thirty
シャンデリアの掛かった広く豪勢な部屋だった。テーブルクロスの敷かれた丸い食卓が点々と置かれ、綺麗なドレスを着た女性と、華奢なタキシードを着た男性が、所々でグラス片手に談笑している。輝石に照らされる宝石は部屋中に煌めきを照らしていたが、彼らのの絢爛さの中ではくすんでさえ見えた。
扉が開かれたことに気が付いた人々はちらとこちらを一瞥するけれど、すぐに会話へと戻る。結局、私のところまでわざわざ来てくれたのは、あの姫君だけだった。
「いらっしゃい、菜月。わたしと回りましょう。テーブルごとに置いてある料理が違うの。菜月のためにスイーツも用意させたのよ」
「他の方はよろしいのですか?」
「一通り挨拶もしているし、回っていくうちに話すことがあれば止まればいいもの。それより、お城の外の人で、わたしと同年代なのは菜月だけなの。お友達として振る舞ってはだめ?」
「あ、うん、そうしよう」
給仕のような人がグラスを運んできて、私に手渡す。姫はこちんと乾杯をして、テーブルを二人で回り始めた。
が、私がしっかりと覚えてるのはそこまでだった。ぼんやりとしていたのでも、つまらなかったのでもなく、ただ、頭の中が、白昼夢みたいに朦朧として、純粋にパーティーを楽しむことはできなかった。どのみち、パーティーを楽しむ方法など私は知らなかったわけだけれど、とはいえ何故私が混濁とさえいえる意識に支配されていたかといえば、それはやはりこの先のことを考えていたからだった。
私は世界の中にあって、俯瞰しさえすればほんの小さな赤血球でしかない。それでも私が他の女の子たちのように可愛らしく振る舞えなかったのは、少なくとも、可愛らしい脳みそを抱けなかったのは、私が俯瞰するという能力それ自体を身に付けていたからだった。私は他人のことを、俯瞰しているからよく知っている。それは、一国の姫君であっても、幼馴染であっても、路地裏のホームレスであっても同じだった。私にその点で敗北を味わせたのは、あのイルという宿の女主人だけだった。
脳内の整理が完全に付いたあとは、私のすることと、できることはただ一つだった。
向こうのテーブルにお呼ばれをし、姫が会話に捕まって、しばらくが経った。いわゆる社交界の村意識というのはかなり大きいのだろう。ぽっと出の知らん人間を会話に招き入れてやるほど、彼らは優しくない。「社交」というのは、自分どうこうより外聞が命なのだ。私は一口大に切られたケーキを食べ、炭酸のワインを飲むくらいしかすることがなかった。けれど、その間に、やはり考えは纏まっていた。
遠くのテーブルで談笑に付き合う姫君を見た。穴のあくほどじっと見つめた。彼女はその視線に気が付くと、ゆっくりと動作を止める。退屈と色を帯びた瞳を受けて、じっとしていられる人ではない。姫はすぐに会話を中断し、こちらへ駆け寄ってくる。
「菜月、疲れてしまった?」
姫が童女のように覗き込んでくると、その柔らかい前髪が目を引いた。
「ううん、大丈夫。お話は?」
「いいの。顔に出てるわよ」
「……人の多いところって、疲れちゃうから、実は、休みたいかも」
「なに、遠回しな言い方をする人ね。遠慮せず言ってくれれば良かったのに。……いえ、わたしが放っておいてしまったせいね。ごめんなさい。どうしよう、宿まで送らせる? けど、もう遅いし、あそこは遠いし、……そしたら、城に客人用の寝室があるから、そこにでも――」
矢継ぎ早に喋る姫の手を、首を小さく振りながら握った。初めて触れた姫君の手はか細く、そして女子にありがちな冷えきった温度だった。私の手が触れて、彼女はそれだけで慌てて口を閉じる。
