twenty
船はゆっくりと進んでいく。少なくとも船上ではそのように感じられた。象のようにゆったりと後ろに流れていく風景を横目に感じながら、うとうととするエイミーに肩を貸す。
「……寝られなかったよね、ずっと」
ひとりごちるのが青空に吸い込まれると、肩口がぴくと反応して、私はしまったと口を噤む。
「……はい」
「また起きてた」
「今度は、謀ったわけではないです」
言いながら、エイミーは口元と目元を拭って身体を起こした。眉を下げ薄く開いた目で見上げて、私に不満を表す。あの期間のことを思い出しているみたいに。言えなかった歯がゆさを、やっとのことで私に伝えている。その幼子のような愛しい表情を見ると、彼女を突き飛ばしたくなるような衝動が身を襲ってくる。それで、人が簡単に変わるならどんなに楽だろうと思った。なんと言うにも陳腐な言葉しか浮かばず、私は目を逸らして先を見つめる。
「――あっ、あれ」
船に乗ってから数時間、平原しか見られなかったが、ここに来てちらほらと民家が点在し始め、河岸がある程度整備されているのが見られるようになってきた。
その先に、一際栄えた街が見えた。石の壁が囲んでいるのが印象的で、建物はそこから飛び出る赤レンガの屋根だけが覗いている。そのとりわけ向こうのとりわけ高い位置に紺碧の屋根が見えた。それがすぐにお城だと分かったのは、エイミーがそこを指さして「お城ですよ!」と息巻いて言うからだった。旅行記と地図の好きな女の子。イルさんが言っていたのは確かなようだ。
人の趣味みたいなものを知ると、なぜだか嬉しくなる。昔からそうだったけれど、その暖かさが自分のどこから昇ってくるのかは分からない。
……お城か。エイミーの熱気に当てられて、近くで見てみたいという衝動が、私にも湧いてくる。その城がもはや観光資源としての城なのか、いまだ政治的な場所なのかは判然としないけれど。後者だったら遠巻きに見ることになるし、内装までは見られはしないだろう。
川を下って壁の方に近付いていくと、船団を確認した人々が大声を掛け合い、壁の一部を切り取るように聳えていた水門がじわりじわりと開く。この城下町もまた、竜巣と同じように大河を通しているらしかった。
重々しい鉄の水門を抜ける。そこは草原と打って変わった賑わいの街だった。煉瓦で舗装された道。淡い色合いの建物。暗い茶色の木組みの家。青空の下で騒がしくも活気に溢れた美しい街並みが見える。陽に当たらない入り組んだ小路も見える。それもまた心地がよかった。陰陽の対比。青空や新緑とは真逆の淡い赤色の街だ。
船着き場はもう少し奥にあるようで、一層減速した船から、エイミーと二人で街を見下ろしていた。
「ねえ、お城は今でも使われてる?」
私の質問の要領を得ず、エイミーは、はてと小首を傾ける。
「もちろんです。ああ、なるほど。日本ではお城は使わないんですね」
私がなにか突拍子もないことを言うと、それが文化的な違いから来るのだということをエイミーはすぐに判断するようになっていた。その度に嫌がらずに答えてくれるのが私には嬉しい。思えば、転校した時、何かとアドバイスを求めるのが友達作りに役立った気がする。人はやはり根源的に、何かを誰かに教えてやるのが好きなのかもしれない。
「あるにはあるんだけど、もはや見世物なの。政治をやる人は使わない」
「やっぱり不思議なところですね、日本。一度見てみたい欲が湧いてきました」
『日本』という固有名詞が、私たちの間ではあちらの世界の総称として扱われつつある。私が居たところは確かに日本だけど、それ以上にこことは別の世界で他にも国はあって――ということをエイミーには説明して理解してもらっていたが、だからと言って『地球』というのもなにか変な感じがするし、『元の世界』というのもやたら遠回しな上、エイミーがそれを言うのもおかしい。なので、あちらの世界のことは『日本』と総称してしまうのがいちばん違和感がないのである。なにしろ、ここも地球は地球なのだ。太陽もあり月もある。星のあり方も、もちろん完璧に把握しているわけではないけれど、あちら側とは大差なさそうに見える。街灯や建物がない分、より美しく見えるというくらいだった。
「嬢ちゃんたち、この街で降りるんなら、そろそろ支度をした方がいい」
「あ、はい。あの、ありがとうございました」
立ち上がって、頭を下げる。
「いいって。数十キロ積荷が増えたくらいじゃ、獣退治の礼にはならねえよ。――俺たちは航路を二週間で往復する。次にここを通って竜巣の方に帰るのは一週間後だ。どのくらい滞在するのかは分かんねえが、もし乗りたいなら間違えんなよ」
「はい」
ひやっとする場面はあったけど、ポミュリン退治は滅茶苦茶に大変だったわけではない。それで船に乗せてもらえるのだから、魔法が使えてよかったと思った。
私の返事を見ると男性はすぐにどこかへ駆けていく。停船し船上が荷降ろしやら何やらで途端に騒々しくなると、私たちに構う人は誰もいなくなった。仕事をする人たちの動線を妨げないようにエイミーとこそこそ抜け出し船を降りてしまうと、エイミーはしばらく口を開いたまま喧騒にまみれた船の上を見上げていたが、私は新たな街の地を踏んだことで胸がいっぱいだった。というよりは、次にどうしたらいいのか分からないという困惑が多かったと思う。
街など、車に乗って数分すれば抜けられて、そこは既に別の街があるはずだった。なのに、ここでは船に乗って数時間のスケールだ。竜巣とこの街の相違もあまりに大きすぎて、自分のいるこの街が、それ以上のこの世界が、自分のよく知るところではないということが思い起こされた。河川の横の大通りから隠れて小陰に逃げ込んだとて、そこさえ未知の空間だ。私はいま完全な余所者で、何の助けも得られない。
白いドレスを着た女性が、翠色の日傘を手に、少年と歩いているのが見えた。私が見ていたから目が合うと、女性は小首を傾げて会釈の代わりにする。私の黒い制服を珍しそうに下から一瞥して、そのまま優雅に歩き去っていく。その背景に映る青空も、建物にある淡い朱色の濃淡も、やはり私には馴染みのない風景だった。
「小さな人助けを、とりあえずはします」
私が白昼夢から覚めようとして言うと、いやに自分の声は物質的で、やはり何も言うべきではなかったと思った。しかしやはり横のエイミーが「はい」と応えてくれて、それで、なんとか後悔せずに済んだ。
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