第1話 ゲリラの行進
大通りを逸れて路地に入り慣れた手つきで進んでいくと壁に張り付く形で簡易電話が設置されていた。外気に晒されているからか風化し酷く錆びついて些か不恰好であったが通じてはいるらしく付属の受話器を上げるとお決まりの無機質な電子音が聞こえた。
「コード1457924。捕獲した。受け渡しを頼む」
要件を告げ備えつけのカード口で報酬を確認する。
機械仕掛けのやりとりを終え出てきたものを受け取ってまた路地を進んでいくつか角を曲がり階段を下ると再び見えてきた人の波に見知った顔が見えて慌てて顔をそむけてその場を凌いだ。
幸いなことに気づいていなかったらしく同じように気づかなかった艇で通り過ぎたところで体が後ろに引き戻された。
一瞬のことで受け身が取れず相手にされるまま後頭部を壁に打ち付ける。
「っ」
畳み掛けるように腕と壁の間に固定された首元からは掠れた空気がもれた。
「1457924か?」
続きを聞く前よりも先に身体が動いていた。抑えられている腕を無理に動かしたせいで肩の関節が外れた音がしたが構わず動く方の腕で鳩尾に一発入れて相手の力が緩んだところで屈んで脚を引っかけ地面に引きずり倒しホルスターから抜いた銃を額に当てる。
撃ってもいい。コードを知られることはそれと同等のことだった。
だがその前にこいつが誰なのか知る必要がある。
「何者だ」
銃口を強く押し付けた。
「答えろ」
安全装置を外すが懇願することも焦ることもなくただ目線を反らすことのない新緑色のその強い目力には憶えがあった。迷彩柄の制服の一部には自国の国旗と勲章がいくつか誇らしげに掲げられ軍関係者だということが見て取れる。そこには新たに加えられている勲章も見受けらえれた。本人自体は邪魔だと言っていたのを思い出す。
「……ヴィンセント、か? どうしてお前が」
てっきり死んだと思っていたが。見かけなくなっていたのは何かしら潜っていたのだろう。
「……先にそれをしまってくれないか」
銃の安全装置を元に戻しホルスターにしまって手を差し出す。
「悪い。あいにく時間がないんでな。単刀直入に聞く。お前憶えてるか?第三研究所」
すっ、とヴィンセントの目が細められる。
第三研究所と言えば確か新設されるはずだったと聞いた。建造物の強度に問題が見つかったとかで建てたはいいが閉鎖されていたと記憶している。
「その様子だと知らないみたいだな。俺は、あそこで」
「待て」
彼の言葉を遮って口を塞ぎ体勢を低くする。
視線を感じた気がした。
周囲に視線を巡らせると一滴また一滴と室外機から漏れ出た水滴が辺り一帯を湿らせ苔が地面から壁にかけて覆っており鼻腔を生臭いにおいが掠める。その隙間を目を凝らして確認するがとくに変わりはないような気がした。したが、ホルスターに収めた銃に伸ばした手は彼が起き上がり人混みに混ざるまで緩めることはなかった。
路地を抜けいくつかの列車を乗り継ぎバスを乗り換え尾行がいないことを確認してからメインストリートを外れた角の扉を潜った。
縦に伸びた部屋の中は壁一面が書物で覆われ上に行くほどに霞がかって終わりはうかがい知れない。中心部には申し訳程度に机が設置されていたが、特段使った形跡はなく積まれた書物の上には埃がかぶっている。真っ暗の窓辺に飾られた観葉植物は水を与えても回復不可能だと言わんばかりに枯れ果てていたが最奥に設置されたドアを潜ると人の生活が感じられる部屋に出た。簡易キッチンと窓辺にはカウチと食卓それから簡易的なベットが置かれており板間には簡素ながらも人の気配がある。
「何か飲み物探すから」
淹れるからではなく探すからとの言葉に向けられた訝しげな視線を受け流しそれらしい棚をあさる。
正直あまり帰ることはない。ここはいくつかある家の一つでしかなく、使うことなどそうそうないからだ。
「いい。座れ」
促されヴィンセントの向かいに腰を下ろした。
「あれ、覚えているか?」
その一言でどれを指しているのかエリックは理解した。
幹部の一斉取り締まり。
政府関係者が人身売買の密輸に関わっておりその本拠地の一斉確保が部隊に入っての初仕事だった。
「この前、襲撃した時に殺したはずの少年と会った。姿はあの頃のままだった」
政府と軍の幹部が主導していることからそれを知らされていたのはごく一部の人間のみで末端の隊員にすぎない自身に与えられたのは逃走経路を塞ぐことだった。
抵抗する者は殺せ。
それが上からの命令だった。
だからそれに従い任務を遂行した。
「……そんなはずないだろ。あれからどれくらい経ってると思ってるんだ」
それに彼らは機関が手厚く葬っているはずだ。人はみな平等であるから神の御許手厚く葬るのが機関の方針だとか何とかで政府直属の特別機関が処理をしていると聞いていた。
「俺は、第三研究所に何かある気がする」
軍は政府の管轄にあたる。それは艇のいい表向きの理由で実質掌握しているのは軍だったが。
政府の上層部は現場には現れることはなく、決定権などで対立が深まり、互いの領域に踏み入ることはなかったと聞く。
あの時も陣頭指揮を取っていたのは軍だった。
軍の研究所は大きく医療・技術・埋葬の三つに分かれている。
その中で第三研究所と言うのは、軍との抗争で亡くなった人の遺体を埋葬をする部門の予定だったと聞いていた。
今までのことを考えればエリックも想像に難くはなかった。
詰まる所、ヴィンセントは軍、おそらく第三研究所にはなにかしらあまりよろしくないということがあるのではないかと考えているのだろう。
「俺はこのままにはしたくない。お前はどうする」
「今は無理だ」
とくに断る理由はなかったが彼に対して言えることはなにもなかった。
