第3話

 リアムが寒さで目を覚ますと、床に倒れたように眠るノアが目に入った。

 綺麗なコートを毛布代わりにして大きな体を縮こまらせて眠るノアの瞼は、心なしか少し腫れているように見えた。

 あまりの寒さに、暖炉の方を見ると、案の定暖炉に火がともっていない。リアムはノアが昨夜掛けてくれたであろう毛布をノアに掛けると、ガタガタと体を震わせながら暖炉へと向かい、大量に出た灰を丁寧にかき、新たな火を灯した。よく乾燥した薪がパチパチと燃え、しばらくぼーっとその炎を眺めていると窓の外からドンドンと何かが窓にぶつかるような音が聞こえた。

「…………?」

 戸惑いながらも、リアムはドアを開け、震えながら家の周りを一通り確認したが窓にぶつかったと思われるような物は何もなく、ただ雪だけが積もっていた。

「屋根の雪を兄さんに降ろしてもらわないと…。」

 リアムはいそいそと家へ戻り、もう一度暖炉で暖を取ったあと、ノアに声を掛けた。

「兄さん、床じゃ体を壊すよ?ソファーを使ってよ。」

「んん…。」

 リアムの声に、ノアはすぐに反応し薄く目を開く。

「兄さんごめんよ、僕がソファーで寝てしまったから…。今から朝食の準備をするからその間、ソファーで休んでいてよ。」

 美しいブルーの瞳が朝日に照らされ、まるで陽の光に照らされて輝く海のようだとリアムは思った。

「リアム…。」

「ん?兄さんなぁに?」

 床に仰向けになっているノアの頭のすぐそばにリアムは跪き、上からノアの顔を覗き込む形になった。

 ノアはリアムのしもやけた赤い頬を手で撫でると、じっとリアムの瞳を見つめた。

「兄さん…?」

 小首を傾げながら不思議そうに大きな目でノアを見つめ返すリアムの瞼を優しく撫でると、ノアはフッと微笑み、ゆっくりと起き上がった。

「それにしても今朝は冷えるなぁ、温かいスープでも作ろう。」

 ノアはそう言うと、立ち上がった。

「え……でも兄さん、今日は孤児院に行かなくても良いの?」

 心配そうに見上げるリアムに、ノアは笑顔を向ける。

「大丈夫、ちゃんと皆の顔は見に行くさ。だけど、その前に家族と朝食を食べるくらい、良いだろ?」

「うん!」

 ノアの返答にリアムは嬉しさのあまり飛び上がった。というのもここ最近、ノアは忙しいらしく早朝から出掛けていくことが多かった為、なかなか一緒に朝食を摂る機会がなかったのだ。

「今日は馬車のお迎えは来るの?」

 リアムが散らかったダイニングテーブルを片付けながら料理の準備をテキパキとするノアに声を掛けると、二階からギシギシと階段を軋ませながら降りてきたライアンが「ああ、今日は昼に来るからリアム、お前二階の部屋掃除しとけよ。」と返してきた。

「あ…、ライアン兄さんおはよう…。」

「ライアン、上の部屋を使ってるのはほとんどお前だろ、掃除くらい自分でやれ。」

 ドカッとソファーに座るライアンに、ノアが声を上げるが、ライアンは全く聞く様子もない。

「いいよ、兄さん…。部屋の掃除は僕がやるから、出来れば屋根の雪を降ろさないと…。」

 リアムの言葉にノアはハッとし、ライアンに鋭い視線を向ける。

「……なんだよ。」

「朝食が食べたければ今の内に雪搔きを済ませておくんだな。」

 そう言って微笑むノアの目は微塵も笑っていなかった。

(……コイツ、昨日のこと根に持ってやがる。)

「ちっ…。」

 ノアの笑顔に押し切られ、ライアンは舌打ちをした後、コートを羽織るとすぐに外へと出ていった。

 めんどくさがりなライアンがいつになく素直に外へと出ていったことに、リアムは一瞬ポカンとしてしまったが、すぐに片付けを再開した。ダイニングテーブルに散らかっているのはどれも、昨日自分が街で買ってきた物だった。

(あ…パンがない…。)

 昨日のお遣いの内容は全て覚えている。ライアンに頼まれた物は全て目の前に転がっているのに、昨日パン屋の男に貰ったパンの紙袋だけが見当たらない。

「兄さん、パンが…。」

 リアムはグツグツとスープを煮込んでいるノアを振り返ると、ノアは鍋を見つめながら「パンなら戸棚に入ってるよ。」と答える。その様子に、いつもと変わった様子はない。リアムはノアの言葉通り、戸棚を開けると、そこには確かにいつも食べている固い食パンが一斤入っていた。

