twenty-seven

 そこは、比較的簡素な部屋だったけれど、広さについていえば、今まで見たどの部屋とも段違いだった。たぶん、飾りが少ないから広く簡素に見えるのだろう。絵画のようなものは何一つ飾られず、装飾らしい装飾といえば、天井の水色だけだった。


 部屋は主に二区画で、仕切りなく、優に10人程度で囲えるような長い食卓のある方と、恐らくは皇女用の、煌びやかな玉座に似た椅子の置いてある方があった。扉は後者の方に繋がっていて、私たちはその椅子の前で待つことになる。食卓は視界の端で左に見えるだけだ。飾られない壁は純白をそのまま陽光に晒していて、室内はこの世の明るさを全てかき集めたみたいだった。真珠の内部に入ったような気持ちになる。


 不意に玉座の後ろに控えていた扉が音を立てて開く。そこからトビラドアと同じような鎧に身を包んだ女性が出てきて、その扉を後続の人のために抑えて待つ。目を引いたのは、短く切られた真っ黒な髪だ。ここに来て、私みたいな黒い髪をしている人は、そんなに多く見なかった。女性の騎士はこちらをちらと見ると、切れ長な目で私たちを見下すように睨みつける。歓迎されてないな、と思った束の間、その奥から、耽美なドレスを着た女性が出てきて、思わず目を瞠った。


 お人形の住むような城、とエイミーが言ったのも、言いすぎではなかった。目の前に現れたのは、それこそ、精巧に造られた人形のように、清廉さと優美さを纏った女性だったのだから。腰にまで伸びた金色の髪の毛は蜘蛛の糸のように細く、滝の飛沫のように繊細で、すとんと落ちる重力に逆らわないその柔らかさは、私のすぐ跳ねる毛先と全く対照的だった。上品に伏せられた目元が、私たちの前に立つまで一度も上げられることはなく、その、離れていても分かる睫毛の長さには、嫉妬心まで湧いた。


「よくいらっしゃいましたね」


 エイミーと、後ろから入ってきていたクライネさんが、不意に座り込み、騎士のような服従の姿勢を取る。私はその間で立ち尽くすしかない。なぜなら、その騎士のような格好をどうやって取ったらよいのか分からなかったからだ。慌てる内心を掻き消すように、ただ立ち尽くした。


 姫君が顔を上げる。この世の好ましい青を、すべて混ぜ込んだみたいな輝かしい瞳だった。丸く、しかし気丈な、そしてステンドグラスのように弱々しい虹彩。座り込まない私を見て、驚いたみたいに目を少し開く。どうもこうも、やり方が分からないのだ。どうしよう、正座でもしてやろうか。これが祖国の礼儀作法ですといって。日本でも、急に正座したりしないけど……。


「女――」姫の後ろに控えていた黒鎧の女が、不意に私に呼びかける。「跪け」


「菜月さん……」


 エイミーも下から小さく言ったが、ぎこちない格好を見せ、なにか間違うくらいならと、そのまま立ち続けた。心臓がバクバクと鳴っている。


 女の騎士が前に出てくる。


「非礼をあの世で詫びる?」

「ローゼ、控えて」


 しかし、姫が彼女を制す。アリアを歌うかのような、澄んだ色の声だった。言われた騎士は私を射るように見たが、言われた通り後ろに下がる。その視線は、本当に私を殺す気だったことを伝えるのに、十分な役割を果たしていた。


「勇敢なのは結構なことです。ですが、他の君主の前ではしないようにしなさい。斎藤菜月、いいですね?」


 彼女の言葉が私に投げかけられ、その際立った声と、凛とした視線と、強かな意識を、一心に与えられたその瞬間、直感した。この人は綿菓子のようだ。食めば溶けて消えてしまう。


 私は恭しく頭を下げた。ごく儀礼的な仕方で。


「……ごめんなさい。学がなくて、作法が分からなかったのです」


 綿菓子。――いや、この人は、ひとときの何かを探している。


 抑圧された精神の中で、正しさと愛嬌を探し続け、ただ愛と蝶略だけを得てきた。あるべき姿を追い求め、何が正解かということが、我々以上に決まっている、その中で、なにか特別なものを、探し続けている。恐らくは、愛する人と、思い通りにいかない人を。


「ええ、そうかもしれませんね。闇夜から降って現れたあなたに、この国の礼儀作法ができるとは思っていません。しかし、エイミー、あなたが謁見する前、事前に指南しておくべきではありませんでしたか?」

「おっしゃる通りです」


 エイミーは面を上げられない。私たちのことを、すでに知っていると伝えるための投げ掛けだ。姫君がこちらを見る。ゆらゆらと泳ぐような、誰にも気付かれない静寂の動作。私の瞳とかち合う。なにか、見えますか。あなたのように水のようではないでしょう。じっと見つめ返す。私の瞳はあなたと違って、凍った黒曜石のように、鈍く光っている。水面が揺れた。今度は誰もが分かるように。しかし、それが見えているのは、私だけだ。


「次に来る時には覚えてきます。あなた以外の前ではこういうことにはならないように」


 姫君は首を傾げる。マリオネットのような、ぎこちない動きだった。ゆらと揺れた明るい黄昏の几帳面な切なさが、やたら私の目を引く。


「エイミー、面を上げなさい。クライネ、侍女にお茶の用意をさせて。菜月、付き合えるわね? お茶は分かる?」

「趣味ではないので、皇女様のお好きなようにしてくださるのが、嬉しいです」

「あらそう、では甘いものは?」

「目がありません」


 ここに来て、姫は小さく葉擦れのように笑った。緊張が解ける空気が、絡まった糸の解けるみたいにして広がっていく。


「では、それも用意させましょう。事情があってあまり多くはダメだけれど。さあ、遠いところご苦労さまでした。テーブルへどうぞ。エイミーも、ほら」


 エイミーはすっかり恐縮しきって、私の後ろにちんまりと控えていた。姫の言葉にうまく返事ができず、ただ頷く。こんなにきらびやかな人が権力者なら、みんなこうなるのが自然だ。ましてや、緊張と緩和のそのタイミングをよく知っている。


 テーブルに向かうと、メイド服を着た女の人たちが何人か、次々と食器を運んで、テーブルの上に手際よく並べていった。仕事を終えるとすぐに姿を消し、場には我々だけが残った。

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