事故物件 その3

 『コーポ バンビ 204号室』は事故物件だ。1LDK、駅前、コンビニは徒歩2分。日当たりもよくこれだけ好条件が揃いながらも1ヶ月の家賃は4万と破格の値段だった。Aは幽霊など全く信じておらず、賃貸営業サービスの業者から事故物件に至った経緯には触れなかった。話がすんなりまとまったことに機嫌を良くした賃貸業者はさらに、3ヶ月以上住んでもらえたら家賃を3万5千円にするといった。Aはいたれりつくせりの好条件にすっかり浮かれてしまった。


 引っ越しが完了し、Aは部屋を宝の地図でも眺めるように隅々まで見渡した。内見で一度目を通していたが、改めていい部屋だ。キッチンは広く、備え付けのエアコンは最新モデル。インターネットも完備されている。隣に住む大学生の声が少し気になるが、このような部屋を格安で契約できたことにAは心が踊った。部屋の片付けも上機嫌のまま1日で終り、疲れ果てたAはそのまま二人がけのソファで眠り込んでしまった。

 翌朝目覚めると、Aは奇妙な倦怠感を感じた。昨日、無理して片付けをしたせいだろうか。新居ということもあり、寝付きが悪かったのかもしれない。Aは特に気にすることもなく、住所変更の手続のため、身支度を済ませると市役所に向けて家を出た。

 昼食を外で済ませたAは、予報外れの通り雨に打たれながら、駆け足で帰宅した。3月も終わりに差し掛かった時期ではあったが、まだまだ肌寒く、濡れた体は心まで冷え切っていた。Aは靴を脱ぐと同時に上着、シャツと脱ぎ捨て足早に風呂場へと駆け込んでいった。体の震えはシャワーを浴びているうちに治まり、水圧の強いシャワーヘッドにご満悦になった。Aはそのまま頭を洗い、シャンプーの泡をシャワーで流そうとした時、外で奇妙な音がした。


「ガチャ」


 それは玄関の扉が開いた音だ。慌てて帰ってきたため、鍵を締め忘れていたことにAは気づいた。誰かがこの部屋に来たのだろうか、外は雨のせいで薄暗いとはいえ、まだ昼間だ。空き巣ならもっと静かにドアを開けるはずだし、不審者の可能性は低いかもしれない。では一体誰が?

 Aはシャワーを止め、耳を澄ませた。風呂場にはAの呼吸の音とシャワーから溢れる水滴の音だけが静かに鳴り響いていた。Aはもし不審者が来ていた場合、なにか武器になるものはないか考えた。風呂場にはちょうどカミソリがあったため、武器としては心許ないが、気休め程度にそれを手にしようとした。その時だった。


「いるよ」


 Aは突然発せられた声に驚き、足を滑らせて転倒した。肘を強く打ち付けたが、その痛みより、先程手にしたカミソリが転んだ拍子に喉元わずか数ミリでこちらに刃を向けており、あわや大惨事の事態となっていた。Aは急いで体制を立て直し、カミソリを手にバスタオルを体に巻いて風呂場を飛び出し、玄関に目をやった。案の定、そこには誰もいなかった。Aは玄関の扉を開けて外を見回した。やはり人の気配はない。Aは靴のかかとを踏んだまま外に出て、周辺を見回していた。程なくして隣人の大学生が家から出てきた。


「どうかしました?」

「さっき、私の部屋から出ていった人を見ませんでしたか? もしくは不審な人は?」

「部屋から出た人は見てませんけど、不審な人は今、僕の目の前にいます」


 Aは風呂上がりでタオル一枚だったことを思い出し、赤面しながら家に帰った。





 さっきの声は何だったんだろう。若い女性の声だ。Aはこの部屋が事故物件になった経緯が気になっていた。事故物件になる理由。事故死、孤独死、自殺、殺人。Aは近隣住所で起きた事件を調べようと思い、スマートフォンで『○○市 ○○町 事故 事件』と検索した。交通事故、空き巣、不審者、喧嘩。大きな事件は見当たらない。ならば孤独死だろうか。次にAは『○○市 ○○町 事故物件 コーポ バンビ』と検索ワードを打ち込んだ。検索結果は先程と殆ど変わらない。有名な事故物件検索サイトを見てもこのアパートは登録されていないようだ。その後、いくつかの検索ワードで調べてみたが、有益な情報はなかった。いつの間にか外は夜に包まれており、部屋はスマートフォンの明かりだけが灯っていた。Aは狐につままれた気分になった。

 あの声はなにかの聞き間違いだったのだろうか。しかし、確かにはっきりと聞こえていた。明日にでも賃貸営業の人に尋ねてみよう。Aはそう決めると、そそくさと布団に潜り込んだ。


 ギシ ギシ


 聞き慣れない物音にAは目覚めた。時計を確認する。時刻は深夜1時。何かが軋む音だ。壁、床?


 ギシ ギシ

 

 何かが歩いている?


「ア・・」


 声が聞こえる。昼間の声とよく似ているが、苦しそうな声だ。


「ア・・ア・・」


 不気味なうめき声が部屋にこだまする。今際の際にこぼれるような、力無い、か細い声。


「ア・・・・」


 沈黙。事切れたかのようにぷつりと静まり返った。静寂が辺りを包む。


 ギシ ギシ


 再び、軋む音だ。


 ギシ ギシ ギシ ギシ


 音は次第にテンポが上がってきた。まるでAに少しずつ近づいてくるかのように。


 ギシ ギシ ギシ ギシ

 ギシ ギシ ギシ ギシ


 Aの心臓の鼓動はさらにペースを上げていた。今や五感は聴覚のみが機能しており、動くことも、目を開けることもできなかった。


 ギシ ギシ ギシ ギシ

 ギシ ギシ ギシ ギシ

 ギシ ギシ ギシ ギシ

 ギシ ギシ ギシ ギシ


「ア」 




 Aの緊張がピークに達した、その時


 



「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」













 バチン


「でっかい声出すんじゃないわよ!」


 ルミ子は大声で叫ぶユウイチに平手打ちをした。


「痛い!? 何するんですかルミ子さん! 定番じゃないですか、こう、大きい声出すのって」

「あたしは怪談話が聞きたいわけじゃないのよ。その物件に関する情報を教えなさい」

「せっかく頑張って考えてきたのに」


 ユウイチはあてが外れたことに肩を落とした。ルミ子のビンタは強烈で、左頬には真っ赤な手形ができていた。


「それでは改めまして、事故物件『コーポ バンビ204号室』の情報を共有させていただきます。心霊現象の内容としては、先程話した通り、不気味な女性の声、そして部屋が軋む音がするそうです。この物件について私も検索してみましたが、確かに事件、事故があった形跡はありませんでした」

「それで、物件案内のとこにそのAは話を聞きに行かなかったの?」

「行ったそうですよ。そして、この物件が事故物件になった経緯も分かったそうです」

「ほうほう、なにかしら」


「その部屋の前の住人が行方不明になったみたいです」








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