このパーティーで、あの件に関する本質的な会話は、一つも出なかった。この人は、繰り返し私と接して、関係を深めてから、私と契約をしようとしている。おそらくは、そう計画しているし、最後には、それが上手くいくとも思っている。
「帰りたいなんて言ってない。人が多いところが嫌だって言ったの。ねえ、二人で話したい。そのために、呼んだんでしょ?」
緩やかな動揺が目元に浮かぶ。雨落とした水たまりの、瞬間的でごく微細な変化でしかないけれど、私には分かった。手を離してスカートの裾を握る。シャンデリアの豪勢な光を、姫君の瞳が貧相に浮かべていた。どんな輝きすらその誇りには敵わない、そういう色を浮かべているのに、私の仕草にひるんで揺らいだ。
「そんなつもりは、なかったけど……分かった、私の部屋にいらっしゃい」
「席を外してもいいの?」
「いいの。ほら」
会場を出る。煌びやかな喧騒から離れると、城内は夜の静謐を携えて私たち二人を出迎えた。扉の前で控えていた騎士の付き添いを断って、昼にクライネと通った廊下を抜ける。窓の外は暗く、遠く低い街が覗いていて、夜景は夕陽に似て淡かった。明るい城内とその中を行く私たちの反射が、黒い鏡に映り込んで、はっきりと出来事を映し出している。私は思わず目を逸らした。
例の扉を開くと、あの食卓の部屋に辿り着く。ローゼと呼ばれていた女騎士が窓際で座っていた。姫に気が付くと立ち上がるけれど、私を見て顔を顰める。
「ローゼ、今日は休みなさい」
「……けど、」
「いいから」
姫は言い、椅子の後ろにあった扉を開ける。そこが、彼女の寝室のようだった。
「ほら、座って」
促されて、小さなテーブルの横に置かれた椅子に座る。手に持ったままだったグラスを置くと、彼女もそうした。
輝石には布が被されたままで、部屋は青色に薄暗い。姫は私の向かいの席に座ると、グラスを手に取り、小さく飲み込んだ。その音が聞こえるくらいには静かだったが、何より静寂だったのは彼女の容姿だった。
高貴を間近に見ると、こういう気持ちになるんだろうか。身分や生まれの差など、意識して生きる世界にはいなかった。線の細さはどの印象から想起させられるのだろう。でも、立体の陰がどこからどこまでも薄くて、それが肌が白いからなのは分かっていた。
「ありがとう」
「いいのよ、ねえ、皇女に対して、ずいぶん簡素な喋り方をするようになったのね」
「だめ?」
姫はゆるゆると首を振る。
「いいけれど」
「ね、見て、姫」
私は懐から、ハンカチに包んだクッキーを取り出して見せる。
「まあ、」彼女は口に手を当てた。「取ってきたの?」
「お酒ばっか持ってきても、仕方ないでしょ」
「不思議な人。やっぱり酔ってるの?」
「そう見える?」
「うん」
月のそのものというよりは、窓から差し込む月明かり。明るさと呼ぶにも弱々しい月光が、姫君の細い金髪を淡く照らす。歩いてきて少し乱れているのが、叙情的だった。ハープの弓、しなやかなその糸。弧を描く口もとがぎこちない。本当に楽しい時の笑い方を知らない。この人にとって笑顔は武器だった。
「今日、奴隷だったっていう騎士の人に、送ってもらった」
「ああ、ルイね。そうよ、迎えに行かせた」
張り詰めて生きている。息苦しいことが、当たり前だと思っている。鋏で切って弾ければ、その瞬間に意味をなさなくなるような、そういうのを胸に抱えて、ただそのために生きている。でも、少女でしかない。いたいけな。注射も打てないような。
「えっと、なんだっけ、奴隷になるのは……シュウザイ?」
「あら、十罪よ。ほんとにこの国のことを知らないのね」
「どんな罪が十罪になるの?」
「殺人、強盗、放火、内乱、強姦。小さな罪も積み重ねれば十に分類されるけれど」
「そういうの、覚えてるの? すごいね」
「お父様が亡くなったら私が国を見るのだもの、当然」
