eight
ギルドから宿に帰宅すると、その瞬間に受付のイルさんに大爆笑で迎えられた。
「いや、スライム退治でそんなに汚れる子たちは初めて見た」
「それ農家の方にも言われました。なにか汚れない方法があるんですか?」
しこたま笑われたことに膨れっ面のエイミーが、私の隣でカウンターの椅子に座っている。この二人は結構仲良しのようだ。
「スライムは温暖な時期に活発化するけど、高温には弱いから、火をかざすなりお湯をかけるなりすれば蒸発して、うまいこと消えてくれる。お湯は面倒だから、農家の人は松明を使ったか、魔法を使ったかじゃないかな」
ほーんと唸りながらなんとなしで聞いていたので、私は一瞬その会話の違和感に気が付けなかった。しかしふと引っ掛かりを覚えた脳内がぐるぐると回り出し、人の話が身に入らないくらいになると、小さく「え?」と口に出していた。え、いまなんて?
「ああ、なるほど、そうだったんですね」エイミーが感心そうに呟き、私に向き直る。「そうと分かれば、明日からは楽ちんです。よかったですね、菜月さん! その、今回は私がなにも知らないばかりに汚れてしまいましたけど、そのお着物もお風呂に入るときにお湯に付けてしまいましょう。あ、お風呂一緒に入るみたいな言い方しちゃいましたけど、そういう意味では言ってないですからね……って、別にそんな言い方でもないか、えへへ。もちろん嫌なら別々でもいいですけど、嫌って言うのは、ひとりで入りたければ、という意味ですけど、ただ一緒に入った方が一度で済むのでなんか宿的にもいいのかなという感じはしますし、なんかお湯とか、もったいないですし、それにほかのお客様がいたら、それはそれであれですし、なので菜月さん次第です、どうしますか? 一緒に入りますか? ……菜月さん?」
「いや、あの、ごめん」エイミーが猛烈なアプローチを掛けてきていた気がするけれど、今はそれどころではなかった。「いま、イルさん、農家の人が魔法を使ったって言いました?」
「うん? 言ったけど」
「へ?」
柄にもなく間抜けな声を漏らした私の横で、エイミーがはっとした顔になり、口を手で覆った。
「もしかして、ニホンには魔法もないのですか?」
「な、ないもなにも! ここにはあるっていうの?」
魔法もなくてどうやって生活してるの? とイルさんが疑問の声を挟むのが聞こえる。それこそが答えだった。魔法がなければ生活ができないと思っているくらいに、ここの人たちはそれに馴染みがあるんだ。
「なに! 魔法って誰でも使えるの?」
「ええと、よほどセンスが悪くない限りは、ある程度使えると思いますけど」
「エイミーは、使える!?」
「わ、私はまあ、将来的には魔法に関係する仕事に就きたいと思ってる人間ですし、多少は使えますよ」
ぐいぐい行く私にエイミーは顔を赤らめ、じりじりと椅子の端に追い詰められていく。
「わ、私ってセンスあるかなあ!」
「つ、使ってみたらいいじゃないですか!」
ついに椅子を降りたエイミーがそのままの勢いでドタバタ階段を駆け上がりやがて降りてくると、その手には日本で最も膨大とされる辞書を優に二倍は超える大きさの書物が握られていた。大きな音を立ててカウンターに置く。
「手ほどきしますので、そんなに興味があるならやってみましょう。イルさん、簡単な魔法ならここでやってもいいですか?」
「初心者に教えるんだったら、どうせ火のやつでしょ? ちょうど暖炉をおこそうと思ってたから、そこにやってもらったらいいよ」
私は椅子に前のめりで座りながら、二人の話をそわそわと聞いていた。イルさんの言う暖炉を見ると、確かにそこには火は灯っていない。私、これから火の魔法を撃つの? 危なくない? それが初心者用なんですか? エイミーが私の視線に気がつくと、そんなにそわそわしてたら、撃てるものも撃てませんよ、と咎めた。
「ほら、こっちに立ってください、菜月さん。難しい話は抜きにしますが、魔法を撃つための最低限のことだけは口頭で説明しなければなりません」
いいですね? と同意を求める青毛の子猫に私はこくりと頷き、意味もなく緊張して暖炉を見つめていた。
「魔法には、なにより本格的な想像が必要です。魔法名の詠唱はもとより、それを織り成す魔法文字の形を記憶し、魔法が発現する現象について、概念的にも、観念的にも理解していなければなりません。例えばですね……」
エイミーが手に持つ書物をペラペラとめくり、表から三分の一くらいにある一ページを開いて見せる。
「ここにあるこの文字、これは『フィレ』と読みます。このフィレ、という発音と、ここに書いてある文字の造形を覚えなければなりません。そして、これは火の魔法です。火について、なにか想像できることはありますか? できる限り多く出してみてください」
「熱いとか、眩しいとか……赤い、オレンジ色だったり青だったりもする、それで、熱い」
理科で教わった付け焼き刃の知識も、頭の中で総動員する。
「いいですね。他に想像できる、なにか象徴的な、観念的な物事はありませんか」
「象徴的、観念的、か……」
聖火リレーとかあるな。火事、とかもあるし怖い。動物は結構苦手だったりする気がする。花火、綺麗。なんとなく心が踊る。踊るといえばキャンプファイヤーとかも、ある。
「『フィレ』という発音と、この文字の形、これは実際には意味のある言語ではないのですが、魔法を発動するのに、必要なイメージになりますので、丸暗記しなければなりません」
エイミーが見せる本には、アルファベットをミミズっぽくしたみたいな形の文字が記されていて、脳内に踊る火のイメージと、ぐちゃぐちゃになっていく。
「本を見ながらじゃダメなの?」
「本を見ながら唱えたら、本が燃えます」
「ああ、なるほど。見つめているところに発現するってことなのか」
エイミーがこくりと頷く。
「見えているところにしか、魔法は撃てません。イメージがつきませんから。準備ができたら、暖炉を指差して、唱えてください」
彼女の言う通り、イメージを完全に頭に抱きつつ、暴発を防ぐために指を差す。暖炉に燃える火の映像、明白な想像。この瞬間にはもう、羽毛で脚を撫でるみたいな快感が、花開いていた。
「『フィレ』」
唱えた途端に身を包む爽快感。洞窟から外に抜けるそれ以上の開放感。脳内に浮かぶのは黒曜石のように真っ黒な夜空に、青空そのものを花火が如く破裂させるまばゆい光景だった。
地下鉄、トンネル、その中を轟々音を立てながら電車が行く、そういう音が耳元で鳴っている。突如大きな破裂音が鳴る。何かに似ていると思ったら、人が車両に轢かれる音だった。
その直後に、目の前が黒煙に包まれて、ハッとする時には全員が咳き込んでいて、私は慌てて両手でその黒煙を逃がそうとする。
「えっ、これ失敗した?」
もくもくとした煙の中でエイミーを探しながら言うと、同じように咳き込んだ声で、横からエイミーが言う。
「いえ、いえ、これは大成功ですよ。ほんとに、成功も成功です。見ましたよ、菜月さん、菜月さんの魔法が、暖炉のすすも薪も全部吹き飛ばすのを。お褒めしたいのは山々なのですが、まずはお掃除です」
「やってくれたね菜月ちゃん。全員で掃除。私も一緒にお風呂に入る」
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