「……そうか。気が変わったら連絡してくれ」
「ああ。わかった」
いつの間にか外は暗くなり遠くの方から開店の準備をする人々の声がちらほらと通りの向こうに確認でき彼もその中へと消えて行った。
──悪いな、ヴィンセント。
扉を閉め施錠し本棚をスライドして今しがた旧友を見送った扉に本棚をはめ込むと部屋の壁一面を取り囲んでいた本棚は決められたように縦横無尽に動き少しするとひとつの扉が本棚の隙間から現れ取り付けられたドアノブを回せば長方形に切り取られた暗闇が口を開いていた。
慣れた手つきで階段に足を置いて行く。
下り終わる頃には垂れ下がった豆電球が無骨な石造りの壁や床そして椅子に縛られた人間を、心もとなく照らしていた。
拘束して数日。
細い体躯がより一層小ささを増しているように感じられた。
黒いパンツに灰色がかったパーカー。すらりと伸びた手は丸みを帯びて年齢からみるよりも幼く感じられた。少しばかり衰弱していたがそれでもなお話す気はないらしく依然口は噤んだまま。
ヴィンセントの言った通り、少年は生きていた。
まあ、少年ではなく少女だったが。
ある人物を殺せとの政府からの依頼で写真を見た時は驚いた。この目で見るまでそれが本当にその少年もとい少女だとは思わなかった。付け加えて言えば政府は少女が生きていることを認めているわけで、それがどうしてもエリックには理解できなかった。
確かに俺はあの時彼女が死んだのを確認した。
脈は無く瞳孔は開いていたし、なにより俺はこいつの心臓を打ち抜いたんだ。
生きているはずがない。
そしてもうひとつ。
ちらりと拘束された手首に目をやると真っ白な腕はまっさらなままだった。この国で生きているのならばまずありえない話だ。生まれたその日に手首の内側に専用の黒い塗料で縦に線が引かれるはずだ。それがいくつか並んだ集合体を通称バーコードという。バーコードにより個人情報の統制がなされ本人証明となりこれが生活の一部を担っている。旅行者といえども例外はなく、緑のバーコードが印字識別され、浮浪者に限っては手厚く迎えられるためこの国には犯罪など皆無だった。
だから、この国にいる以上これがないなど、ありえない。つまり不法滞在者となるわけだがいったい彼女はどうやって忍び込んだのだろう。
考えていても仕方がない。
そばに近づいて目線を合わせるように体を屈める。
「話がしたい」
口に噛ませていた布をとる。椅子に縫い付けられるように固定されていた紐を解くと真っ白な腕には痛々しいほどに紫ががった痣ができていた。
「……手荒なことをしてすまない」
「どうして秘密にしたの。さっき話してたの軍人でしょ」と上を目で示した。
初めて聞いた少女の声は柔らかく澄んだ音をしていた。
「……聞いていたのか」
「あなたが拘束していたおかげで」
「君に危害を加えるつもりはない。もう二度と子供は殺したくないからな」
「一度目はあったってこと?」
「……俺はその時に君を殺している」
「ああ。あなたがあの時の」
少女はさして重要ではないというような顔をして端的に答えた。自身の口にしたことが間違ったのではないかと思うほどに彼女は興味がなさそうで聞こえていなかったのではないかと再度口にしていた。
「確かに俺は君を殺したんだが」
「うん、知ってる」
やけに落ち着いてはいないだろうか。
「それよりなにかもらえる? 喉がからからなの」
冷蔵庫には揃いのボトルが数本転がっていた。
手に持って一口含み「水だ」彼女にも飲ませた。
そういえばあの時一緒にいた幹部はどうなったんだ?
こういった場合、情報を聞き出したうえで刑に処されるはずだがそういった話は聞いた覚えがない。
彼女と一緒にいた?
いやそれはない。
しばらく見張っていたが明らかに単独で行動していた。だから捕えることができたんだ。ということは幹部はどこかにつかまったままなのか?
「なあ。ひとつ訊くが、一緒にいた人物も助かったのか?」
首を振って否定される。
「……その方があなたたちにとっては好都合でしょ」
澄んだ空の色をした双眸は嫌悪感を含んでいて、それは仕方がないとして、少しばかり引っかかる口ぶりに問いかける。
「それ、どういう意味だ」
「そのままの意味。政府の奴隷売買を暴こうとしたから先手を打って攻撃してきたんでしょ」
想像だにしない話を投げかけられ言葉に詰まった。
「その様子じゃ知らされてなかったのね」
絶句していると「これが証拠」とそう言って服を捲った胸の下あたりに数字と文字が黒く刻まれていた。
「これは入所証明書。別に信じなくてもいい。でもあなたにも思うところはあるんじゃない? だからさっき私の事を言わなかったんでしょ」
それが体に押されているということは彼女はまちがいなく施設に入っていたということになる。
エリックも以前軍の任務先でその印を目にしたことがあった。
奴隷収容組織の解体で救出された人々にも同じような印があった。
熱い鉄で皮膚に押し付けられるため皮膚に深く刻まれ生涯とれることはないと聞く。
少女の皮膚に刻まれた数字のまわりは白く隆起してすでに肌の一部とかしていた。
こんな子どもになんてことを。
無意識に伸ばした手から逃れるように少女は服を下ろしその箇所を隠した。
「船に奴隷を詰め込んで売りあさって政府は資金に変えてるのよ。だから昨日解放する手はずが整っていたのにあなたに捕まって駄目になったってわけ」
事情を知らなかったとはいえ流石に居心地が悪くなりエリックは口を閉じるしかなかった。まさか政府がそこまでの事をしているとは思わなかった。いや、薄々は気づいていた。だから俺は除隊しだんだ。もうこれ以上軍に関わりたくなくて。