(……これじゃない…。)

「…………。」

 リアムが食パンを両手で持ち、見つめていると後ろからノアの腕がヌッと伸びてきた。

「リアム、どうした?パン切り分けるよ?」

 ノアの言葉にリアムは黙って頷き、食パンを手渡した。

「ところで、昨日はリアムが眠ってしまったから聞けなかったけど、そのセーターどうしたの?」

 慣れた手つきでパンを丁寧に切り分け、スープの味を見ながらノアはチラリとリアムに視線を向けた。

「あ…、えっと…昨日、パン屋さんに貰って…もう着れないからって…パンと一緒に…。」

「パンと一緒に?」

 ノアは少し驚いたように綺麗なブルーの瞳を見開いた。

「うん…、売れ残りで捨ててしまうだけのものだからって…僕、兄さん達と一緒に食べようと思ってたのに…もしかしたら馬車に置いてきてしまったのかもしれない…。」

 リアムはしょんぼりと項垂れ、オーバーサイズのセーターの裾をギュッと握りしめた。リアムの落ち込む姿に、ノアも切なくなり、たまらずリアムの顔を両手で包んだ。

「リアムは本当に優しい子だな、あんなにたくさん買い物をしてお腹も空いていただろうに、一人で食べてしまっても良かったんだよ?」

「ちが…、兄さん達と…食べたかったの…。」

 セーターの裾を握りしめながら大きな黒い瞳からボロボロと大粒の涙を流すリアムに、ノアはリアムの涙を拭いながら微笑む。

「分かった、じゃあ明日は兄さん達と一緒に買い物に行こう。」

「で、でも…兄さん達はお仕事が…。」

 ぐすんと鼻水をすすりながらも、リアムの表情は明るくなった。

「大丈夫だから。その親切なパン屋さんは覚えてるかい?兄さんからも、そのパン屋さんにお礼が言いたいんだ。」

「うん!覚えてるよ!あのね、あのね兄さん!」

「うん、なんだい?」

 ニコニコと弾けるような笑顔でぴょんぴょんと跳ね回るリアムに釣られてノアも顔をほころばせる。

「僕ね、将来あのパン屋さんみたいなパン屋さんになりたいんだ‼美味しいパンを、みぃ~んなに食べて貰いたい!お金なんて貰わなくても美味しいパンを皆に食べさせてあげたいんだ‼」

 リアムの言葉に、ノアの顔から一瞬にして表情が消えた。

 考えてもみなかった、

 この子にそんな夢があったなんて。

 それも、とても綺麗な。

 ノアはその時、今の自分がどれだけ汚れているのかを思い知らされているようだった。

「兄さん…?」

 大きな瞳をパチクリさせながらノアの顔を覗き込むリアムに、ノアはハッと我に返った。

「あ、ごめん。リアムはやっぱり優しい子だね、自分の為だけじゃなくて他の人にも何かを施してあげたいと思うなんて…兄さんとは大違いだ…。」

 ノアは後半、ボソッと小声でつぶやくと、ふと立ち上がり、「さて、朝食にしよう!」とパッと笑顔を見せた。

「うん!僕、ライアン兄さんを呼んでくるよ!

 そう言ってパタパタと外へと飛び出していくリアムの小さな背中を、ノアは今にも泣きそうな瞳で見つめていた。


「ああ、アレな。俺が昨日食った。」

 硬いパンをいーっと噛み千切りながらライアンはあっけらかんとした態度で言った。

「やっぱりお前か…ライアン、あのパンはリアムが俺達と分け合って食べようと、自分で食べるのを我慢して持って帰ってきたものだったんだぞ?」

 呆れた様に溜息をつくノアに、ライアンはキョトンとした顔で「あぁ?じゃあ、いいじゃねーか。どっち道、目的は達成しただろ。」と首を傾げる。

「お前…そうじゃないだろ…。リアムは、こうして俺達三人であのパンを…はぁ…。リアム、ごめんな…。」

 三人で食卓についたところで、ノアは昨日のリアムの言うパンの行方をライアンに尋ね、犯人が発覚した。ノアは申し訳なさそうに左隣に座るリアムに視線を落とすと、当のリアムは予想外にも微笑んでいた。

