければならない。しかし、やるべきことというのは自分の属する集団次第で姿を変える。家族といる時は典礼で、ここにいれば、意地汚く溝を啜る野良犬の所業。習慣的に、必要とあらば、いくらでも。
私は服に手をかけた。脱ぐ、上から順に、剥いでいく。人は、そもそもこの姿で産み落とされたのだ。恥ずべきことなどない。恥じるとしたら、滅多な服着て豚のように眠ることだ。家具を集めて悦に浸ることだ。金で女を買い集めることだ。
けれどローブは着なかった。全裸のまま男へ近づいて行く。静かな音を立てて血が落ちる感覚を抱いた。背中を不快な汗が伝っていく、床に落ちる感覚を液体と共に抱いた。
「横へ来い」
私は首を振る。ベッドに這い上がり、男の股の間にかがみ込んだ。
「セッカ、従順な女ではないか。このシモーネという女は――」
『――フィレ』
けたたましい音が鳴り響く。男の激しい悲鳴が上がった。
「この……っ、売女あ!」
しかし炎上は長くは続かなかった。男は機転を利かせて棚にあった花瓶を持ち上げ、活けられていた花を散らすと、そのまま燃える服に水をぶちまけた。灰のように黒くなった下着を引き摺りながら、ベッドから逃げていた私の腹を蹴り上げる。
腹部に響く鈍痛で、声もあげられなかった。どこを支えればいいのかも分からず口元を抑えた。じゃなきゃ死ぬと思った。呼吸ができない。絶対にどこかおかしくなった。涙で滲んだ視界で、男を睨み上げる。
「誰が、売女だ……っ」
「クソ女が……! 俺が買ってやらなきゃ地べたを這いずり回るしか能のない奴隷だろうが!」
「あんたの上を這うくらいなら地べたを這う、誰も買えと頼んでなんかない、薄気味悪い目を向けるな、反吐が出る!」
「4000万ゴルデールだぞ!」手に持っていた花瓶が床に叩き付けられ、甲高い破裂音が鳴った。「貴様のために出した金だ! ……セッカ! そこを見ろ! そこの壁だ! 日焼けした壁、そこにリダの絵画が貼ってあったのを覚えているか! こいつを! この赤髪のクソ女を買うために売り払ったんだ!」
「好きで、やったんでしょ」
私が言うと、男がさらに顔を赤らめたのが分かった。もう一度蹴られることを覚悟していたが違った。男は私の髪の毛を力任せに掴むと、顔を上げさせ、空いていた手で私の胸を鷲掴みにする。身をよじるが、髪を掴まれているのが痛くて逃げられない。
「威勢のいい女はいなかったわけじゃない。そこのセッカだって最初はドブ臭い目をしてた。だが、お前ほどのは初めてだ。お前が強く出るなら、俺も相応にしなきゃならない。お前が撒いた種だ」
「違う」
「まだ口を開くか」
「私の撒いた種じゃない。お前が起こした火だ。売春婦が先にいたんじゃない。女を買うやつが先にいたんだ。いつだってそうだ。欲望に手を出すやつが先にいて、世界はそれで汚れていく」
「大層な台詞だ、お前はシスターか? だが、俺がいなくても奴隷はいる。俺がいなくてもお前の父親は貴族を惨殺した。忘れるなよ、小娘、奴隷はな、禊の身分なんだよ」
「……地獄へ落ちろ」
「はっ!」男は大声で笑う。怒りと笑いの入り交じった歪な表情をしていた。目がギラギラと私を睨み付ける。「では、一緒に落ちよう」
『フィ――』
髪が振り回される。首が無理に引っ張られ、痛みで呼吸が止まった。
「おい!」男が扉に呼びかける。すぐに他の男が入ってきた。「こいつを地下に戻せ。丁重に扱え。こいつの食事をほかの女の倍に増やすんだ。いいな」
・・・・・
「ねえ、逃げるって、本気なの」
セッカが声を掛けてくる。彼女は私が部屋に戻って、何時間もした後に戻って来た。彼女の言葉に、部屋の全員がこっちを気にするのが分かる。私は壁を背に座り込み、黙って、扉を見つめていた。
「見てられなかった。ねえ、聞いてよみんな。この子、あの男に魔法を食らわせてたよ」
動揺が広がるのが、ほんの小さな音で伝わる。髪をかきあげる音、ローブの裾が擦れる音。姿勢を変えようと床が軋む音、生唾を飲み込む音。無視を決め込もうとしていたが、セッカがじっと見てくることに耐えられず、諦めて口を開いた。
「逃げるよ。当たり前。こんなところに死ぬまでいるなんて気が狂う」
私の投げやりな言葉に、彼女は呆れた笑いをこぼす。セッカは男に抱かれた後とは思えないほど、甘い香りを漂わせていた。
「死ぬまでいるわけじゃない。老婆になってまで男に愛されると思っているの? 魅力が無くなれば捨てられる。その時まで我慢したらいい」
「あいつの子を孕んだら?」
「え?」
「あいつの子を孕んで、それが女子だったら? 奴隷を金で集めて犯す男が、自分の娘に手を出さないとは思えない」
「……………」
部屋には沈黙が落ちている。誰も会話に混ざろうとはしなかったが、聞き耳を立てているのは明らかだった。私は言葉を続ける。
「そんなの、我慢ならない。ここで諦めて過ごすのが、ただ私にしか害を与えないなら我慢する気にもなった。けど、女奴隷を買うのは私が最後じゃない。今度ここに来るのは、奴隷街で遊びの相手になっていたあの幼女かもしれないし、あなたの母親かもしれない。だから逃げて、告発する」
「告発って?」
セッカを見る。
「これは違法。奴隷を慰みもの扱いするのは許されてない」
「ねえ、だとして、一人でやる気?」
「これ以上答えることは無い」
突き放す言葉に、空気が傷を付けて佇む。セッカは俯いていた。しかし、やがて顔を上げる。彼女の瞳は色を帯びていた。
「私も、混ぜて」
「……急に、なに」
「急に? 私、逃げたくないなんて一言も言ってない」
「でも、あの男のことを受け入れてた」
私は覚悟に据わっていたセッカの瞳を思い出す。ベッドの上で、彼女の目は諦めとは違った色を浮かべていた。
「あのね、みんながみんな、あなたみたいにできるわけじゃないの。魔法使って一矢報いようなんて、そんな無鉄砲なこと。魔法を使えるのだって何人いる? ゼロよ。あなた以外みんな魔法音痴。ねえ、あれから何時間経つと思うの。まだお腹を抑えてるじゃない。それなら股が痛い方がマシなのよ。逆らって内臓痛めるくらいならね。数時間もすればマシになるし、用だって我慢すれば足せる。あんたみたいな女ばかりだと思ってた? さしずめ、母親の言うこともろくに聞かなかったたちでしょ」
「…………」
「あなたみたいなのは初めてって、あの男は言ってた。それは私たちにとってもそう。逃げようとするやつなんか一人もいなかった。でも、あなたみたいな人を目の前で見て、もしかしたらって、思ったの。だから、私も連れてって」
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