「その話、俺にも一枚噛ませてもらえないか?」
訝しげな視線を向けられ咳払いをして仕切り直す。
「俺は元軍関係者だ。君にとって利用価値はあるはずだ」
「……裏切らない保証は?」
逡巡してシャツの袖を捲り腕を見せた。
「1457924。それが俺のバーコード」
教えた数字は解除キーとされバーコードには生きていくうえですべてのものが集約されている。裏では闇取引で高額で取引されていると聞く。元軍関係者のものならば一級品と言える。一種の人質になるだろう。
彼女からは信じられないという視線を向けられたが俺にとってはそれほどの事だった。
「これで決まりだな」
∽
「あんた、また変なことに首突っ込んでるでしょ」
メインストリートから路地を一本入ればあまりよろしくないお店が犇きあって並びその一画の割と古い店の丸テーブルで向かいに座った女ががこちらの顔を見るなり発した第一声がそれだった。
煙草をひとつ引き抜いて火をつけるその仕草が人を引き付けるくらい様になっているのだが、いまはそういった話ではない。
「……で、どうだったんだトゥルリエッタ」
じろりと視線を寄越したところをみると何かしら情報が得られたのだろうということがわかる。
「政府の連中、血眼よ。先週船が沈没したとかで」
「……船?」
「なんだか違法物資が乗せられていたとかで一斉検挙されたとかなんとか。まあおそらくよろしくない物だったんでしょうね。情報規制されて新聞やラジオでも取り上げられていないし。さっき見てきたらすでに代わりの船が用意されていたくらいだもの」
違法物資。
思わず顔をしかめれば「大方奴隷でも乗せてたんじゃないの。政府なんてほんとどうしようもない連中ね」とこれまた煙草の煙を吐き出しながら言い出したので慌てて煙にむせたふりをしてトゥルリエッタの声をかき消した。周囲に視線を巡らせたが艶めかしく踊る舞台にくぎ付けでこちらなど振り向きもしなかったことに安堵して悪態をつく。
「なによ。政府に不信感を持ってるなんて今更じゃない。なにをそんな隠したいのか私にはわからないわ」
「あんたはそれでいいだろうがこっちにまで火種を寄越すな」
「だったら今の仕事から手を引くことね。そんなに深くかかわっているわけじゃないんでしょ」
その言葉に数秒見合ってどちらともなく顔を外した。
「……あんた馬鹿でしょ」
こちらの沈黙の意味を理解したらしくため息と悪態を吐かれた。彼女の性格上、話さないなら話さないで面倒くさいことになるだろうと現在までの話を一通り話していく。
前方の舞台ではサーカス団が定期公演をしており一際大きな歓声が上がっていたので構わず話を続ける。安酒場のテーブルで男女が身を寄せ合って話すなんて大抵良い話ではない。付け加えて言えば今回は政府関係だ。反逆罪になんて問われてみろ、最悪首が飛ぶ。あまりよろしくない男女があまりよろしくない話をしているのだ。見つからないのならその方がいい。
「急に話があるなんてなにかあるだろうなとは思っていたけど、あんたは大体いつもどうしてそう後先考えないのよ」
吹き付けられた紫煙に眉をしかめつつべつに俺はすきでこうなったわけじゃないと心の中で言い返す。
「政府が賞金まで出して探してるなんて異常よ。その内情報が洩れてあんたが殺されたらどうするの。奴隷だか何だか知らないけど、余計なことに首突っ込んで助けてあんたはどうするつもり?」
剣呑な空気を纏いながら灰皿に煙草を押し付けてこれでもかと苦々しく言ってくるのでげんなりして視線を逸らした。
「考えてないのね。エリック、あんた今自分がどういった状況にいるかわかってないわけじゃないでしょ。これは親切心で言ってるんじゃなくて、あんたが動くとこっちにまで面倒事がまわってきているから言ってるの」
「だったらかまうな。うざいんだよそういうの」
「いいかげんにしなさいよ。こっちはあんたの勝手に振り回されて迷惑してるの。犬や猫じゃないのよ、嫌になったからって誰かに放り投げるわけにはいかないでしょう。その子の責任がとれるのかって聞いてるの」
「お前には関係ないだろう」
視線を逃した直後、煙草の火が消えアルコールのにおいが鼻をついた。
「……ちょっとは頭を冷やしたら」
踵を返して闊歩する姿は周囲の目を引き付け、酒を引っかけられた方は最低な男の烙印を周囲から受ける。
だから目立つなって言ってるのに。
船着き場に足を運ぶと旅行客でごった返しあたりには動力源である石油燃料独特の匂いが漂っていた。煙を黙々と吐き出しながら船体の側面から乗客が乗り込むための足場を乗組員同士が指示されたように出しているのを横目で見送っているとその中でひとりの少女が目に留まった。なにをしてるんだ。と思いつつも声をかける前にするすると行ってしまったので、逡巡して、後を付いて行くことにした。
到着したばかりなのか船からは乗客が降りてくるところだったらしくそこを横切り逆らって歩いていると乗客から煙たげに見られたがそれでも構わず進んでいく。船体の後方ではクレーンでコンテナや車体などが運び込まれる中で船体の下水面上ぎりぎりのところに人ひとりが通れるような正方形の枠組みが形作られスライドしたと思ったら中から乗組員らしい男がきょろきょろと外の様子を確認してそこからひょいとコンクリートの上に降りてきた。それに続くように数人出てきて体の凝りをほぐすように体を動かすと同じようにして出て行った。揃いのつなぎからみるに船員だろう。人通りが途切れた頃に待っていたとばかりに特徴的な頭髪がその中目掛けて駆けて行ってひょいっと乗って行く。
おいおい、なにしてるんだあいつは。
