five
エイミーが扉を開くと、からんころんと小気味のいい鈴の音が鳴り、宿の中からは橙色の淡い光がもれてきた。扉を持っててくれるエイミーがどうぞ、と促してくれるので、お礼を言って中に入ると、想像していたよりもずっと瀟洒な内装が目に映る。青空のない地中は、明るくてもどことなく冷たかったので、ここに来てやっと暖かい空気みたいなものに触れられた。
一階はラウンジのようで、入ると目の前の奥に暖炉と、その手前に休憩用のスペースがあり、その端には階段が付いていた。二階に客用の部屋があるのだろうか。右手にはバーの様相でカウンターが設置してあり、その向こうに、頬杖して若い女の人が立っていて、たぶんそれがエイミーのいう宿主だった。
「エイミーおかえり。それといらっしゃい。私が一癖ある宿主です」
「聞いてたんですか!」
「失礼。聞こえてたんだよ」
にこにこと無邪気な笑顔を浮かべるその人は、女性というよりも少女に近いくらいのあどけなさを浮かべていて、銀髪を肩口に垂らし、親しみやすそうな雰囲気を浮かべていた。やっぱりエイミーの言い方が大袈裟だったんだ、と思った瞬間に、その女の人の瞳が私の瞳を捉えて、その水色の奥が見える間に、すすけた、と思って、身が硬直した。
いま、私の瞳の色は全部消え失せた。関わっちゃいけないタイプの人だ。特に、私みたいな嘘で塗り固められた人間は。その女の人は、どんな表情にも見えた。
生きてる心地がしなかった。私のメッキが剥がされるのが、私にとっては一番の恐怖なのに、この人にはそれができる。私が生まれ変わるために得た処世術が、その女性の何たるかを察知して、急にがらがらと音を立てて崩れ始めた。
「それで、なにか事情があるんでしょ?」
「あ、はい、この方は菜月さんといって、私が森の中で倒れているのを発見しました。竜巣という地名にも覚えはなく、輝石のこともご存知ないので、どこか遠くから来たのかと思うのですが、イルさんは『日本』という地名をご存知ですか?」
女性は考える素振りさえ見せずに、首を横に振った。
「『ニホン』とも『ニッポン』とも言うそうです」
「うーん、ごめんだけど、分かんないかも。国とか地名とか、そういうのはエイミーの方が得意だろうし」
「私にも見当付きませんでして。お名前とかもこの辺りではあまり聞かない響きだったので、色々考えはしてみたのですが……」
「そっか。まあ、なんというか、見たことないカッコはしてるよね」
私の全身が下から上に眺められると、居心地の悪さが改めて身を昇っていく。
実際、私の服装はここに場違いな感じは否めない。
学校の制服は、近所ではそこそこ人気のあるデザインだった。丈の短い黒いブレザーを羽織るか羽織らないかで冬と夏を使い分け、内側には上下の繋がった黒く袖のないワンピースを着ている。その下には白のブラウスを身に付けていて、黒白のコントラストとその厚着感、高級感があって、それこそが人気の秘訣だった。襟元には真紅のタイが交差しながら目立っていて、膝下まで伸びるワンピースは上品で、私立高校さながら、といった感じになっている。
女子高生を並べてもなお浮くそのデザインが、この砂と土と川の街に馴染むわけがなかった。この宿でやっとといった感じではあるけど、エイミーの服装は胸元に大きなリボンのくっ付いた薄いワンピース一着で、受付の女性も至って普通のブラウスだった。
「これじゃ浮きますかね」
「街に出たらウケそうではあるけどね。菜月ちゃんが流行を作るかも」
そう言われたからといって嬉しいわけではなかったけど、着替える理由も今のところない。差し支えがありそうだったら変えよう。安い代物じゃないし、捨てるのも惜しい。
「そのドレス、本当に素敵ですよね。生地も高級ですし、菜月さんは実はどこかのお姫様なのでは?」
何食わぬ顔でお姫様という大層な評価を得たことがおもしろくて、エイミーの頭を思わず撫でそうになった。でも、さっき知り合った他人だということを思い出して、やめた。けれど、撫でたらどんな顔をするのだろうと思うと、その恋しさは募っていく。
