sixteen
ゆっくりと風呂に浸かると、明日くらいは休んでもいいのか、という気持ちが、足元から暖かみを帯びて登ってくる。連日働き詰めだった。休みを入れてもよかったんだろうけど、なぜかそれが頭からすっぽ抜けて、考えられなかった。外に出て、無心で金を稼ぐことだけしか思い付かなかった。
風呂をあがって、そのままカウンター席に座った。エイミーが少しして降りてくると、おずおずした様子で、でも私の隣に座る。そういうの、困るよね。隣に座らなきゃ変だし、でもぎこちなくて気まずいから本当は一個空けたい、みたいな、そういう気遣いをしなきゃいけないとき。本当に嫌な気持ちになる。エイミー、せめてあなたが、そういうことのできない人だったらよかったのに。
酒は出たけど、乾杯はしなかった。
「エイミーは最近何してるの?」
イルさんが穏やかに聞くと、エイミーが少し嬉しそうに話し始める。それを私は聞きながら、内容はろくに頭に入ってこないのに、その話が好きだと思った。火酒が喉を焼く。頭をぼおっと焼く。どのくらい茫然としていたかは分からなかった。気が付けばエイミーの声は聞こえなくなっていて、私は瓶一つを空けていた。隣を見ると、ぼんやりした視界の先で、エイミーが突っ伏して寝ているのが見えた。
「結局、寝ちゃうんだ」
「そうだね」
私の呟きのあとにイルさんの声が聞こえて、頭を振る。そうだった、寝ぼけようとしている場合じゃない。
「ここを出ます、私」
「お金さえ払ってくれれば、それは自由なんだけど。エイミーのこと、どうしたの? やっぱり、自分のことを許せない?」
「ここを出るのと、エイミーのことは、関係ありません」
「ほんとに? それが関係なくなることなんてたぶん無いと思う」
「どういう意味ですか」
冷たく視線を向けたが、イルさんはそれに竦みもせず、声色も変えなかった。私が本気で睨み付けていないことを、見抜いている。
「同じ仕事して、お風呂にまで一緒に入って、同じ部屋で暮らしていたのに、急にそういうのをやめて、でも同じベッドで寝ることだけはやめてない。ある日それが始まったかと思えば、そんなに長くないうちに出ていくって言うんだから、誰にだって分かるよ。……エイミーがほとんどやつれてくみたいになってたの、菜月ちゃんに分からなかったわけじゃないでしょ。あなたはそんなに人の心が分からない人じゃないから」
「いや……分かりませんよ、人の心なんて」
「やめてよ、それ」
「え?」
「反射みたいにつまらない反論するの、やめてって言ったの。酒も飲めない子供じゃないのに。意味を持たない言葉を使わないで、そんなことで言い返した気にならないで」
イルさんの、珍しく固い声だった。
「……あなたに言って何になるんです」
「私に言っても何にもならない。でも言うべき人に黙り続けてるから、私みたいな関係ない大人が出てくるんだよ。何があってどうなっても――つまり、あなたがどんなに大切な人を失って、どんなに哀れでも、あなたは叱られるべき時に叱られ続けなければならないし、怒られる時に怒られなきゃならない。行き過ぎた気遣いを鬱陶しく思ってる癖に、そこに甘んじて生きてきたでしょう」
「なんであなたにそんなこと言われなきゃ……っ」自分の声が思ったより大きくて、呆れ果てた。「いいです、結構です、私のこと言い当てて、それで私が変わるなんて思ったら大間違いです。やめてください、踏み込まないでください、私のことどれだけ分かったって、私とエイミーのことまでは分かるはずがないです」
「あなたとエイミーのこと? 勘違いしないで、さっきも似たようなことを言ったけど、菜月ちゃんはずっと菜月ちゃんのことしか考えてないよ」
「エイミーに悪いからって……!」
「そんな外向きの言い訳、私には通用しない!」
「二度と失ってたまるかって思ってるからですよ!」
私の返事が反射的なのは変わらなかった。でも多分熟考しようが内容は変わらない。反射的にすること、熟考した末にすること、それは本当には何ら変わりないのではないか。反射的にすることはその人の経験に裏付けられるし、誰でも知っているように、熟考も経験に裏付けられるのだから。
「エイミーはもう、私にとって幼馴染の偶像じゃない、それが分かってきたから、離れなきゃって……! この前あなたにそれを気付かされて、そうしてる間に、獣に突き飛ばされかけたエイミーを見て、ああ、また失ったって、そう思ったんです! あなたに分かるわけがない、これほどの憎悪が! 視界が真っ黒になることも知りはしないでしょ!」
エイミーが勇気をだして、甘えて、抱きついてきたあの日には靄がかかった。