後を付いて中に飛び乗ると、船内は一本線の通路が続いており等間隔に並ぶ船用ランプが鈍い灯で辺りを照らしたその突き当り、遠くの方では扇状に灯が照らしていたが探していた人物の姿は見えず石油燃料がくぐもってにおい鼻についた。
通路の片側には丸くくりぬかれた窓がいくつか設置されており、中を覗き見ると、布団らしきものが無造作に転がって慌てて出て行った様子が見てとれた。壁には船員帽が下がっているのを見るところどうやら乗組員の寝床らしい。長期の船舶では港に帰り着くのに数ヶ月かかるものもあると聞く。男ばかりの場所ではどこもこんなものかと雑多な部屋を見送って通路を進み突き当たりに差し当たる。左右に分かれて遠くの方まで通路が伸びその先は似たようなものだったが遠くの方で話し声が聞こえた。
見つかったら面倒だな。
エリックは踵を返し話し声とは反対後方に進むことにした。
∽
「やめろ叩くな、痛いだろう」
「そう? 叩けば点くんじゃない?」
「デリケートなボディになにしやがる」
お腹あたりで騒ぐランタンに悪態で返事をする。
船で西へと抜ける大海を渡ってきたからか潮風に当てられて彼は少しばかり調子が悪いようだった。
頼りの明かりは機能せず不運なことは重なり監禁されて数日。船は港についてはいたが出港時間を考えると、船内全てを確認できる時間はない。いっそのこと私も出港してしまおうかと考えているとヴェジーの声色が変わったことに気づき意識をランタンに傾けた。
「あの男を信じるのか? 今のうちにさっさと逃げるのが得策だと俺は思うがな」
「悪い人ではないと思うけれど」
「これだから子供は危機感が薄くて困る。そもそも──」
くわえて、機嫌も悪いようだ。
街に着いてメンテナンスを頼もうとした矢先に捕まったのだから少しは優しくしてくれてもいいんじゃないだろうか。
ヴェジーの悪態に適当に相槌を打ちながら頭の中に起こした地図の通りに入り組む船内を進み最下層までたどり着くと行き止まりにあたった。ポケットからライターを取り出し火をつけ辺りを照らす。灯りの向こうには鋼鉄製の扉が鎮座して行く手を塞いでいた。
「やっとたどり着いた」
「長かったな。にしてもここが本当にその部屋なのか?」
「たぶん、ここであってる」はず。確証はない。でも情報によればここが唯一設計には載っていない部屋だった。
検閲も通過するぐらいだ。奥まったところにあるとは思ってたけどここまで下層だとは思わなかった。足下からは海路を左右するスクリューの振動が定期的に伝わってきていて、ぼうっとしていると平衡感覚を失ってしまう。
扉に手を伸ばし取り付けられた可動式のハンドルを回すとガチャ、と鍵がはまったような金属音がして扉が手前に開いた。
わずかな隙間に身を滑り込ませると熱気が首元を締め付けてくるような息苦しさがあった。
「……クロエ」
「わかってる」
暗闇からは鉄となにかが腐敗したような胃を鈍く刺激するにおいが辺りに充満し袖で鼻を塞ぐものの意味は無く吐き気を催した。
間に合わなかったことがわかりそれでもなお知りたくはない状況にそれ以上進めずにいると背後から靴音が聞こえ「まずい、隠れろっ」ぎぃっと扉が軋む重苦しい音に息をひそめる。
「誰だよ開けたままにしたのは」
突如として聞こえた声に心臓がひっくり返りそうになってクロエは足を踏み出し近くの物陰に身を潜めた。
「見つかったら大目玉をくらうぞ」
男は悪態を吐いていたが入ってくる気配もなく「こちら最下層。異常なし」と通信機器で連絡を取り扉を閉めると足音も遠くに消えてなくなった。
「ふう、危なかったな。それよりこれはいったいなんだ?」
ライターをつけるとなにか資材のようなものが積み重なってコンパクトにまとめられいくつか配置されていた。木材の積荷かなにかとも思っていたがよくよく観察するとそれは人の皮膚のような質感をしていることに気づく。
「……これ、人間だ」
「なに言ってんだ」
「見てみなよ。腕がはみ出してる」
そう言ってランタンを前に突き出しつつもあまりの気持ちの悪さに後ろに下がった時足がなにかに躓いて後ろに転んだ。
「おい、大丈夫か?」
「いたた……なにかに躓いたみたい」
習慣でランタンのつまみを調節して部屋の中を照らすと明かりに安堵したのは一瞬で「っ」目の前の光景に喉がひくついた。
「……なんだここは」
人が折り重なる様に積み上げられそれがいくつも並びとてもじゃないがそれは生きている人間ではなかった。体からそがれたような肉片が乱雑に散らばり、飛び出た内臓や腕や脚、頭とみられる肢体も転がっていくつもの血溜まりができていた。まるでそれはなにかが食い散らかした後のようで俯いた先の足下には今しがた躓いたものも体の一部だったことが確認できて反射的に距離を取っていた。
「これはここでいったいなにをしていたんだ」
大体の事は予測がついた。ついたが、凄惨さに胃液が駆け上ってきたのを唾を飲み込んで耐えたが口の中には飲み込み切れなかったものが溢れ酸っぱい液体が広がり不快感が残る。
これは、食事だ。
「……私、しばらく何も食べたくない」
「……同じく俺も食えそうにないな」
「同じくってヴェジーは食べれないでしょ」
「……あーそうか。そうだったな」
声の乗らないやり取りをして目の前の光景を頭から取り消そうとする。
換気できる窓もなく、異様な不快感が肌に張り付いて気持ちが悪い。
よろよろと室内から出るといくばくかのまともな空気を吸い込む。
「早くここを出よう」
半分頷きかけて、立ち止まった。
「……クロエ?」
待って。ここに食べ残しがあるということは、それはつまりそれを食べた人物がいるということになる。周囲を見渡してみるが部屋には人間だったものが転がっているだけ。
じゃあ、それは、いま、一体どこにいるの?
