seven

 無事に依頼を受注した私たちは、その足で依頼人の元へ向かっていた。紙切れには簡略化された地図も載っていたが、定規すら使われていない線が引かれているだけで頼りにはならなかった。


 ギルドを出ると、そんなに歩かないうちに、大きく山をくり抜いたみたいな竜巣の出口が近付いてきて、よく分からない身悶えが身を包む。実際にそこを抜けたとき、その正体が開放感だということに気が付いて、晴れ晴れした気持ちで身体をぐるりと翻して、周囲を見渡した。


 土の中は、広くても窮屈な気分がどうしても身を襲っていた。青空と新緑が視界に映って、私を歓迎してくれている気がする。地元も、そんなに空が見えるわけじゃなかったし、こういう感覚は久しぶりだった。吹き付ける風が髪とスカートを揺らすけど、特に押え付けることもしない。ここでは別に、前髪は命ではないので。


 竜巣を抜けた外は一面の平原で、こういう牧歌的な空気は日本では得られなかったなと感じる。建物がちらほらあると思うと、その横には小ぶりな農場が点在していた。温暖な気候で、制服でいるのが少し暑いくらいの気温だった。浅い緑の雑草が、日に照らされてゆらゆらと揺れる。太陽で白飛びしたように映る風景は、目に眩しいけれど、閉じ落としてしまうのは、どことなくもったいなかった。


 エイミーの赤い頬が、その孤になった穏やかな表情に浮かんでいる。時折吹き付けるやわい風が私たちのスカートを揺らすと、まるで野の花にでもなってしまったかのように思える。


 温厚そうだが角を生やした見たことのない四足歩行の動物がそこら辺で草を食んでいるのが目に入って、その背中に飛ぶこともできなさそうな小さな翼が目に入ると、やっぱりここは私が生きていた現実ではないな、と思わされた。


「菜月さん! あまり道を逸れないでくださいよ!」


 珍しい光景に興奮してふらふら歩いて行こうとするのをエイミーに咎められる。そうやって注意を受けることが久しぶりだったので、少し赤面しながら彼女の元へ戻ると、なんだかんだエイミーは甘やかしてくれそうという私の予想に反して、真剣な顔で私のことを見ていた。


「この辺りはまだ安全ですが、街を一歩でも出たらそこは危険なんですよ」

「危険って、どういう?」

「文字通りです。竜巣の入り口にも王国の兵士が警備してくれているのが見えたと思いますが、外は警備なんてないならず者のたまり場です」

「そっか……こんなに長閑な平原なのに」

「……ま、まあ、ここらへんでは少し大袈裟な話ですけど! 菜月さんがあまりにも無防備に道を逸れていくので、少し脅かしたんです。ここのこと、詳しくないようなので」


 気を使わせちゃったな。割れ物を扱うような仕草で、よく私は扱われる。というか、私は割れ物でないと薄情者なのだ。エイミーが、もし、私が、大好きな幼馴染を喪ったことを知ったら、どう接するようになるのだろう。こうやって叱ってくれるのをやめてしまうだろうか。母のように、水を溢しただけで叱ることをやめてしまうのだろうか。


「……ごめんね。私、迷惑じゃない?」

「いえ、まさか! ……不安ですよね。それはみんな一緒です。多少ましな人が、手を伸ばしたらいいんです」


 この子はこんなに小さいのに、雰囲気にはひどく敏感だった。それで、適切な言葉を選ぶことができる。裾を握ってくれたエイミーの、その本当の気持ちを完全に掴めてはいない。けれど、なにか抱えて生きているということの、そういうことに対する共感があるなら、私は彼女のことを尊んで、騙さないように生きていかなければならないと思った。でも、それがうまくいくとも、思えない。


「暗闇を仰ぐような気持ちですよね。なにも思い出せませんか」


 問われて、考える前から無駄だと分かっていながら、記憶を辿ってみる。目を覚ます直前、私は愛が轢かれたあの交差点に立っていた。寝起きには眠りに入る直前のことを思い出せないのと同じで、ただそこにいたということしか分からない。


 これは夢か、それとも死後の世界か。夢にしては生々しく、明瞭で、そして長い。事故の直後は記憶が飛ぶというし、もしかしたら本当に、愛と同じようにあそこで死んだのかもしれない。


 だとしたら? 私は何度も願ったはずだった。死にたい、死にたい、と。けれどいざ死んでいると言われても、その実感はふわふわとして取り留めがない。水の中で浮いた桜の花びらを手につかもうとするよりもずっと、可能性を帯びていない。そして、それ以上に意味もない気がする。死んで、もう一度人生が始まるのなら、死んだ意味はないから。


 あまねく願いというものは、すべてそうなのかもしれない。『付き合ってみたら違った』と、クラスのあの子も彼ぴっぴの悪口を言っていたではないか。『分かる! 私も死んでみたら違った!』初めての共感。私たち、仲良くなれるかな。


