eleven

 スライム退治の仕事を終えるとまだ時間がありそうだったので、その足でギルドを覗いてみた。けれどちょうど良さげな仕事がなく、じゃあ今日は休もう、エイミーもここのところ私に付き合って働き詰めだったしちょうどいいよ、と私が言い、竜宿に二人で帰ってきたところだった。


「ねえ、菜月ちゃん、思ったんだけど、もう一週間になるんじゃない?」


 受付を通り過ぎて部屋に行こうとすると、イルさんに呼び止められる。みかん色の輝石を、細い銀髪が反射していた。珍しく黒縁の眼鏡をかけて、帳簿かなんかとにらめっこしている最中のようだった。その固い表情が抜けないまま、水色の双眸が光って私を見ている。


「朝その話をしてたんですよ。今日で八日目だそうです」


 八日かあ、と感心そうに言う。この人の微笑みは、少女然としていて、それはそれで底知れなさを引き上げている。


「お祝いしない? 良いお酒が入ったの。どう、二人で。前に約束したし」


 ぐえ、と思わず喉の奥で小さな悲鳴が洩れたのを、気付かれないように取り繕う。「えっ、私は?」とエイミーが横でおろおろした。


「エイミーはまだ飲んじゃだめだよ」

「どうして! 菜月さんはいいのに?」

「菜月ちゃんは大人だから飲めます。それに、大人二人で語り合いたいことだってあるの!」

「な、菜月さん!」


 エイミーが胸元に縋り付いてくる。そんな風に上目遣いで甘えられたらどきどきするんですけど。というかこれは大きなチャンスでは、と気が付いた。


「エイミー、仲間はずれにされるのは嫌だよね?」


 私一人でこの人と飲むのは嫌だし、エイミーを緩衝材にすれば私への被害を減らせるかもしれない。ここで寝泊まりして八日。イルさんとの距離が縮まったと思ったことは一度たりともない。一日目に感じた苦手意識はいまだ健在で、いまのところ深い関わりがないことだけが救いだったのだ。


「はい、嫌です」

 エイミーがイルさんを見る。

「エイミーもいさせてあげましょうよ」

 私も見る。イルさんはやがて肩を竦めた。

「んー、いいけど。じゃあ今日の夜、暇になる頃に降りてきてね」


・・・・・


 エイミーとお風呂に入るのが自然と習慣になっていた。身体を流してすっきりしたあとは、エイミーが机でカリカリと勉強をするのをたまに見つめながら、私はベッドで魔法典を読んで新しい魔法を覚えることに勤しむ。いい時間になると、明日の予定のためにそろそろとエイミーが布団に入ってきて、数分で眠りにつき、それから30分くらい経って、寝られないことに苛立ち始めた私の元へ、夢見るエイミーが抱きついてくる。その重さを感じてやっと私も眠る、というのが、いつもの流れだった。


 実家の布団が恋しいかというと、別にそうでもない。むしろ今のほうが布団の質自体はいいし、エイミーが寝かしつけてくれるので、不満は無かった。帰りたいかどうかも、あまりよく分からない。あの世界が好きなわけではなかった。思い出すのはいつも悪い思い出だ。


 私の不眠が精神的なものなのか、それとも他の何かに誘発されているのかは分からなかった。考え込みやすい自分の性質が問題なのだろうと思ったが、睡眠薬を処方してもらおうとすれば、医者は「若いからねえ」と処方を渋るのが普通で、市販の睡眠薬は効かず、朝は寝不足のまま学校に行き、休み時間はクラスメイトに囲まれるので仮眠も取れない。


 母はそんな私を酷く心配し、でも何をしても状態が悪化していくだけだった私のあの日々がトラウマで、何もできずただ陰でこそこそと泣いていた。


 私がいなくなって、いっそ清々としてくれていたら、いなくなった甲斐もあるかもしれない。それ以上に、こっちでは比較的のびのびと生きてるよ、というのもある種死の免罪符のようにも思えた。向こう側のことは、想像も付かない。泣かなかったはずの母は泣いているだろうか。ミカやサキは、私の代わりに誰を取り合うのだろう。


 ……そういうことを、簡単に考えてしまう。母は、どこで育て方を間違えて、私をこんなふうにしてしまったのだろう。母は母として十分なことをしてくれていた。そこに瑕疵がないなら、では、母は関係なく、私がひとりで捻れた育ち方をしてしまったというだけなのだろう。


「そろそろ夕食の提供も終わって一区切り付いた時間だと思うので、下に行きましょうか」


 エイミーが言うので、私はんーっと伸びをして、ベッドから起き上がった。


・・・・・


 さて、さて……。そのときにはすでに、エイミーがうとうとと眠そうにしていたのを私はよく覚えている。いつもなら寝ている時間なのだから無理もなかったけれど、私は一抹の不安を抱えながら下に降りてきていた。


 そして三人での飲み会が始まると、エイミーは薄めたお酒をまずそうな顔をしながら一杯飲んで、すぐにふらふらとし始めたかと思うと、突っ伏して眠った。そう、眠った!