経済状況には詳しくなかったけれど、うちはごく普通の、お姫様なんて言葉とは不釣り合いな家庭だった。
「それで、菜月ちゃんはどうするつもりなの?」
エイミーは、関わりやすい。でも、やっぱりこの人のことは苦手だった。私のその怯えが目に入って、女性は目を細めた。
「菜月ちゃん、安心してね。取って食おうなんて思ってないから」
やっぱり! 顔が急に熱くなった。エイミーの言うのは大袈裟なんかじゃなかった。この人は何でもかんでも分かりきってる。
「……なんの話ですか?」
「生きにくい? 世界は」
エイミーがおろおろと私たちの顔を見比べる。私はその人から目を逸らせて、心臓の鼓動を鎮めるために深呼吸をする。それさえ見透かされていると思うと、それもすぐにやめた。
「あ、あの! どこにも行くところがないのであれば、私と一緒にここに下宿をしては、と思うのですが、いかがでしょう。イルさんも、それで差し支えないですよね」
「うん、私はいいけど。菜月ちゃんは?」
「お世話になれるのなら、なれればと思ってはいます」
この女性の底の知れなさからは早く離れたかったけれど、良くしてくれるエイミーから離れるのも惜しかった。下宿先が次にこう簡単に見つかるとも思えないし、なによりしばらく過ごせば、この人のことも大したことなくなっていくのでは、という浅はかな期待もある。この人もなお手玉に取ってしまえばいい。斎藤菜月にはそれができるはずだった。
「うん、じゃあいたらいいよ。でも、菜月ちゃんがそうであるように、私も善意につけ込まれるのは好きじゃない。だから、ちゃんと来月からは宿代を払ってもらおうかな」
「じゃあ、今月中に稼ぐアテを見つけないといけませんね」
「それはエイミーが教えてあげなよ」
「はい。私が菜月さんに教えます。宿代は私と同じで構いませんよね」
「二人で一部屋使ってくれるなら、もっと安くていいよ」
「ほんとですか」
エイミーがこちらを窺うように振り向く。
二人一部屋か。……エイミーが部屋をめちゃくちゃにしたり、こちらに迷惑をかけたりするようなことはないようには思えた。そこについては心配がなさそう。私とてそういうタイプではないけれど、でも同居人に気を使いながら過ごすというのは、それだけでかなりのストレスになるんじゃなかろうか。寝る時でさえ化けの皮を剥がせないのでは、気の休まる時がない。
「エイミーは安い方が助かるの?」
「え、はい。確かにその方が助かりはしますが、いまの値段に困っているわけでもありません。菜月さん次第かと……」
なにか言いたげだな。目の奥に出ている。
青い目の内側に反射する輝石の色が燃えていた。眉は下がって不安げ。口は今にもなにか言い出しそうに薄く開かれている。指を忙しなく組み直して、それを隠すみたいに背中側で手を組んだ。隠しきれないのならば、隠そうとしなければいいのに。
そう簡単にいかないのが、人と人の関係なのかもしれないけれど。
私が彼女の瞳を見つめると、エイミーははとしたように唇を噛んだ。
「エイミーは部屋で、何をして過ごすの?」
「わ、私は至って大人しいですよ」
「例えば」
「勉強をしたり、本を読んだりして過ごします」
「その時横で私が歌ってたらどう?」
上目遣いが私の頬を見る。素肌を見て、知ろうとしている。
「私も、一緒に歌います」
「夜はどのくらい寂しい?」
エイミーが顔を背ける。追いつくように揺れる糸が、逡巡をちらつかせている。エイミーが両親を亡くしているか、あるいは簡単には会えないのではないかということは、態度とか、こんな所で下宿しているということから、なんとなく分かっていた。働いて下宿代を自分で稼いでいるのなら、前者の可能性の方が高い。私の問いから身を守るみたいに、エイミーは俯いた。大切な人を目の前から失うというのがどういうことなのか、私は誰よりも知っている。その人が自分の半身であったなら、本当の自分さえ最悪失ってしまうということも、知っている。