「ううん、良いんだ。ライアン兄さん、あのパンはどうだった?」

 キラキラと大きな瞳を輝かせるリアムに、ライアンは少し気圧されつつも「あ?美味かった…けど?」とぶっきらぼうに返す。

「どんなパンだった?僕、見たら食べたくなってしまうと思ったから、中身を見てないんだ。どんなパンが一番、どんな風に美味しかった?」

「はぁー?そんなん覚えてねぇよ…。」

 次々と質問を飛ばしてくるリアムにライアンはめんどくさそうに赤毛の髪を掻いた。

「ライアン、お前しか食べてないんだ、責任を持ってリアムの質問に答えなさい。」

 向かいに座るノアに視線を送り、助けを求めたが、案の定ノアは目も合わせず冷たい声音だけが返ってきた。

「はぁ…、リアムすまん。兄さんは昨日、すげー腹が減ってたから味とかよく考えないで食っちまったんだ。だけど、すげー美味かったのは本当だから。」

 ライアンは後頭部をガシガシと搔きながら、リアムの大きな瞳から逃れる様にガタッと椅子を鳴らし、そそくさと二階へと姿を消してしまった。

「あいつ…結局いつも適当な…。」

 ノアが逃げたライアンを連れ戻そうと椅子から立ち上がろうとした時、リアムの小さな手がノアのシャツを引っ張った。

「良いんだ、兄さん。ライアン兄さんに美味しかったって言って貰えただけで僕は嬉しいんだ。」

「リアム…。」

「ねぇ、兄さん。今僕は、僕が偶然だけど貰ってきたパンをライアン兄さんに食べて貰えて、‟美味しい”って言って貰えてこんなに嬉しいのに、食べてもらったパンが…もし、僕が自分で作ったパンだったら、きっと今よりもっと嬉しいよね!」

 まるで花が咲いた様に明るく、優しく微笑むリアムを見た瞬間、ノアの心にざっくりと大きな刃物が突き刺さった。

「僕、今は何の役にも立てないけど、将来はきっとパン屋さんになって、兄さん達にいっぱい美味しいパンを毎日食べさせてあげるんだ!」

 無邪気に微笑むリアムを見つめ、ノアが少し戸惑った様な顔で「ありがとう。でも、とっても辛い修行が必要だと思うよ?大丈夫?」とリアムの口元に付いたパンのカスをふき取りながら言った。

「大丈夫だよ!僕、なんでもできるよ!だって、兄さん達の為だもん!」

‟兄さん達の為”

 その言葉が今のノアにとってはどんなナイフよりも鋭く、深く心に突き刺さる凶器そのものだった。リアムの無垢で無邪気な夢がノアにはたまらなく眩しく、心の中で顔を背けた。

 ノアのこれまでの人生は、何をするにも‟自分の為”だった。

他人の利益など踏みにじらなくては生き残れなかったし、この世に本当の意味で‟誰かの為”を願う人間など存在しないと思っていた。

柔らかい笑顔は他人を信用させる為のもの、今の自分を作り出しているもの全てがこの世界を生き残る為に身に着けた術であり、一度も‟誰かの為に”微笑んだことなどなかった。

 ペテン師――

 突然、後ろからエリスの声が聞こえた気がした。

 ふっと振り返っても、当然だがエリスの姿はない。

「兄さん、どうしたの?」

「なんでもないよ、じゃあ、リアムがパン屋さんになったら兄さん達は一生、ただで美味しいパンが食べられるのかな?」

 動揺を誤魔化すようにいつもの笑顔で顔を覆い、リアムの頭を撫でる。

「うんっ!兄さん嬉しい?」

「そりゃあ、嬉しいよ。ライアンは怠け者だから、そんな美味しいパンを毎日食べていたらあっという間に丸々と太ってしまうかもしれないな。」

 ノアが冗談交じりに言い、微笑むとリアムも楽しそうに微笑んだ。

リアムの無邪気な笑顔を見るたびに、ノアの心はギシギシと悲鳴を上げていた。

「そしたらいつか、二階からライアン兄さんが落っこちて来るかもしれないね。」

「それは大変だ。」

 はははと声を上げて二人で笑い合っていると、誰かがドアをノックする音が聞こえた。

「?お迎えはお昼だって…。」

 リアムの名残惜しそうに見上げる視線に、ノアは優しく微笑みポンポンと頭を撫で、立ち上がった。

「はい、今行きます。」

 ノアがドアを開けると、そこには‟いつもの執事”が無表情で立っていた。

「あなたは…どうしてここに?」

 予想外の来訪者にノアは眉を寄せる。

「早朝から申し訳ありません、本日は旦那様からの贈り物をお届けに上がりました。家の中に運び込んでもよろしいですか?」

 淡々と表情を全く変えず話すこの男は、エリスが全幅の信頼を寄せる執事、アーロンだ。

(いつ話しても不愛想な人だ…。)