「まあ、こうなることが分かってた」


 イルさんがくすくすと笑う。背後にある幽霊みたいな雰囲気とは裏腹に、かなりの童顔で仕草は少女的なのがこの人の得体の知れないところだった。丸い瞳がその深淵を物語っている。


 緩衝材としての役割をエイミーは果たしてくれなかった。だから、結局私はこの人と二人で向かい合って話すことになってしまったのだ。


「お酒を一緒に飲みたいって思ったのはね、エイミーのこと、すぐ分かってくれたからなんだ」


 つっと指先がグラスを撫でる。自分のその小さな動きを見つめるために、イルさんの瞼が下を向く。


「両親がいないの、分かる?」

「はい、まあ、そうなんだろうなって」

「色んな理由あってのことだろうけど、エイミーも早い段階で菜月ちゃんに心を許しているみたいだったし、菜月ちゃんもそうやって、エイミーのこと理解してくれる人なんだと思ってね。あの子が寂しがってることに、気がついてくれたでしょ。だから、気が合うかなと思ったの、私とね」


 私は黙り込んだ。この人と気が合うかなんて分からない。話せば『いい人』な気がしてくるのは、会話してるうちに上がってきたテンションが映し出す幻想であることの方がずっと多いというのが、私の経験則だった。想像より悪くないということが、良いということそのものに変換されるとろくなことにはならない。


 そんな私の様子を見て、イルさんは消え入りそうな息を吐いて笑った。


「ほんと、警戒心の強い人。そんなに借りてきた猫みたいな子が、エイミーに驚くほど気を許しているのは、どうして?」

「……別に、この子が可愛いだけです」

「死んだ誰かに似てるから?」


 思わず、グラスの柄を握っていた私の手に力が入った。グラスからひび割れる音がした。


「なんですか。なにか知ってるんですか」


 目の色が消えるような感覚を抱いた。けれど、水色の双眸は怪しく光って私を見ていた。純粋な水辺の色さえ浮かべている。この人がなんなのか、ますます分からなくなる。私の取る態度も、もはや嘘偽りの菜月ではない。不快がそのまま表情に、身体に出てしまう。


「最初にエイミーを見たとき、誰かと間違えてるみたいだったって、エイミーが言ってた。菜月ちゃんの精神的な沈み方は、エイミーが両親を失ったときのそれとそっくりだし、まあいろいろね。そういうのが得意なの。仕事だったから。……あんまり、毛嫌いしないでよ。こういう人なの、私も。好きでそうなったわけじゃないっていうのは、菜月ちゃんにも分かる感覚でしょ」


 ひびの入ったグラスを、イルさんは私の手から取って下げる。手持ち無沙汰になった私の手に、新品のグラスが渡った。


 イルさんの声は遠くで響いてるみたいだった。でも、教師の一方的な説教とは違っていた。


 誰がいい人で誰が悪い人かなんて分からないし、私にできることと言えば、どいつもこいつも悪いやつだと思って、それで自衛して生きていくことだけで、誰の前でも取り繕わなければ、その瞬間に足元をすくわれると思っている。故意であれなんであれ、化けの皮を剥ごうとしてくる人がいるとしたら、それは私の天敵だ。このイルという人にはそれができるから、私は受け入れられない。受け入れてはいけない。エイミーでさえ、例外なのに。


「ここに来たきっかけのこと、覚えてないの?」


 けど、反発するだけの感情も薄れつつある。私の前で「死」という言葉を出した大人は、久しぶりだった。


「……どうしてここに来たのかは、全く覚えてません。でも、何から何まで違うところにいました。魔法なんてないし、それでも魔法があるみたいに便利な場所だった。その便利さが私の幼なじみを殺したのは、間違いないんですけど。――彼女の死んだ場所に立っていたのが、ここに来る前の最後の記憶です」

「信じがたくはあるけど、何から何まで違うところから来たっていうのは、菜月ちゃんの格好とか見たら、すぐに分かるよ。魔法を知らなかったのも、帰る場所が分からないのも、嘘で言っているようには見えなかった。たぶん、ものすごい不思議なことに巻き込まれたんだよね」