エイミーは何を押し込めなければならなかったのだろう。凡そ忍耐力など持ち合わせていないこの子の、私が救いになれるなら、と、柄にもないことを、思った。
「……すごく」
「すごく寂しいか」
「夜は、寝られません。昼に人の声を聞きながらでないと、寝られません。しんと静まり返ると、耳鳴りがうるさくて」
しんと静まり返ると耳鳴りがうるさい。いまこの部屋が静寂に包まれて、そのことがよく分かる。ぱちぱちと暖炉の燃える音が切なげに響いていた。
「今日からは心配いらない」
エイミーの表情が、そっと安堵に包まれるのを見て、私は目を逸らした。
「菜月ちゃん」
イルさんが声をかけてくる。
「はい」
「今度、一緒にお酒飲もうね」
・・・・・
にっこり笑顔の断りにくい誘いの後、値段交渉をして、それからエイミーに部屋に案内してもらっていた。できるだけ安くしよう、ということで、廊下の端にあるダブルベッドの部屋を選んだ。エイミーは部屋を移ることになるけれど、荷物自体はそんなに多くなく、せこせこと運び込むと、すぐに二人の部屋ができた。
歩く広さはそんなに無いけれど、生活していくためのスペースは足りている。過去に泊まったビジネスホテルの空間に似ていた。ベッドが部屋の角にあって、空間を挟んで二人分の机もある。なにかしら作業するのにも困らなさそうだった。厳密には冷蔵庫ではないけれど、なにか特殊な植物を使って食物や飲み物を冷やすことのできる箱も置いてあり、基本的なインフラは整っていた。
木材で作られた内装は金持ちの別荘感がどことなくあり、暖炉が置いてあってもおかしくないような高級感で満たされている。得る印象は暖かだった。輝石がオレンジ色にぼんやりと光っているのも、その雰囲気を強めていた。
トイレは各部屋に付いているらしかったけど、お風呂だけは残念ながら共有だ。とはいってもこの宿は安く大量の客を取るタイプの宿ではなく、質の高さを売りに高めの値段設定をしているタイプの宿で、部屋数はここ合わせて七部屋しかないので、お風呂が人で溢れるということも無さそうだった。条件はかなりいい。あとはエイミーとうまくやれるかということだけだ。
「宿が見つかったのはありがたいけど、来月までにどうしようかな。エイミーはどうしてるの?」
「はい。良ければ私のお世話になっている受注ギルドにご案内しようと思っています」
歩いている時にも言っていたけど、ギルドというのがいまいち要領を得ない単語だった。歴史の授業では聞いた記憶があるけど、なんだっけ。師匠と弟子の関係を結んで修行したり、労働組合的で、なんなら自治までしていた、みたいな。社会教師の蘊蓄もたまには役に立つな。ここのシステムがそれと同じとは限らないけど。
「受注ギルド以外にはなにがある?」
「商人ギルドや鍛治ギルドなど、様々ですが、特に情熱がない限りは受注ギルドをおすすめします。まともに稼がせてもらうまで、才能があっても五年以上はかかってしまうので、手に職をつけたいのであればおすすめですが、正直なところ、生活に余裕があるか、もはやそれでしか稼げない人のための組織です」
私が頷くと、エイミーは口を弧にして、私の顔を見て微笑んだ。少女のように無邪気で、母親に甘える時みたいな、屈託なく真っ白な表情だった。
「受注ギルドは、そのような専門的なギルドに頼むほどではない仕事を頼むところになります。実際に見るのがいいと思うので、歩きながらもう少し説明しましょうか」
ぱちぱちと二度瞬きをして私に同意を求めるエイミーの、青い瞳とその長いまつ毛がきらきらと輝いていて、私はその煌めきに当てられたかのように、返事もせず小さく頷いた。どうしてこうお人好しなのだろう。どうしてそう閃光を散らせるのだろう。私にない美しさを見て、そういうものが私にもあれば、と哀しく思った。
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