「ねえ、ヴェジー?」
「……なんだよ、改まって」
「もしかして同じこと考えてる?」
「……そうかもな」
「まさか船内に逃げだした、とか?」
返事はない。
「ちょっと、黙らないでよ」
「……考えられるな」
今度はクロエが黙る番だった。
「どこかで人間の再利用取引が行われてるって前に聞いた覚えがある」
「……再利用」その言葉にクロエは顔をしかめた。
「その資源とされるのは身寄りのなくなった者や孤児院に預けられている者。あとは奴隷だろう。そこに転がっているのを見てみろ、印が押されてる」
自身とよく似た刻印は血で隠れてはいたが見覚えのある羅列をしていた。
「待って、孤児院って確か政府が経営してるよね」
「ああ。これは政府直属の奴隷売買だろう。冗談だとは思ったが。これを見た限りあながち嘘ではないかもしれないな。政府が始動してるんだ。検閲なんてあるわけがない」
「どうりで。政府の連中はほんとどこまでっ……でも待ってよ。この死体の山とそれがどう繋がるの」
「……軍が、人間を生き返らしていることは知っているだろう。でも、そうなるまでにいくつもの実験が行われていた。これは、たぶんそれだ」
「……ねえ、どうしてヴェジーがそれを知ってるの」
「……俺もそのひとつだからだ」
「じゃあそこにいけば黒幕を倒せるってわけね」
「……クロエ」
「なに」
「これは案外骨が折れそうだぞ。お前はどうする?これはもともと俺が始めたことだ。もう、お前が従う必要はない。これは政府が転覆しかけない。危険かもしれないぞ」
「ヴェジー、それ本気で言ってる?」剣呑な声で答える。
「俺は守ってやれないんだ。くれぐれも気をつけろよ」
「……わかってるよ、ヴェジー」
いつもはうるさいヴェジーでも今はいてくれることが心強くランタンへと伸びた紐をぎゅっと握り込んだ。
∽
上層階が一段と騒がしくなり始めていた。
階級によって泊まれる部屋は決まってくる。上から特等階にあたり階が下がるにつれ階級が下位にくるように振り当てられている。その為甲板より下にあたる真上の階は恐らく下流階級の泊まる大部屋にあたるのだろう。石油燃料のにおいにスクリューの振動で寝られるはずもない。長い船旅だ。その中で気分を紛らわすことと言えば限られてくる。車座になって娯楽のカードにでも興じているのだろう。その中で賭け事でも始まれば、まあ騒がしくもなる。
そう考えていた時視界の隅に見慣れた軍服を纏った軍人たちがやり取りをしているのが見えて咄嗟に隠れたがその中にひときわ大きい胡麻塩頭の男に目がいって「ヴィンセント、お前ここでなにやって」思わず口をついて出たことに後悔した。
わずかに目を瞠った男がこちらに気づき軍人と別れこちらへと近づいてきたことで自身に対して内心舌打ちをついた。
きな臭い噂を聞いてな。と前置いてヴィンセントが声を潜める。
「ここだけの話だが、この船で人身売買が行われているらしい。それを探りに来たんだが、そういうお前こそどうしたんだ」
「……迷った」
「は?」
「だから迷ったんだよ。標的を見失って迷った」
「……お前の方向音痴ぶりは相変わらずだな」
「うるさい、黙れ」
「船内の陣頭指揮をとっている。よければ船員にも情報をまわすが」
「いや、こちらとしても下手に目立ちたくはない」
「そうか。そういえば政府の下請けをしてるんだったか」
「まあそんなとこ」
「それでよく死ななかったよな」
「放っておけ」
「……それでお前ひとりか?」
歯切れの悪い言い方だったのでなにかあったのかと思い訊き返した。
クロエも見つけていない中で更なる面倒事はごめんだ。
「実は、」
ヴィンセントが口を開きかけた時、背後の通路から騒音が届き何事かと振り返ると思いよくよく見ると、人間ではない何かが、文字に表すならばへどろが寄り集まったような色合いの巨体が人間を咥えているのが目に留まった。
「なんだあれは」
「俺が知るか」
あまりに異様な光景に茫然としていると次第にばりぼりと骨をかみ砕く音が辺りに響き背後を確認してエリックは忌々しげに舌打ちを打った。背後は突き当たりになっていて逃げれる場所も無く外に出られても被害が広がる。抗戦するしかない。ヴィンセントの腰に長身の剣が携えてあるのが目に入った。
「その剣を貸せ」
「は?」
「お前より俺の方が扱える」
「……嫌な奴」
ヴィンセントが投げて寄越した剣を掴み鞘から抜く。
馴染みは悪くはない。
「援護を頼む」
「……ほんと嫌な奴。せいぜい弾に当たらないように身をかがめとけ」
「おう」
緩慢な動作で人間を飲み下した物体の急所になりそうなところは見当たらなかったが首だと思われる場所に剣先をつきこんだ。肉片が感じられ気持ち悪さに全身の毛が逆立ったところを振り回される。
「わっ、ばか、暴れるな」
剣の柄を掴んだだけの体は天井から下がったランプに当たり「くっ」壁に打ち付けられ瞬間的に受け身を取って痛みを最小限にとどめる。
ヴィンセントの放った弾が頭上を掠め巨体の中央部に当たった。当たったはずだったが殺傷能力はなく巨体深層部へとのまれていったがなにか違和感でもあったのかへどろの集合体のようなものは身を翻すと背を向けて走り出し角を曲がって見えなくなった。
突然の行動に思い出したように後を追えば巨体の先に人影のようなものが見えよく見るとそれは件の少女だった。
想像だにしていなかったのだろう巨体が近づくことに彼女はそこに直立し固まっていた。
「ばか、逃げろっ」
剣を頭目掛けて投げると音によって正気を取り戻した彼女が突如として壁の中に消えた。同じようにそこに飛び込めば船員の寝床となって敷かれたままの布団の上で倒れていた。
「……怪我は」
「大丈夫。それよりどうしてエリックがここにいるの?」
「別になんでもない。それより今のうちに逃げろ」
「は? どうしてよ。協力するって言ったじゃない」
「ヴィンセントがいる。今は顔を合わせると厄介だ」
「……ヴィンセント?」
「家に来た軍人」
「ああ。そういうこと」
彼女がヴィンセントと鉢合わせるのはまずい。
「それよりさっきのはなに?」
「わからない」
後方からヴィンセントの声が追ってきていたため集まる場所だけ伝えると突き当たりを曲がっていったクロエと入れ違いにやってきたヴィンセントに駆け寄って声をかける
「エリック、大丈夫か?」
「ああ。お前は?」
「なんとか」
「で、あれはどこに行ったんだ」
「……悪い見失った」自分で言っといてあれをどう見失うんだとは思うが「一本道をどう見失うんだ。俺が行くんだった」と頭をもたげたヴィンセントには必要がない心配のようだった。
「悪かったな、どうせ方向音痴だ」
その後ヴィンセントの指揮のもと、部下をかき集めた捕獲作戦が行われ、幸運にも軍と乗組員先導のもと避難を終わらせた船内にはすでに乗客はいなかった為被害はなかったらしい。
「悪いがエリック。口外はしないでくれるか。下手に動いて上に悟られたくない」
「……それよりあれはなんなんだ?」
「俺にもわからない。あんなのは見たことがない」
「なにやってんだ」