「はい、ありがとうございます…。」

 ノアの返事を聞くなり、アーロンは機械のように踵を返すと、後ろに控えていた数人の使用人達に「始めろ。」と短く支持を出した。

 指示を受けた使用人たちはテキパキとまるで予め打ち合わせていたかのように運んで来た馬車から次々と荷物を降ろし、バタバタと慌ただしく家の中へと運び始めた。

「兄さん、この人たちは…。」

 突然次々と家に知らない大人が押し入ってきたことに戸惑いを隠せないリアムが、ノアの足にそっと縋りつくようにして見上げてきた。

「大丈夫、昨日の旦那様がリアムにプレゼントだって。この人達はそれを届けにきてくれたんだよ。」

「プレゼント?僕に?」

 不安そうな顔から一気に明るい表情へと変わるリアム。

「もちろんでございます、坊ちゃん。旦那様は坊ちゃんのことをとても心配しておられました。」

 ノアの足に引っ付くリアムの視線に唐突に現れたのは、うやうやしく跪くアーロンだった。

「心配…?」

「はい。服はおろか、食料もまともに与えられていないのではないかと。旦那様は子供がお好きな方で、このような状態のリアム坊ちゃんを放っておけないとのことでした。一刻も速く、とのことでしたので、突然お邪魔してしまい申し訳ございません。」

「あ…えっと…。大丈夫、です?」

 戸惑いながらもリアムは言葉を返す。

「もう時期またお迎えに上がりますので、それまではご辛抱ください、坊ちゃん。」

 そう言ってアーロンは固い表情筋を無理矢理動かし、不慣れな笑顔を作るとすくっと立ち上がった。

「子供がお好きとは、よく恥ずかしげもなく言えたものですね。」

 ノアがアーロンにニッコリと微笑み掛けると、アーロンの表情は一瞬で無表情に戻り、ノアの耳元に唇を近づけた。

「気が変わりましたら、いつでもご連絡ください。旦那様は本来‟あなたを”お迎えしたいそうなので。」

 アーロンは言い終わるとスッとノアから離れ、「まぁ、私は歓迎いたしませんが。」とボソッと言うと、荷物を早々に運び終え、控えている使用人達に向き直ると手を鳴らした。

「それでは失礼させて頂きます。旦那様のご厚意を、どうか無下になさいませんように…。」

 アーロンとその他使用人たちはそう言ってノアとリアムに深々とお辞儀をすると、早々と立ち去っていった。



 家に運び込まれた荷物を開けてみると、中には綺麗な子供服や靴が詰められていた。

「これ…、全部僕の…?」

 リアムは荷物の中身を呆然と見つめながら目を丸くさせていた。

「そうだよ。リアムの為に旦那様が用意してくださったんだ。」

 ノアがリアムの横顔に微笑むが、リアムは特別喜んでいる様子でもなかった。

「…リアム?」

「どうして…、僕に?」

「…………。」

 リアムの短い問いに、ノアはあらゆる意味が含まれている様に感じた。それも当然の筈だ、この階級社会のせいで、この子はずっと大人達から虐げられてきたのだから。特に身分の高い大人程、自分の様な子供を不快に思うことは既に知っているはずだ。そんなリアムからしたらあの男は異質過ぎる。まだ幼いリアムには、あの男がリアムをどんな目で見ているのかなど、到底理解できるはずもなく、見当も付かないだろう。

 リアムはおそらくまだ誰も袖を通していない綺麗な服をしばらく眺め、「ん~。」と唸りながら何か考え込んでいる。

 送られてきた服は20着、そしてそれに合わせた靴が20足と、いくつかの帽子に、少女趣味なデザインのネグリジェが3着。ノアはリアムの横で一通りそれぞれの服を確認し、置き場所を考えていた。

(二階にはライアンが居座っているし、地下には…出入りさせられない…。)