「そっか、そうだよね。……内乱って、これまでにあった?」
「そうね、大きなものは二度――」
私は自分から問うた癖に、そのあと、彼女の答えるその言葉を、少しも聞いていなかった。
夜を凪ぐように響くけれど、私にとってはただの音と大差ない彼女の声と言葉を、耳朶で捉えて聞き逃す。私が、途端に視線を、退屈そうに地べたへ落として、それで彼女が目に見えぬ狼狽を浮かべたのが、視界の端で分かった。
「えっと、だから、92年前にね」
「うん」
「あの、聞いてる?」
「うん」
「嘘。聞いてない、菜月」
彼女の手が伸びて、私の肩をゆすろうとする。けれど、その指先は黒い制服の生地に辿り着く直前でぴたりと止まって、行き場もなく宙で留まり、胸元に返っていった。人への触れ方を、少しも知らない少女の仕草だった。
「ごめん。ちょっと考えごと。……しちゃった」
「ごめんなさい、私ばかり喋って。退屈にさせてしまったわね、何に悩んでいたの? 同年代のよしみだわ、聞かせて」
「ううん、姫様に聞いてもらうようなことじゃない」
「そんなことない。聞かせて」
俯くと、前髪の向こうで彼女が覗き込むのが分かった。こう薄暗くては、きっと私の頬の色までは見えないだろうと信じていた。
「……身体がね」
「身体?」
「自信がないの。こんなんじゃきっと、将来伴侶も見付からないと思って」
「そんな、菜月、可愛らしいからきっと」
「でもね」
グラスの中のワインを飲み干すと、私はゆっくりと立ち上がる。ぎこちなくならないよう、指先まで気を使っていた。鼓動さえ意のままにできたら、できたらよいのに、外に飛び出てしまいそうなほど、胸中の脈動は音を立てて興奮していた。
「肌は、誰よりも白いの」
制服の留め具を右手で外す。一瞬で、冷ややかな動作だった。上着を脱ぎ落とし、肩にかかるサロペットのスカートを、上から引き下ろす。夜闇のような音が立って、私の黒い制服は床に散る。髪をばっさりと切り落とした時の爽快感、それと罪悪感の綯い交ぜた音色。夜を想った時の空の調べ、冬の夜の雪の足跡。
「菜月……?」
ブラウスで覗かないショーツの下で、汗ばんだ脚が部屋の空気に冷やされる。暗闇ですら輝く真っ白なブラウスのボタンを上から外すと、純白の下着が姿を現した。彼女は奪われる。その刺繍に目を。いまいるこの世界では、誰のそれよりも瀟洒な夢が覗いている。
「ねえ、雪の降る音を」私の声は、どこに響いたって不釣り合いになる。骸を抱えて、彼岸花の針のむしろの上で、失望に身を委ねたみたいに、憂いだように響くから。「そして花が散る音を、聞いたことがないでしょ。溶ける音も溶かす音も、聞いたことがない。こっちに来たら、聞かせてあげる」
自分の容姿が好きだと思ったことはない。どう足掻いたって付いて離れないのだから、気持ち悪く思いさえする。でも、肌の白さだけは、私の愛が褒めてくれた。真っ黒な、毛先が外に跳ねる髪の毛と、雪で漂白したような白い肌を、愛はいつも褒めてくれたから、誰よりも自信があって、好きだった。
姫の呼吸が聞こえる。荒い呼吸。理性に抗ってどうすればいいか考えている。でも頭は回らない。いまここには、あの子の知らないことしかない。
彼女の手を引く。呆然と瞳孔を開く姫君の手を。立ち上がらせると、その手を私の頬に当てた。引っ込めようと力を入れそうになるのを拒否するみたいに、押さえつける。
「ねえ、見えてる?」
「菜月、……ええ、見えてる。見えてるわ」
オーロラのような震えた声だった。
「でも、あなたのヴェールのような身体を見て、それでわたしはどうしたらいいと言うの? これ以上触れていたらきっと頭が熱くなっておかしくなってしまう」
