二章 愛の夢
ten
ここにきて、数日が経った。数日、ということしかもはや覚えていないことが、いかに自分に無関心かということの説明になるのではないかと思った。
「八日です」
エイミーが教えてくれて、やっと思い出す。ここに来て、八日も経ってしまった。手の甲で額の汗を拭っていると、エイミーが手ぬぐいを手渡してくれる。それで汗を拭って、ゆっくり息を吐いた。目の前には薄暗い草原が、霧立ち込めて広がっている。
憧れていたものに手が届いて、私にしては珍しく、意義のある日々を送っていた。
――魔法。
私にとっては不思議で、それでいて大切な能力だった。久しく消えていた活力を思い出させてくれたのは、まさにそれだった。
日の昇らないうちから外に出て、朝食を提供してくれるご飯屋さんが開くまでのあいだ、竜巣を出たところの草原で魔法の練習を繰り返す。それが習慣になっていた。高校受験でもこんなに張り切ってはいなかったというくらいには、熱中していた。愛は毎日徹夜して、行きたい高校に行こうと必死になっていたけど。入学したら、ああだから。私はがんばらなかったし、こうだった。
またスライム退治も続けていた。スライムの活動時期はそれなりに長く報酬もそこそこ出たので、私たちはほとんどそれだけに集中していた。しかし、シーズンが終わってしまえばまた他の依頼を受注しなければならない。スライム退治には火の魔法くらいしか使わないけれど、他の難易度の高い依頼には、魔法や腕っぷしが要求される。なので、それに向けて魔法を練習しておく必要性は高かった。
依頼の難易度が高ければ報酬も高いし、能力を高めておくに越したことはない。受注ギルドにいる人のほとんどが物々しい武器を持っていたけれど、つまりそれは武器を持っていなければほとんどの依頼は話にならないということを意味している。
エイミーによれば、彼らはみな魔法使いを目指しているけれど、若いうちは魔法をろくに使えないので、剣技などを練習するその傍らで魔法も練習して、歳を取り内在する魔力が高まったときに魔法使いに転向し、中ギルドやら大ギルドやらの面接を受けるという。なにしろ、魔法を使うのにはあの見づらい文字の暗記と音の暗記が同時に必要になるし、具体的な現象のイメージも必要になる。あの大きな書物を運びながら魔法使いをやるわけにもいかないので、ゆっくり着実に使える魔法を増やしていかなければならないのだった。
だから、いまのうちから魔法が自由に扱えるようになれば、大きな力になる。ここ数日でも、新しい魔法をいくつか覚えた。人々にとって想像しやすい現象は魔法として扱う難易度が低く、たとえばそれこそ火などは身近なので、簡単に使えた。水とか、氷とか、風とか、そういうものもそのうちに入る。一方で怪我を治したりする治癒魔法とか、現象としても理解しにくい電気などの魔法はあまり流通していないという。
そうか、電気って、ここではろくに解明されてないのか。と思ったのがつい先日のことだった。ここの人たちは照明に輝石ばっかり使っていて、電線が通っているわけでもなく、電化製品を使っているわけでもない。冷蔵庫も不思議な植物の力で、技術としての電気はさることながら、ここの人たちが知っているのは、自然現象としての雷だけにすぎない。そしてそれすら、まだろくに解明されてはいない状態だった。実際の世界で電気がちゃんと使われ始めたのも、そんなに早くなかった気がする。白黒写真の出始めた時代と一致するんではないかと考えると、高度な技術なのは間違いなかった。この世界の技術のレベルが、私の元々いた世界のどの水準になるのかは分からないけれど、もし電気がろくに理解されていないなら、そこで私の優位が働くのではと考えたのだった。だから、いま練習しているのは電気の魔法。学校で習った程度の理解と、自分で扱った範囲の理解でしかないけれど。ここ数日は、もう少しで出そうだな、という感覚が、なかなか弾けないまま燻っていて、気持ちの悪い状態が続いている。
ふう。とため息を付いて、杖を下ろした。
杖は「……初心者が狙いを定める練習に使ったりする以外では、別に必要なものではありませんよ。菜月さんほどであれば、特に重用するものではないと思いますが」とエイミーに言われたのを、「魔法使いが杖を持たないのはおかしい」と言い返し、森でいい感じの太い棒を拾ってきて、余った金で武器屋に加工してもらったものだ。初代ブレマジで、主人公が魔法学校時代に使っていたものと似たデザインにしてもらった。
「しかし、練習というのも侮れませんね」
エイミーがほっそりと呟く。練習に出る私にいつも付き合って、エイミーも一緒になって練習をしてくれているのだった。