そこで口を閉じた。
なにやってんだ、お前がわからないはずはないだろう。
エリックは続く言葉を飲み込んだ。
それを口にしたら認めてしまいそうで目を逸らした。
「お前がいてくれてよかった。こっちも調査を進めてみる」
「ああ」
ヴィンセントの指揮のもと長旅を終えて船は港へとやってきたんだ。
こいつが知らないはずはない。
そう気づいて、そこで考えるのをやめた。
∽
エリックに言われた通り船からは逃げたので、人波とは逆方向に足を向けると堤防が続いていた。惰性で足を運んで辺りを窺っていると先程出てきた荷物搬入口から出てきた長身の男が野次馬と船客に紛れようとしていたので見失わないように駆け寄った。
「今は何も話すな。行くぞ」
早口でそれだけ言い置いて行ってしまうので脚の長さから連なる歩幅のちがいによって置いて行かれないようクロエは急いで後を追う。
ちらりと見上げたエリックはぴりついた空気をはらんであたりを警戒しているように見える。
あの後なにがあったんだろう。
ヴェジーも黙ったままだし。
いくつか遠まわりをしてようやく彼の家にたどり着いてから口を開いた。
「エリック、あのね」
「様子を見てくるから待ってろ。お前は家から出るな」
またも制されたが彼の雰囲気から何かあったのだと思い口を噤んでいた。
取り残された部屋の中には壁一面に本棚がはめこまれていてなんとなくその中の一冊を手に取って開いて見るもなんと書いてあるのかクロエにはわからなかったので棚に戻して隣の部屋へと移動する。
住居になっているようで食卓やカウチが生活感を醸し出していた。
吸い寄せられるように突き当たりのカウチに寝転んだ。
あったかい。
時間帯がちがえばよく陽が当たるのかお日様のにおいを胸いっぱいに吸い込んだ。
最近、まともな場所で休めていなかったからだと理由付けて眠ってしまいそうなほどに心地の良いあたたかさに包まれていたところで近づいてきた足音に起き上がって姿勢を正す。
「で、話って?」
帰って来るなり事情も話さずそう言われて少し驚いたけれどこれが彼なのだろうと思い口を開く。
「私、見たの。船内の倉庫みたいなところで人間が食べ散らかされてた。たぶん、船でなにかを飼ってる。もしかしたらそれがさっきのやつかもしれない」
反応を窺うとエリックは絶句していたがとくにこちらをいさめることもないので続きを口にする。
「それにあれだけの遺体を集めるなんて一定の協力者がいると思う。たぶん、それ相応の役職の人だと思う」
彼は元政府関係者だと言っていた。
風貌からいっておそらく軍人。
クロエは彼がどう出るのか少し気になった。
「船は数日間停泊して海を渡れるだけの物資を携えたらまた出航する。恐らくその間に何かしら動きがあるだろう」
「どんな?」
「おおかた資源の補充、とかだろ」
「資源の補充って……」先程の光景が頭をよぎって考えを振り払った。
この街を出ようと思うんだけど。
エリックが準備する姿を横目で見送ってクロエはためいきをついた。ヴェジーは話すつもりはないらしくクロエはカウチに横になって瞼を閉じていた。とくに行く宛はない。彼が軍の関係者ならばこちらとしても旅を続ける上では好都合だ。いざとなればバーコードも売り捌けばいい。ヴェジーは反対するかもしれない。先程から黙っているのもそれが原因だと思う。
「どこに行くの?」
「一番近い夜行列車に乗る」
この時間だとどこに着くのだろう。ねえ、ヴェジーは知ってる?と尋ねようとしてやめた。どうせ答えてはもらえない。
「この時間だと北だったか」
中部都市で過ごしてきたクロエにとって北は未開の土地だった。ハルは生前色んな場所に連れて行ってくれたけれど北は行ったことがない。なにかの本だったか誰かの言葉だったか、大陸の地域によって温度の変化により街一面が白く埋まる現象が起こるらしい。心の内を悟られぬようにクロエは唇を引き締めた。
エリックの呼びかけにカウチから立ち上がりランタンの紐を手に巻きつける。
静まり返った夜の街は遠くの音まで反響しよく聞こえていた。
船の停泊している港の方角からだ。
わずかに波のぶつかる音もする。
路地を出て右に折れたところで声がかかり、クロエは踏み出した足を戻していた。先を歩くエリックが左を振り返る。
「ヴィンセント」
「エリック、すまないが来てくれるか? さっきの奴の捕獲に……」
そこでこちらに気づいたヴィンセントが視線を移す。
「今、依頼を受けていてな。それの引き渡しに行くところだ。悪いが」
断ろうとしたエリックの言葉を遮り「私、先に駅に行ってます」なにか言われる前に右に折れて向かいの街頭へと渡る。
頭の中の地図を広げていく後方で足跡が遠ざかったことに安堵してランタンが声をあげた。
「どうして着いていかなかった」
「ヴェジー聞いてた?」
「ああ」
「お前は助けるつもりか?」
「だって、皺寄せは誰に来ると思う? ヴェジーだってそれは嫌でしょ?」
「俺には動ける体がないからな。お前が運ばないと移動もできない。仕方ない。ついていくか」
∽
港では旅行者を乗せた車が往来し少しばかり騒がしさが耳についた。
政府が手をまわしたのか口止め料でも払ったのか高級取りのホテルからの車が何台も列を成していた。
ウィンディネス号と名付けられた旅行船は数日の航海を終えて港近くのドックへと運ばれていた。
水路を通り海水を堰き止めた鉄豪の中で旅行船は海と遮断されていた。
鉄豪内で船を浮かせた海水が底に設置された放水口から海へと放水されドック内の海水は徐々に減ることで海水に隠れていた通路や階段があらわれていく。
足場が船へと渡され隊員が中へと入って行くのが視界の隅に見えた。
ウィンディネス号は等間隔に並んだ盤木に支えられる形でその姿をあらわにしやがて海から陸へと上げられていた。
横でそれを眺めるこの場を統括する男に声をかける。
「あれはどうした」
ドックの職員に紛れて重装備の隊員があたりを包囲しているのがわかった。
ずいぶんと手際がいいことで。
「ひとまず船内に押し留めてはいるが」
対応に悩んでいるのか。
殺す以外にどういった使い道があるのだろう。
声には乗せずに端的に相槌を返して自身の気の緩みに悪態をついてどうしたものかと考える。
どうこの場をやり過ごすべきか退路を頭の中に広げていく。
クロエは無事に逃げられたのだろうか。
列車は街の中心地に陣取っている。大きく開いた改札口を通り抜けると人の波がうまく交差している中に飛び込んでいく彼女の姿を思い浮かべて息を吐き出した。
まあ彼女が無事ならばこちらはなんとかなるかと考えることを放棄して海水が抜けて悠然と佇む旅行船を眺めていた。
うまく出来た設備に慣れたように動く人の波で時折こちらに視線を寄越す者はいたが特段気にはならなかった。
すぐに逸らす視線は俺に向けられたものではないのだろう。
今年入った新人か。
自分がいた頃よりもずいぶんと面子が変わったように見える。
もともとヴィンセントとは隊がちがったからか。
「そういえば、お前と一緒にいた子は彼女か?」
は?