「なにも気にしなければいい、きっと。死ねる時に、死んだらいい。私の裸を見て疼くなら、心ゆくまでそうしたらいい。私、あなたの細い髪の毛が好き。首筋が好き、手首も、くびれも。どんなに知的に振舞って、どんな簡素なドレスに身を包んでも、隠せないものがある」
「隠せないもの? 菜月にはなにが見えているというの?」
彼女の手を、薄い皮の乗った指先を、私の胸元に連れて行く。
「愛。私には愛が見えてる」
・・・・・
「あら、菜月、意外と朝は早い方なのね」
瞼の裏が赤く染っていることに気が付いて目を開くと、姫が起き上がってレースのカーテンを閉じているところだった。
「朝?」
「そうよ。寝心地はどうだった? こんな柔らかい寝具で眠ったこと、ないでしょう」
朝の陽光の白い眩しさで、昨晩のことを思い出した。昨日はそのまま、このベッドで寝付いたんだ。
「うん。でも固いベッドの方がお似合いだなって思った」
言いながら、自分があられもない姿だということに気が付いて、慌てて布団を引き寄せる。肩まで隠すけれど、姫も薄いローブを着ているだけで私と大差はなかった。
「わたし、やっぱり菜月には私の名前を掲げて欲しいの」
明け透けに彼女が言う。たった一度の夜の逢瀬は、百度の朝の挨拶より濃密なはずだった。
「じゃあさ、お願いがあるんだけど」
「お願い?」
「また、ここに来てもいい?」
「そんなの! 条件にならないわよ。顔を出さなきゃ遣いを送るから」
「え~、じゃあ、またここのお菓子が食べたい」
「それもダメ。条件は対等にしましょう。何かないの?」
姫が近づいて来るのを見て、私は口元まで布団を引き上げた。
「うーん、困ってることは、あるんだけど」
「それを聞かせて……いえ、待って。菜月、あなた可愛いわね。侍女に部屋を開けるなと頼んでくるから、ちょっと待ってなさい」
姫は私の頬にキスをする。つい昨晩まで、肩を揺することもできなかったその肌で。扉を開き声を上げて何かを言うと、その扉を固く閉じてこちらへ戻って、私の布団を剥ぎ、抱きついた。
「依頼に困ってるの」
「どんな依頼?」
「買われた奴隷を救いたいって」
姫は私の目を見つめた。
「なにか事情があるわけ?」
「よく、分かんないけど、美人に目がない地主がいるって。奴隷として扱うためなら、陰謀も働かせるから、もしかすれば被害者なのかもって」
「その地主って、ハンス旧辺境伯のこと?」
「分からない。名前は聞いてなかった。辺境伯っていうのは、なに?」
「私のようなものよ。領地の長。だけどハンスの土地はこのヘルメス領に組み込まれたから、彼は大きな農園の所有者に留まるけれど」
「やっぱり、悪い人なの?」
「……その奴隷の名前は?」
「名前は分からない、けど、赤い髪の」
「シモーネ・ベルね。残念だけど、彼女は陰謀が原因で奴隷になったわけじゃない。父親が貴族を三人殺した」
「……でも、そのハンスっていうのは、実際に悪い噂があるんじゃないの? だから、私の話を聞いて真っ先に出したんでしょ?」
「それは事実、そう。違法な奴隷の扱いをしているとは聞いているけれど、国は彼の家系に借りがあるから、踏み込めない。……ううん、分かった。この際、何とかしましょう。エイミーも呼ぶわね」
「うん、ありがとう」
「でもその前に、もう一度抱いて」
姫は私の胸に顔を埋めると、何度も縋り付くように頬をこすりつけた。その頭を優しく愛撫すると、寝息のような音を立てて、心臓を高く鳴らす。胸に顔を埋める人を撫でてあげる時、私がどんな表情をしているのか、その人は知らない。空虚な感情に、脳内はただどうでも良いことを考えている。
だから、人は抱いてしまうのが、いちばん簡単らしかった。
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