 どうしたものかとノアまで「ん~。」と腕を組み考えていると、リアムが唐突に声をあげた。

「そうだ、兄さん!この服、全部孤児院の子達にプレゼントしようよ!」

「えっ?」

「だって、僕こんなに服いらないもの。兄さん達のおさがりがあるし、昨日貰ったこのセーターだってあるから。ねっ?」

 リアムは大きな目でノアを見つめながら微笑んだ。

 この子はたして無欲なのか、それとも無頓着なのか、ノアには分からなかった。

「リアム、でも兄さん達のおさがりも、もう古くなってきているだろ?せっかくなんだから貰っておかないかい?」

「…でも、僕一人が沢山の服を貰うより、この沢山の服を一着ずつでも良いから他の子達に分けてあげられれば、この服の数だけの子達を喜ばせてあげられるんじゃないかな?」

「へぇー、いいじゃねーか。お前がそれで良いって言うんなら俺達はそれで構わねーよ?」

 リアムの言葉に応えたのは、ノアではなく、二階から再び降りてきたライアンだった。

「ライアンっ!」

「だってそうだろ?これは使える。孤児院に俺達をもっと信用させる良いチャンスじゃねーか、その方が俺らの仕事ももっとやりやすくなる。」

「……リアムの前でいうことじゃないだろ、ライアン…。お前は一体昨日からなんのつもりなんだ?」

 リアムを挟んで険悪な雰囲気の二人の兄達の間を、リアムはオロオロと行ったり来たりした。幼く、あまりにも世間知らずなリアムには、兄達の会話の意味など分からず、ただ自分のせいで兄達が対立しているように見えた。

 ノアに関しては今日はライアンに対して語彙が強い気がした。普段穏やかなノアの様子がなんとなくおかしいことにリアムはそこで気が付いた。

(兄さん、やっぱり疲れているのかな…。)

「はっ、なんのつもりもなにも、俺達の為だろ?そう言いう兄貴こそ、昨日から可笑しいぜ?変に絆されて馬鹿じゃねーの?」

「…………。」

 ライアンの返答にノアは眉を歪めて俯く。

 ライアンには分かっていた。

 ノアの心をここまで揺らがしている原因が。

 元々、ノアは他者に対しての同情心が強く、それでいて優柔不断な性格だった。しかし、両親に捨てられてから幼い兄弟二人きりで生きていくにはこの世界はあまりにも無慈悲で、残酷なものだった。同じような境遇の子供は腐るほどいた、しかし誰も何も見ようとしない。昨日、隣で寝ていた筈の子供が朝には息をしていないことなど珍しくなかった。

 死んだ子供の名前を泣きながら呼ぶノアを見て、ライアンは幼いながら決意したのだ。


 俺が兄を守らなくては――


 どんな手を使っても。

 搾取されたくなければ、搾取する側にならねばならないと思った。

 世界は変わらない、誰が何をしても。


 短い沈黙の後、ライアンは鋭い視線でリアムを見ると、「一着くらいは自分用にとって、それ以外は戻しておけ。」と吐き捨ててコートを羽織ると外へと出ていってしまった。

(また、ライアン兄さんを怒らせちゃったな…。)

 リアムはしゅんと項垂れながら、服の中から一番地味な色の物を選び、その他の服を木箱に戻していく。

しかし元通りに入れている筈なのに、どうやっても収まらない。

(確かこんな感じに入ってたのに…。)

自分の手際と要領の悪さに悔しくて涙がジワリと滲んでくる。

何も出来ないのに、兄達に我儘を言ってしまったばかりに、二人を衝突させてしまったのだと改めて自覚してしまった瞬間、悔しさと悲しみが抑えきれず、大粒の涙が零れた。綺麗な服を汚さないよう、セーターの袖で顔を覆い蹲る。

突然蹲ったリアムに驚き、ノアはすぐにリアムに駆け寄って声を掛けた。

「リアム、どうした?お腹が痛いのかい?」

ノアは蹲るリアムを抱き上げ、顔を覗き込む。

綺麗なブルーの瞳が心配そうに揺れている。

ノアが自分を心配してくれることが嬉しくて、リアムの目に再び涙がこみ上げてくる。

「ちがっ……ぼく、ごめんなさい…。」

グズグズと鼻をすすりながら涙を必死に拭うリアムを抱きしめ、ノアはリアムの後頭部からうなじをゆっくりと撫でた。

「大丈夫、リアムのせいじゃないよ。全部兄さんのせいなんだ…ごめんね…。」

リアムはノアの温かい首筋に顔を埋め、ノアの喉の内側に響いている優しい声を聞いていた。

ノアが何に対して謝っているのかリアムには分からなかったが、その時はただノアの温もりに包まれ、安堵していていた。


なにも要らなかった。

綺麗な服も、靴も、立派な屋敷も、美味しい食事も身分さえ。

全てを失っても、今こうして‟家族”という形で生きていることがリアムにとって最大の幸福だった。

ずっと、こうして兄達と生きていければいい。その為に自分も役に立ちたいと思っている。贅沢が出来なくてもいい、食べるものに困ることなく、穏やかに暮らせていけば。


ずっと、それだけで良かった。
















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