「いや、お前が任務以外で女といるのはありえないだろう」
そうだっただろうか。
「こんな夜中にひとりで行かせてよかったのか?」
「ああ。足手まといになるのは嫌だからな」
「……素直じゃないなぁ」
「なにが」
「彼女を危ない目に合わせたくなかったんだろ。わざわざ駅まで送ろうとしてたなんて」
あからさまな嘲笑も混じっていて横目で睨む。
「わかってるなら口にするな」腹を探られぬように話に乗る。
「おっ。認めたな。これだから兵隊一筋のバカは。ちゃんと口にしないと相手にはわかってもらえないからな」
「わかってもらえなくても俺はいい」
「お前は良くてもあの子が良くないだろ」
「俺とあいつはちがう。一緒にいるつもりはない。すべて終わったらそれ相応の場所に預ける。その方があの子にとってもいい」
「なに。あの子帰る家がないのか?だったうちんとこで預かるか。子供はひとりふたり増えたところで変わらないからな」
「いや、あいつは」
そこで続きが出てこなかった。
「……お前はいいのか」
こちらをうかがうような声が飛んできて尚更意味がわからなくなった。
「お前はそれでいいのか?」
「いいもなにもそれが普通だろ」
こんなことに付き合わせられない。
クロエはまだ若い。
こんな血生臭いことに巻き込むべきではない。
これから先いくらでも生きていける道はあるはずだ。
少なくとも俺とはちがう。
彼女を助けることがせめてもの罪滅ぼしのように思えた。
「お前、あとでどうなっても知らないからな」
じっとりとした視線を向けられるが、考え事をしていたからか、頭を出口にぶつけて悶絶した。
「なにやってんだ、大丈夫か」
ああくそ。自身に舌打ちをする。
「無駄にでかいんだから気をつけろ」
「うるせえ」
呆れたようなため息が降ってきたところで悲鳴があがった。
「追い込んだんじゃなかったのか」
「そのはずだが」
端的に言葉を投げて直線的最短距離で走り出していた。
「外に逃げられたら面倒だ」
「いや、あの動きじゃ逃げられることもないだろう」
「……だといいんだが」
「?」
感じた違和感を振り払いあらかた船内を見てまわり一度外に出てから最下層に行くと船の壁がくりぬかれ穴が開いていた場所の傍らには兵士が横たわっていた。
「くそなんで開いてるんだ」
「俺が知るかよ」
「あんなのが見つかったらどう説明するんだ」
そうこうしている内に遠くで悲鳴が聞こえた。
たぶん、クロエを返した方角から。
∽
「待ってくれ!」
いつからいたのか、割とそばから聞こえた声に緊張が走って振り返ると軍の制服を纏った青年が後ろから追いかけていた。
「やっと追いついた。エリックって人に頼まれたんだ。護衛をしてくれって。君、名前は?」
「クロエです」
「……ふぅん、クロエか」
エリックに頼まれたなら名前くらい聞いているのではないかと少しの不信感と心細さを感じてランタンに手を伸ばした。
「ふたりで旅してるの?」
港の近くの通りには街灯が等間隔にあるだけで人通りは少ない。
先程まで並んでいた車の行列も時折通るのみに落ち着いていた。
「……そう、ですけど」
身体を舐めまわすような視線にどことなく嫌悪感を抱いていた。
「……ふぅん。まあいいや。君、おいしそうだね」
「え」
脈絡のない声に顔を振り仰ぐと先程までいたはずの青年は口を開けていた。それこそクロエの身長ほどありそうなほど大きく開けていて体の構造的に見て理解不能なことにクロエは身体が動かなかった。
馬鹿野郎、逃げろ。とかなんとかヴェジーが悪態を吐いていたけれど、まるで世界の速度が遅くなったようにゆっくりゆっくりとその口はクロエに迫っていたそれが瞬きの後一瞬にして視界から消え髪が風に煽られる。
風の吹かれた視界の端ではエリックが男の上に馬乗りになっているのが見えた。
遅れたようにヴィンセントがやってきて、エリックを羽交い絞めにしている。
そこで正気に戻ったのかぎこちなく首を動かしたエリックと目があって彼の顔をみたら体の力が抜けて、泣きそうになって、あわてて涙を拭う。今になって体が震えてきたのがわかった。
「……クロエ」
「大丈夫なんでもない」
近づいてきたエリックに聞こえないように端的にヴェジーに答えた。
拳を握り、呼吸を整える。
「怪我は」
「大丈夫」
「そうか」
絞り出すような声で言われ、心臓がチクリとした。
悪いことをしたと思って謝ろうと口を開いたら言葉はエリックの言葉に呑まれ「だから帰れって言っただろ。なんで帰ってないんだよ」投げやりに八つ当たり気味に言われクロエは口をパクつかせた後「べつに助けてなんて言ってない」と返していた。エリックは呆れたように嘆息をついて「……あのなぁ、お前は良くても俺が」始まったお説教から背を向ける。
どうしてこんなに怒られているのかわからなかった。
ハルは怒ったりしなかった。
クロエにとってハルはすべてだった。
だからクロエにとってエリックをどうしたらいいのかわからなかった。
エリックには関係ないじゃない。
どうしてそんなことを言うの。
「危ない!」
ひどく焦った声に何が起こったのか振り返るとひどく緩やかな視界には壁から剥がれたレンガが重力に逆らわず落ちてくるところだった。ゆっくりゆっくりとレンガが落ちてくることを見ているだけ。恐らく危機的な状況なのだろうが、体が動かない。避ける、というまでに思考がまわらない。ああ、落ちてくるな。と感じるだけ。
痛みに備えて目を瞑ると体がふわり浮いて鼻腔には煙草とアルコールの匂いが広がっていく。
それから、それから次に瞼を開けると真っ暗な視界に心細さからさっきまで一緒だった人物の名前を呼ぶ。
反応はない。
「ねえ」
挟まった手を引き抜いて、クロエを庇ったんだろう彼の体を揺すってみるもレンガの落ちる音がするだけで返事はない。
「貴様よくも!」
どこからか声が聞こえ頭上を仰ぐと逆さまになった視界の先でヴィンセントが青年だったのだろうものに対して剣を突き刺しているところだった。
もしかしてあれってさっきの人?