「分かんないということだけが分かる」

「分からないことすら分からないことがありますから、それはそれで、一歩前進です」


 胸の前で小さな拳を握るエイミーの、その小さな頼りがいが、私には嬉しかった。私はこの子にどこまで頼っていいのだろう。


 眩しいほどの快晴が、時折真っ白な雲で影を落とす。穏やかな目に輝く緑が、濃く色を付けて枯れていく時、じゃあ生まれなければよかったのに、と思う。二人の足音に耳を澄ます。時折地図を確認するために立ち止まるエイミーの、その人間的な戸惑いと立ち振舞いが、なにより嬉しかった。


・・・・・


 目的地は点々と存在する農家のうちの一つだった。


「君たちね、あっちの方を頼むよ」


 恰幅のいい男の人に案内されて裏側へ回ると、小高い丘の下にキャベツ畑がある。じゃ、よろしくね、と男の人が去っていき、私たちは二人で、小屋の影で壁を背にもたれて立っていた。


「スライムは冬になると凍ってしまうので、春の暖かい時期になって体が溶けると、栄養を摂取するために野菜を狙います。スライムの触れた野菜は溶けるし、土も粘液でぎとべとになるので、スライムに狙われれば作物は売り物になりません。それどころか、土作りからやり直しになります。丘から下ってくることが大抵なので、一番狙われるのがおそらくこの一角なのだと思います」


 エイミーの説明を聞きながらなんとなしに丘を見上げていると、その上からゼリーがぽよんぽよんと跳ねてやってくるのが見えた。


「え、あれ、それ?」

「あっ、あれがそれです! ほら、よく見てください」


 エイミーが指をさして、目を凝らす。私の視点もそこを照準にして注がれた。近付いたエイミーの藍色の髪が、頬に触れてざわめくようにこそばゆい。


「見えますか。スライムの内部には、あのように石のようなものがあって、あれがスライムの心臓です」

「スライムの心臓」

「心臓をもぎ取ればたちまち溶けていくので、それが私たちの仕事です」

「心臓をもぎ取る……」


 降りてくるスライムを丘の下に行って待ちながら、制服の上着を脱ぎ捨て、腕を捲った。ぽよぽよとこちらのことも気にせずに、一目散に作物の方へ向かっていくその妙な生き物がすぐそこに近付いてくると、エイミーが後ろから思い切って腕をぶち込む。エイミーの細くて白い腕が半透明の緑色に突っ込まれると、言い知れぬ背徳的な絵になった。


 私も彼女に倣って腕をぶち込む。するとくたくたに砕けた常温のゼリーみたいな感触に身を包まれて、気持ちが悪かった。けどいっそ全身この中に包まれたらかえって気持ちいいかもしれないとも思えるような触感でもある。半透明で薄い緑色の生物の内部にある、黒い塊を手に握って引き抜くと、その瞬間にぽよんと跳ねる動きが止まって、力を失ってふわっと蒸発していく。


「これで大丈夫?」

「はい、上出来です」


 スライムは消えたけれど、その粘液は腕を払っても取れず、ねばねばと纏わり付いて取れない。これ、あとでちゃんと取れるんだよね? 不安でエイミーを見ると、彼女もうえーと言いながら、粘液を取り去ろうとあーだこーだしていた。


 山から下ってくるスライムは一分に一匹くらいのペースで、作業自体はそれほど大変ではなかった。けれど夕方を過ぎ仕事を終えるころには、二人はもはやスライムになってしまったのではないかというほど、スライムの残した粘液でべとぎとのどろべたになっていた。


「こんなの、ブレマジの同人誌でしか見たことないよ……」

「え、なんですか?」


・・・・・


「スライム退治でそんなに汚れる子は初めて見たよ。でも仕事はかなり助かった。ほら」


 依頼主の男性も別の場所でスライム退治をしていたはずなのに、腕も服もてんで汚れていなかった。なんで? サボってたの?


 紙にサインをしてもらうと、それをエイミーは汚れないように懐に差し込んでもらおうとしていたので、これはまずいと思って私のスカートのポケットに入れてもらった。悪意を知らないのか、この生娘は。無闇に男に肌を晒すものではない。


「なあ、そうだ。明日からもここでスライム退治をしてくれないか。働きっぷりも良かったし、報酬も倍にするからさ」


 男性が椅子に座りながらそう言うと、私とエイミーは顔を見合わせる。


「そんな、むしろ、いいんですか?」

「倍にしたってギルドに依頼するよりは安いさ。繰り返し依頼するのも手間だしな。まあ、今回はギルドで受け取ってくれ」


 棚からぼた餅、爆発オチ。私とエイミーは礼を言うと、明日以降のスケジュールについて話し合った。

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