「つい勉強があるからと横着してやっていませんでしたが、これも必要なことですからね。苦手な気持ちが先行してしまっていましたが、菜月さんのがんばる姿を見ていたら、そうも言ってられなくなりました」
胸元でぐっと拳を握って、おさなげな桃色の頬がぷっくりと膨らむ。気合いを入れるとすぐ頬が膨らむの、可愛い。その頬を指でつっつくと空気が抜けて、エイミーの気の抜けた声も、段々と昇ってきた日の朝焼けに「ふえ」と抜けていく。私のがんばる姿か。私ががんばってるとは、あんまり思えないけど。
エイミーはまた手に石ころを取って、えいっ、と放る。女の子然としたピッチング。石ころはふわりと孤を描いて落ちそうになるが、すかさずエイミーが呪文を唱えると、石は息を吹き返したみたいに、鋭い音とともに風を切って素早く飛んでゆく。小気味の良い破裂音とともに、木にぶち当たって弾けた。
「ものになってきた」
「はい……! 肩の力がもう少しあれば、難しい依頼も受注できると思うのですが、これではまだ大きな獣は倒せそうにないです」
魔法の内容にも得意不得意があるようで、エイミーはその中でも「付加魔法」と呼ばれる魔法を得意としていた。こっちは、私にはてんでできない。あまり想像が付かないのだった。
杖を下ろした私のように、エイミーももう石を拾うのをやめた。そろそろ時間だ。
朝日が昇り、草原の緑を淡く照らし始める。夜のうちには夜露と呼ばれる水滴が、朝の太陽に照らされて、きらめく朝露へと変わる。疲れたら岩に座って、エイミーと談笑するのも日課になっていた。朝露したたる新緑の草々と、水と土の香り。太陽がさらに昇ってくると、草原はまるで宝石をちりばめたかのようにきらめく。
「何度見ても綺麗です。こんなに広いのに、誰もいないから、贅沢な気分になります。特等席で見る美しい彫刻ですよ。ね、菜月さん」
エイミーがきょとんとした笑顔を浮かべて私を見る。そういう真っ直ぐな美しさを称えるみたいな言葉に、自分が何を返したらいいのか、何が返せるのかが、全く分からなかった。茶化して誤魔化すこともできず、ただ目の前の眩さを見つめている。
この子と、どういう関係を築いていくのが正しいのだろう。
そういう疑問が、この数日でみるみる大きくなっていた。
ここに来たあの日は、気が動転していて、そのくせ冷静に立ち振る舞って、横にいるこの子の、その幼なじみに似た姿形に目を奪われていた。私の接し方も、初対面の人にするようなものではなかった。今でさえ、その馴れ馴れしい感じを抜け切れていない。
エイミーが実は全くの他人だということを、十数年一緒に生きてきたその人の顔で忘れ去ってしまう。つい、愛してしまおうと思ってしまう。それはエイミーにとって……私にとってでさえ、非道徳的で、悪趣味なことなのに。
死んだあの子に似ているからといって、重ね合わせて、それで自分の穴を埋めようとしているのだろうか。……でも、その扱いは、一人で心細い時の話し相手でしかなく、家賃を安くするための同居人でしかなく、依頼をやりやすくするための仕事仲間でしかない。並び立てればキリがない。愛に似ていると言ったって、他人だと知っているこの頭が、ただ利己的にエイミーを利用しているにすぎないのではないかとも思った。
でも嘘ではないこともたくさんあった。毎晩真横で寝ている淋しそうなエイミーの横顔が、とろんと落ちるまぶたが、枕元で膨らむ柔らかいほっぺたが、愛しくて愛しくてたまらないのは本当のことだった。でも――やっぱり、もし、エイミーが幼なじみと同じ顔をしていなかったなら、ここまで愛せたのだろうかと、疑念が浮かぶことも、私にはひどく苦しいことだった。
また空を見上げた。朝の霧は晴れ、先に見える山の頂上が燃えるように輝く。薄い青色の空が広がっていって、白い鳥が羽ばたいた。私たちが照らされるその瞬間、エイミーを見た。朝陽、太陽の最も澄んだこの瞬間に、彼女がそれを見て目を輝かせるこの光景。それが、カーテンの隙間から入ってくる朝陽に照らされながらブレマジを輝いた目で見るあの子そのものに見えた。あの瞬間が、好きだった。
陰と光の比率が変わっていく。草原はぼんやりとしたその姿から、見るものに息を詰まらせる硝子細工の世界に変わっていく。この世界が私にとって、綺麗な姿を見せれば見せるほど、いまこの場で首を掻っ切って、血飛沫を上げたいと思った。私には何もかも似合わない。
茫然とした私の世界に、柔らかな声が掛かる。
「今日も綺麗でした。ね、菜月さん」
「エイミーのほうが綺麗だったけどね」
「ああ、またからかう。もう行きますよ、ご飯屋さんすぐ混んじゃうんですから」
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