軍服を着ていたあの巨体は突き刺さった剣ごとヴィンセントを振り払うと走って逃げていったのを確認して再度名前を呼ぶ。
「ねえ、エリック、ちょっと、ねえ」
そうするうちになにか生温かい物に触れた。ドロッとしていて生温かいそれからは錆びたような匂いがしていた。
血、だ。これ、血だ。
「エリック?」
反応はない。
「え、やだ、死んじゃっ……、エリックっ」
「あーうるさ、」
言葉は最後まで吐き出される事なく激しく咳き込み口元を覆っていた手の間からは生温かい物が頬に伝った。それを拭った手と口周りには拭いきれず残っているのがわかった。
そこではじめて彼に対して悪い事をしてしまったと思った。
無表情の中にある黒い双峰は揺れていて、額から流れる汗がひとつふたつ生温かいそれと一緒になって黒く落ちてくる。
見上げると目の前の彼は「ああ、服が汚れた、ごめん」と口にするだけ。
ちがう。
勝手に着いてきたのは私で、悪いのは全部私で、服なんて汚れたって全然よくて、それよりも、それよりも。
「お前怪我は」
高まっていた熱が一気に引いて、水となって目の裏から押し寄せるのを留めることでいつもはまわる口がもごついていた。喉から何かがせり上がってきて、口を開いたらすべてがこぼれ落ちてしまいそうだった。
どうしてこの人は自分以外の人のことを気にするんだろう。それよりも、それよりもエリックの方が明らかに酷い状態なのに……。
「おい、聞こえてるのか?」
おでこに張り付いた前髪を掻き分けて頬に触れる温もり。そこで何かが切れて我慢していたものが堰を切ったように溢れ出た。
「……何を泣いているんだ」
呆れたような少し困ったような含みを持たせた声。
「泣くなって。頼むから泣くな……」
淡々と話す彼はいなく、喉を狭めて捻り出すような吐息を交えた細い声が心臓を抉った。
「死なない、これくらい平気だから」
ぽつりぽつりと言葉を掬いあげる彼にまた涙が込み上げる。
「ごめんなさい、ごめんなさ……っ、い」
「大丈夫だって」
「ごめんなさ、」
嗚咽と涙でぐしゃぐしゃで、言葉らしい言葉が出てこない。
こぼれる涙を拭うエリック。
「クロエ、俺は大丈夫だから」
「だって、血が」
ぽたりと染みをつくっていく。
「平気、痛くない」
話を逸らすように、落ち着かせるように、エリックは言葉を続けた。
「それより、お前逃げろ」
嗚咽を堪えて頭を左右に振って拒否した。
「今の俺じゃお前を守れそうにない」
こんなところでエリックのそばを離れたくはなかった。また、死んでしまうかもしれない。
エリックの顔にはよく似た男の人の顔がダブってみえた。
「俺は平気だから、お前逃げろ」
「だって、エリックが死」「クロエ、こいつには心臓がないんだ。死ぬことはない」
突如として発せられた声はヴェジーのもので、エリックは案の定怪訝な表情をしていたが少し考えてからどうでもいいという風にそっぽを向いた。
「なに言ってんのヴェジー」
エリックは酷い怪我をしていた。
「傷口を見てみろ」
いい、見るな。というエリックの言葉をどけて傷口を覗き込むと繊維と繊維がくっつきまるで魔法で時間を巻き戻すように傷を修復していくところだったが、その中心部にあるはずのものがなかった。視線に気づいたエリックは、居心地が悪そうに上着の裾を手繰り寄せて隠した。
「エリックは、心臓がないの?」
∽
どうやら俺には心臓というものがないらしい。
憶えている限りはあったように思う。
心臓がないということは生物学上ありえない。
まあありえないのだがそれが気がつけば無くなっていた。
怪我をすれば血も流れることからもしかしたら目に見えないだけで体の中心には実はちゃんとあるのではないかというのが俺自身がたどり着いた仮説だった。
あらゆる生き物にとって心臓というものはないと生きていけないものだ。それはもちろん人間にも当てはまるが、クロエがヴェジーと呼んだランタンは俺に心臓がないことをさほど驚いていないらしい。彼女が大事に抱えているところからしてなにかあるかとは思ったが喋るランタンとは予想していなかった。
「ああ、そうだ」
悲鳴をあげられないだけましだったが、もうこの街にはいられないなと頭の中で次はどこに行こうかと算段を立てていたが、クロエは、ふぅん。と相槌を打っただけでそれ以降は何も言うわけでもなく傍に座っていた。
「俺人間じゃないんだけど」
自分で言っていておかしく思ったが、俺には心臓がない。つまり人間ではないわけで普通なら距離を取られてもおかしくない。
「でも、エリックはエリックでしょう。ランタンも話すくらいだから心臓がない人間だっているよ」
彼女が発した言葉がどこかおかしくて、笑うと傷に響いて咽せたもののその言葉は胸に深く落ちたような気がした。
「それに誰だって怪我をしたら同じように痛いと思う」
クロエはただ一点を見つめて頑なにそう言うので「そうか」と言うしかなかった。
「はあああ。まったくクロエお前ってやつは」ヴェジーはため息をついた。
「なによ、ヴェジーだって私の事助けたじゃない」クロエはむっとして言い返す。
「まあ、そりゃあお前は女の子だっただろう」
「なによ、じゃあ私がヴェジーの言う女の子じゃなかったら助けなかったって言うの?」
「起きてもないことをぐだぐだ言うな」
「自分だって助けるんじゃない」
それに対してヴェジーは黙るしかなかった。
俺とお前じゃちがうと思うんだけどな。
エリックは横目でふたり(ひとりと一台)を見て思いながらも、それも悪くないかなと思った。
遠くの方からは船が出港する重低音が鳴り響き、朝があける合図を街に知らせていた。
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