seventeen
小学六年生の、もうあと数ヶ月で中学に上がる、という時に、愛は私に英語の予習をさせようとした。彼女は私の一個下だったけれど、家の方針で、英語の教室に通っていたのだ。何か人に教えてやりたくなるという感覚は誰もが持ち合わせているし、愛も例外ではなかった。実際、中学の勉強に不安があった私は、じゃあお願いと頼んだのだった。
英語の文は日本語のものと順番が異なる。日本語では主語の次に動詞の目的語が来るけれど、英語では主語の次に動詞が来る。これは迂遠な表現を好む日本人と外国人の差だよ、という豆知識の披露も欠かさなかった愛は、「I love you」というよく知れた文章で、文法の形を教えようとした。私が彼女の言う通りに「I love you」をノートに書いてから愛の顔を見ると、彼女は自分で書かせたくせに、なぜかひどく不機嫌な顔をしていた。「菜月ちゃんが書くならそれは違う」と言うと、私のペンを奪い取り、「I loves me」に書き換えた。
当時はただ私が文法を間違えたのだと思っていたけれど、中学に入って、そして高校に進学して英語を学べば、それがひどく間違った文章だということが分かる。主語が「I」なら「love」に「s」は付けないし、目的語は「myself」にしなければならない。なにより、私がそれを書くなら、ということがどういう意味なのか、私には結局最期まで分からなかった。最期というのは、彼女が死ぬまでということだ。
・・・・・
イルさんと最後の晩餐をしてから、二週間が経って、私の準備が整った。エイミーには隠しておきたかったので、旅の荷物は宿の倉庫を貸してもらって、そこに入れていた。
朝起きて、ベッドの枕に手紙を置く。最後の最後でエイミーが体調を崩したと言ってイルさんの部屋で寝ることにしたので、夜を共に過ごすことはできなかったけれど、その方が私にとっても後腐れがなさそうで、結果的には良かった。
荷物をすべて宿の前に出す。とはいっても、別に大量の荷物があるわけではなかった。これから目指すのは都会だし、現地調達も可能だろうから、数日分の食料と一部の金を、リュックサックに詰め込むだけに留めた。
一息ついて天井を見上げる。竜巣の中では太陽を拝むことはできないけれど、巨大な輝石がぼんやりと薄暗い青色を浮かべていて、なにも早朝の風情がないわけではなかった。輝石は大地の物なのに、天空の真似事をしている。
竜宿の扉の上に掛けられたオレンジの輝石がぼんやりと薄明かりに浮かんでいるのを見て、初めてここに来た日の、浮き足立っていた感覚を思い出した。不意にその扉が開くと、ひょこっとイルさんが顔を出す。
「挨拶してってよ」
「いやいや、こんな朝ですよ」
イルさんは小さく笑うと、紙袋に包んだ何かを私に放り投げる。受け取ると、ほんのり温かかったので、なにかご飯を作ってくれたのだろうと思った。
彼女は私の顔をじっと見る。私は、もはや何を見られてもいいかと思っていた。イルさんは確かに私の天敵だったけれど、ありがたい人だった。誰かがいつも遠慮することを、言ってくれたから。
「たまには顔を見せてくれたりする?」
「戻ってきたくなる時がある予感はします。連れて行けなくても、エイミーには会いたいですから」
私の言葉を咀嚼するみたいにうんうんと頷いたイルさんが、扉の向こうに向かって不意に声をかける。
「だってさ、エイミー」
動揺する私の目の前に、扉からおそるおそるエイミーが出てくる。彼女の俯いた上目遣いを見て、イルさんを見た。
「どういうことですか……風邪は?」
「それはエイミーに聞いてよ」
エイミーはいつものようにワンピースを着て、そのスカートのところをぎゅっと握っていた。使い勝手がいいと思って私がする嘘の仕草ではなくて、緊張とか、恐れとか、本当にそういうものがあることの現れのようだった。
「あの、私も、連れて行ってください」
エイミーが言う。私は奥歯を噛み締めて、彼女の柔らかい前髪を見た。
「エイミー、最後の挨拶に来てくれたんじゃないの? それはできないよ、連れて行けない」
あどけない少女が駄々をこねるみたいに、エイミーが首を振る。夕焼けのような輝石の光が、錦糸のように白いエイミーの素肌を照らしていた。
「でも、連れて行きたいって、言っていました」
「……聞いてたの?」
エイミーは、私が思うよりずっと強か。賢い。ずる賢こくもある。イルさんが意味深長に言っていた言葉の意味がやっと分かった。あの日、寝てるふりをして、起きてたんだ。それで私の気持ちを聞き出そうとして、イルさんも協力してた。
「ごめんなさい。謀りました」
「それはいい、もういい。……でも、聞いてたなら、分かってるでしょ。連れて行きたいとは言ったけど、それ以上に、連れて行けない理由も言った」
「大切だから手放すという、そういう話ですか」
「そうだよ」
「変です」エイミーはいつになく語気を強めて言った。そのあとすぐに私の表情を見て、眉を歪める。「……いえ、本当に……? 菜月さんはこれから、大切だと思ったものは手放して、なんでもないものだけ抱えて生きていくのですか。何か得たものが大切かそうでないかを見極めて、手放したくないと思ったら手放すのですか、本当に?」
言葉にして伝えられる私の歪み。何をするよりも何をする。何かするくらいなら何もしない。そういう、たわんだ鏡のような生き方。それしかやり方を知らないと言ったら会話は終わる。変だよ、そうだよ、と開き直っても話は終わる。終わらせ方はよく分かっている。でも、「反射みたいな言い訳をしないで」というイルさんの言葉が、そしてなにかそうすることを邪魔するものが、私の中でじりじりと熱を焦がすみたいにして燻っていた。
本当に、と聞かれても、本当に、としか答えられない。それは事実そうだから、でも言外に含まれるエイミーの疑問が分かるから、逃げようとすることができない。
「……エイミー、でもあなたも死ぬ」
「そりゃ死にますよ、人ですもの。でも死んだら意味がないって……いえ、菜月さんならそう思うんでしょう。生きてなきゃ意味がないって。……菜月さんの心の中ですから、菜月さんが意味ないって言えば意味もなくなりますよ……そうです、なくなる! 当たり前じゃないですか! ねえ、菜月さん、たとえば、私は両親を喪いましたが、私の両親に意味はありませんでしたか」
「それは……」
逃げたい問いに呼吸が止まった。私は愛が生きていなければ意味が無いと思った。そう確かに思うことができた。でもそれを他人に言われたら、そいつの鼻面は、二度と誰にも好かれないようにへし折らなきゃならない。
エイミーの両親はきっと、私にとって大切なエイミーを残してくれた。エイミーにも何かを残した。それは間違いなく『意味』だった。
「ない」とは言えなかった。それは誰しもが打ちひしがれるような重みを帯びた記号だから。そう、記号。存在無しでは無いは無い。
私は世界にレッテルを貼ってきた。きっとそれは今日明日で止められるような思考の動きではないかもしれない。でも少なくとも、愛と、そして、エイミーに関しては――。
「菜月さん、少なくとも、私はあなたと出会えて、あなたに大切に思って貰えるんなら、あなたの大切な人の容姿で生まれてきてよかった……」
絞り出すような声で、エイミーが言う。その声が悲痛に満ちていたのは、それは、本当には何もよくはないからだっただろう。比較されて嬉しいことなんかあるはずはない。でもエイミーは言った。そうでも思わないと生きてはいけないから。それは私と逆のやり方をしているだけで、本質的にはなんら変わりない。でも、エイミーの輝かしさがそこにあるのだとしたら、私は無視できなかった。
「エイミー、私はあなたが思うよりずっと弱いかもしれない」
「はい。そして私は菜月さんが思うよりずっと強いです。たとえば、連れて行くと言うまであなたの後ろを着いて回ることができます」
「置いて行くって言っても付いてくるの?」
「はい。だって菜月さんは、私を連れて行きたいと言いましたから」
私は俯く。私にとっては何もかもが難しくて、それは他の誰にとっても簡単なんだろうと思う時がある。私だけが不器用で、私だけがこんなことで悩んでいるのだと。
気まずい時、隣の席に座ろうとすることが私にはできなくて、かといって席を離れて座ることもできない。
昨日まで普通に話していた人に挨拶をすることも難しい。寝て一日経てば関係がリセットされているような気がする。
好きではない、とその人に言われたなら、ああ、好きではないのだろうと信じる。かといって好きだと言われても、それを信じることができない。
私はエイミーのようにはできない。連れて行けないと言う人の後ろを付いていくなんて、おぞましいほどの勇気がいるのに。連れて行きたいとぼやいた私の小さな言葉だけを信じて、そうしようとしている。
だから私は、ここに至っても、じゃあ付いてきて、と言うことができなかった。うちに芽生えた変な意地が、根を張ってこびりついている。
顔を上げるとエイミーが私を見ていた。双眸に薄い膜、彼女の瞳を彩る純白。私は何も言わずに両手を広げた。豪華客船の船首でするみたいに。これから沈み行くとも知らずにするみたいに。エイミーは唇を結ぶと私に駆け寄ってきて、それで、強く抱き合った。
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