 ものすごい不思議なこと。そうとしか説明できないし、そうでしかなかった。


「エイミーのことは、何よりです」

「似てるとか、それどころじゃないんでしょ」


 言い当てられて、今度は素直に頷いた。自分の顔が、拗ねるみたいになっているのが分かる。声も自信無さげにしぼんでいった。まるで取調室で白状する被疑者みたいな、そんな侘しい気持ちになる。素直になって話してるわけじゃない、外堀を埋められたから、仕方なく。そういう思いだった。


「瓜二つです。身体にあるほくろの位置まで一緒。声も一緒、あの子じゃないんなら、なんなんだろうと思うほどに。名前にも『アイ』が付いてる。でも、性格は、いい子というところ以外は、何もかも違う」不意に声が震えた。「ほんとに、切ない……」


 酒を飲んでいるからだと思いたかった。ここに飛び込んできて、心細かった感情が、押し込めて我慢するうちに、だから大きくなってしまっていた衝動が、胸を突いて目元に込み上げてくる。


 家に帰りたいわけじゃない、でも別に知らない土地に来たいわけでもなかった。学校に行きたいわけじゃない、あそこは苦しい監獄のようだった。それよりは魔法を学んで広い草原で練習をするいまの方がよっぽどましに思える。けど、それでも――。


「愛が死んで、ずっと苦しかった。やっと慣れてきたのに、エイミーに出会って。もっと苦しくなった。エイミーはエイミーだけど、でもその顔も体もどう見たって愛だから……なんで、こんな……。会えるなら会いたかった。こんな歪な会い方して、エイミーにも悪いし、愛にも向ける顔がない」


 エイミーがエイミーじゃなくて、愛だったら、なんて、そんな残酷なこと、この人に言ったって意味ない。なんたって、この人はエイミーの味方なんだから。私のそういう本当の気持ちを知って、敵視されるかもしれないのに。でも私は言ってしまった。


 あの世界で、どう生きていけばいいのか、もはや分かってはいなかった。攻略法を見つけたみたいに人を弄んでいたけれど、気持ちのいい生き方ではなかった。だからといって、この世界でだってどう生きていけばいいのかも分からない。死にたいという衝動は、私の喜怒哀楽に追加されたもう一つの感情で、何もかも押しのけて、すぐに飛び出てくる。


 心細い、切ない、苦しい。夕方五時の団地の公園でさえ、私にとってはまだ賑やかに思える。意味も目的も見出せない。全部滅んでしまえとさえ思う。どんな優しさを受け取っても、それがただちに生きる希望にはならない。私は失望にゆらゆらと浮いている時が、よほど心地いいとさえ思えるような人間だった。そうなってしまった。


「それでも、エイミーといることを責めないでほしいんだよ」


 私の言葉をただ聞いていたイルさんが言う。なんとも言いにくい声色だった。少女のように凛としているのに、聖書を読み上げる時みたいに繊細で、みずみずしいのに、酒焼けしている。


「全く知らない人と重ね合わされるの、嫌ですよ、絶対」

「うーん、エイミーはね、普通の人よりずっと強かだよ。まずはそこを信じてあげてほしい。それに、どうあっても菜月ちゃんのことは大好きだと思う。それはきっと色んな点で。そういうことをいずれエイミーの口から伝えられるようになるまでさ、一緒にいてあげてほしいと思うの、私は」

「森に倒れてた得体の知れない女の何を、エイミーが好いてるんですか」

「菜月ちゃんにはきっと、菜月ちゃんが思う以上に魅力があるよ。きっと今はそんなこと考えられないだろうけど、余裕ができたらいずれ分かる。なんでも分かる私が言うんだから、間違いない」


 イルさんは言うと、グラスの酒を一息に飲んだ。喉が焼ける感覚に目を瞑って、自分の言葉を噛み砕くみたいに小さく頷いた。


「さ、今日はお開きにしよ。またしようね、飲み会。少なくとも、一回は。……エイミーも部屋に連れてっておいてね」


 彼女の言葉の意味を考える前に、イルさんはそう言って一人で外に出ていった。少しだけ息をついて、机の上に突っ伏すエイミーの頬を突っついた。彼女は小さく寝ぼけて「くすぐったいよ、お母さん」と言う。


「ほら、行くよ。あなたのママじゃないけどさ」


 エイミーの細い腕を首の後ろに回して無理やり立たせると、エイミーはほとんど眠りながらも私の意図を汲んで、目を擦りながら、よたよたと歩き始めた。


 首に寄りかかるエイミーの体重は、皮肉にも心地いい重さに変わっていた。

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