イルさんは眉をひそめていたけれど、私の叫ぶのを聞いて、少しだけそれを和らげた。
「……分かってもらえないって嘆くなら、菜月ちゃんも理解しなきゃいけない。やっと見つけた心から信頼できるあなたに突然突き放されるのは、それはそれで……失うことなんじゃないの? 大切なものを失った失望のあとに、また大切なものを見つけられて嬉しいですね、なんて言葉は私はかけられないけど、でも、菜月ちゃんが失いたくないばっかりに、自分が失いたくないと思われてるって想像できてないのは、ひどいくらいの倒錯だよ」
否定が胸を刺す。私を叱ることをやめてしまった母の、それでもなにか言わなければならないことを抱えていたあの姿を思い出さずにはいられなかった。私はたしかに甘んじていた。気遣いを拒否するくせに、その甘い香りだけを嗅ごうとしていた。高校も出れば、私が誰かを失ったことさえ知られなかったに違いない。その時私はなんと思っただろう。私が「愛を失った人」で無くなる日は、そう遠くはなかったはずなのに。その時には、私はただの鬱の女になる。どんな事情も無視される。
自分が求められている感覚。掴んだことの無い感覚の話をこの人は私にしている。ただ否定しているんじゃないということも、言葉の節々から伝わってはくる。
愛が死んで私は変わった。変わったのだろうか。本当に?
思い出しただけでは。愛がいなければ何にすら感動を覚えない伽藍堂のような人間だということを。その穴埋めを失ったことはどうしたって腹立たしい。運命の恨めしい悪趣味を、悪癖を、憎まずにはいられない。けれど、私がこういう人間であるということまでは、誰の責任でもないのではないか。私がこうであることは変えられない。私がこうであることが今後変わることもない。けれど、私がこうだということを正当化するために、誰かのことを考えてる振りをして、結局は自分のことしか見えてないというのは、そういうのは、私のもっとも嫌いとする物の態度ではなかったのか。
そう、だから、これは、やっぱり、究極的には私の問題で、私の感情なんだ。
「エイミーとは一緒にいられません」
「君が君のことを考えた結果?」
「……そう、思います。エイミーを盾に着たつもりはないです」
「どこに行くの?」
「旅に出ようかと。力もあるし、お金も貯めたので」
「なにをするの?」
「…………」
あまり言いたくはなくて、すぐには答えられなかった。グラスのふちに残る火酒の琥珀色に、すべて反射して見える。
「お金が無くてギルドに依頼を出せない人たちを、助けられたらいいなと思って」
イルさんが私の顔をじっと見る。この人が驚く顔をするのを、私は初めて見た。
「そればっかりは想像してなかった。菜月ちゃんは、そういう人だったか。……その旅に、エイミーは連れて行ってあげられないのかな」
「連れて行っていいと思ってるんですか。私の気持ち以前に、こんなに安定した生活があるのに」
「世界を見るのはエイミーの夢だよ、もう一つの。地図と旅行記が大好きな女の子なんだから。それに、安定してるわけでもない」
ふと焦点がぼやけたように、イルさんはエイミーを見た。私からは後頭部しか見えない。その表情を伺いたくても、覗き込むことが私にはできなかった。
「菜月ちゃんの気持ちはどうなの? 本当は、連れて行きたいって、離れたくないって、思う?」
「そう思うから、離れなきゃって思ってるんです。二度と失いたくないんです、大切な人を。大切だと思うものを作ってしまうから、そういうのが怖くなるんだって、そう信じなきゃ、私はあれから生きてはいけませんでした」
「本当は、付いてきてほしいか。そっか。じゃあ、いつ出るの?」
「早ければ一週間後には」
「エイミーに挨拶はしていくの?」
「手紙だけでもと思ってます」
「味気ないなあ」
「味気があったら、また離れづらくなるでしょ」
愛嬌の欠けらも無い自分が嫌になる。それでもイルさんは私を責めずに、不意に手を伸ばして私の制服の襟を正した。
「エイミーはね、強い女の子だよ。君が思うよりも。賢いし、利口だし、なによりも、この子も人。それをね、覚えておいてほしいの」
「……それは、全部知ってることです」
「知らないこともたくさんあるよ。これから知ることもある」
私が首を傾げると、イルさんはグラスの酒を一息に飲み干した。
「今日はこれくらいにしよ。エイミーは今日は私が介抱するから、今日くらい一人で寝て疲れを取るんだよ。エイミーが横にいると、可哀想で寝られなかったでしょ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます