第2話

「そうしていると本当に兄弟みたいだな。」

 ノアの膝に頭を乗せてぐっすり眠っているリアムとノアの顔を見比べながら初老の男が言った。最初はノアの腕にもたれかかっているだけだったが、次第に体から力が抜けていき、体制がグラグラと安定しなくなってしまった為、今の状態にノアが整えたのだ。

「…………。」

 男の言葉に、ノアは返事をする気がないのか、リアムの頭をゆっくりと撫でながら馬車の窓から外の暗闇を眺めている。

「君のあんな顔は初めて見たよ、夜会では何があっても一切表情を崩さない君が、まさかあんな露骨な顔をするなんてな。君に夢中なご令嬢達にも見せてやりたいくらいだ。」

 男のわざと煽るような発言にノアはニッコリと微笑みで返す。

「僕も驚きました、まさかエリス男爵が普段は絶対に参加することのない‟普通”の夜会に参加されているとは思いませんでしたので。」

 エリスと呼ばれた男はノアの微笑みに目を細めた。

「私のお気に入りのおもちゃが最近壊れてしまってね。退屈していたんだが、最近夜会になかなかの美男子が現れたと聞いてね、興味本位で参加したまでだ。」

「そうでしたか、あの夜会にそんな方がいたとは知りませんでした。それで、その方は?」

「ああ、噂通りの美男子だったさ。だがしかし、相手は私に全く興味が無いらしくてね、非常に残念だ。」

 エリスはそう言いながら、まいったとばかりにひらりと片手を上げたが、その口元は微笑みをたたえている。

「それは驚きました、エリス男爵に興味の無い方がいらっしゃるとは。」

 ノアは終始変わらずの笑顔でエリスの話に相槌を打つ。

「私の様な老いぼれを相手にしたがる者の方が珍しいものだ、まぁしかし…彼は私だけでなく、特に他の者にも興味が無い様に見えたが、その理由もなんとなく分かった気がする。」

「では、男爵はもうあの夜会にはいらっしゃらないのですか?」

「ああ、もうあの夜会に行く意味もない。それに私はこの短い間に気が変わった。」

 エリスの言葉にノアは黙ってエリスを見返す。

 エリスはノアのブルーの瞳を見つめながら微笑み、「私はおもちゃを一度も育てたことが無いことに気付いてね。今度はそれをやってみようと思うんだが、君はどう思う?」とチラリとノアの膝で眠るリアムに視線を落とした。その顔は穏やかにも見えるが、同時に不適なものにも見える。

「それは…。」

 ノアが言葉を返そうとした時、ウィリアムの声と共に馬車が止まった。

「到着したようだ。」

「…………。」

 数秒の沈黙の後、「失礼します。」とウィリアムが馬車のドアをノックし、ゆっくりと開かれた。

「ノア様、到着いたしました。」

「ありがとうございます。」

 白い息を吐き、顔を赤くしもやけさせたウィリアムにノアは笑顔を返すと、膝で眠り続けるリアムを優しく撫で、声を掛けた。

「リアム、家に着いたよ。旦那様にご挨拶してから失礼するよ?」

「うぅ~ん…。」

 開かれた馬車のドアから入ってくる冷気にリアムは顔をしかめるが、起き上がる様子はない。

「こんなにぐっすり眠っている子を起こすのは可哀想だ、挨拶などいいから家に運んであげなさい。」

「そんな、旦那様っ!」

 エリスの言葉に馬車の外で待機していたウィリアムが目を見開いた。

「私が良いと言っているんだ、行きなさい。」

 ウィリアムの声を遮るようにエリスは言い、ノアを見た。

「…では失礼します。」

 ノアは声音こそいつもの穏やかなものだったが、その表情が声音同様柔らか

 だったのは一瞬で、いつも温かなブルーの瞳は見る者を凍り付かせてしまう程に冷たく、冷酷なものだった。

 ノアが荷物を手に持ち、リアムを片腕で抱えて馬車の外へ出ると、明かりを持ったウィリアムが足元を照らしながら「お荷物をお持ちします。」とうやうやしく手を伸ばしてきた。

「ありがとうございます、家にはおそらく弟がいますので玄関までお願いできますか?」

「もちろんです。」

 穏やかに微笑むノアに、ウィリアムも釣られて微笑む。

 ウィリアムに荷物を引き渡し、家に向かって歩き出した時、馬車の中から声を掛けられた。

「こちらの準備が出来次第、こちらに迎えに来る。それまでは、くれぐれもぞんざいに扱ってくれるなよ?」

 ノアが振り返るとチラリと顔をわずかに覗かせたエリスがいやらしい笑みを浮かべていた。

「…………。」

 ノアはそんなエリスを無言で一瞥し、踵を返すとスタスタと家へと歩を進める。その背にクスクスとエリスの嘲るような笑い声が聞こえるが、ノアは歯を嚙みしめ、平然と歩いている風を装った。

 先に玄関前へとたどり着いていたウィリアムがドアをノックし、声を掛けると中から赤毛の髪の若い男が出てきて、ウィリアムと一言二言話すと、荷物を丁寧に受け取り会釈をしているのが見えた。

「兄さんお帰り。」

 ウィリアムの後ろにノアの姿に気付いた男は短く言うと、その後方に止まっている馬車を見て一瞬、眉を動かした。

「ただいま、ライアン。ウィリアムさん、ありがとうございました。本当に助かりました、お帰りもお気を付けて。」

 ノアはウィリアムに向き直ると、リアムを抱えたまま深々とお辞儀をした。

「いえ、とんでもない。こちらもノア様のおかげで久しぶりに旦那様の楽しそうなご様子が見れて安心できました、また機会があればよろしくお願いします。」ウィリアムはそう言って頭を下げると、「では、失礼いたします。」と言って主の待つ馬車へと戻って行った。

「おい、ノア…お前とちったな?」

 表面上は笑顔を保ちながら、雪の中家の前で二人、エリスの乗る馬車が走り去るのを見送りながらライアンが低い声を出した。

「とちったのはお前だろう、あんな大荷物になるほどリアムに街で買い物させるなんて一体何事だ?」

「はぁー?それはコイツが俺の役に立ちたいって言ってきたからだろー?自分が上手く立ち回れなかったのを棚に上げて俺のせいにすんなよ。」

ライアンは馬車が森の中へと消えていくのを見ると、家の中へとさっさと入っていく。それを追いかける様にしてノアも家へと入る。家の中では大きな暖炉がパチパチと燃えていて、外よりは幾分温かく感じた。ライアンはダイニングテーブルに荷物を置き、中身を一つずつ取り出しながら「で、あの変態伯爵様に今度は何を要求されたんだよ?」と薄ら笑いを浮かべた。

「旦那様のおもちゃが壊れたらしい。」

ノアはつぎはぎだらけのソファーにリアムを降ろし、背もたれにかかっていた毛布をゆっくりとかけた。

「へぇー、結構もったじゃん。それで?次はどんなが良いって?」

「…………。」

ライアンの明るく響く声にノアは顔をしかめ、リアムを見つめて黙ってしまった。

「なんだよ?あれか、またお気に入りの子を攫って来て欲しいとかいうやつか?そんなん、今更だろ?」

沈黙するノアの肩をポンポンと叩き、ライアンはノアの顔を覗き込むが、ノアの表情は硬いままだ。

「おいおい、なんだよ?鬱陶しい顔しやがって、偽善者が。やらないとは言わせないからな?あの伯爵様はここらでも一番気前の良いクライアントなんだ、それくらいお前も分かってるだろ?」

「…………なんだ。」

「あぁ?」

鬱陶しそうに眉を寄せるライアンを振り返り、ノアは無表情に言った。

「旦那様は、リアムをご所望なんだ。」

「……はぁ?このきたねぇガキを?あいつ、頭がおかしいとは思っていたが、実は腐ってやがったか。」

心底愉快そうなライアンにノアは再び俯く。

ノアは後悔していた。

夜会に足を運ぶのは情報収集とクライアントの確保の為、仕方ないことだったが、今夜の夜会に遅れながらもやって来たあのエリス男爵の姿を見つけた瞬間にノアは引き上げるべきだったのだ。

男爵の‟おもちゃが壊れた”というのは別の筋からすでに聞いていた、あの執着心の強いエリスのことだ、必ず再びノア自身に接触を図ろうとしてくるのは目に見えていた。しかし、エリスの動きは周囲の予想を大きく裏切り、おもちゃが壊れたと噂が広がってから半年程、全く動きがなかった。いつもなら次から次へと変えを用意させるくらいだった彼の行動から、周囲は傷心のあまりそんな気力もないのだろうと囁いた。

しかし、エリスは姿を現した。

数年ぶりに見るエリスの姿は、良くも悪くも大きく変わっていなかった。上品な笑顔の下に隠した醜い欲に塗れた黒い顔が、ノアには透けて見えるようだった。

エリスと出会ったのはノアが18歳の時だ。

出会った当時からエリスは、ノアの美しい容姿に惹かれ、あの手この手で無理難題を押し付けて来ては失敗した代償にノアを自分の物にしたがっていた。

12歳以下の少年にしか愛欲しないエリスだが、ノアにはそれほどまでに執着していた。白々しく「はじめまして。」と挨拶を交わしたノアは、エリスに挨拶をしたっきり、それからは令嬢に囲まれて時をやり過ごしたが、とうとう帰り際に捕まってしまった。

そして極めつけはリアムとの遭遇。

あのまま知らぬふりをして放っておくことも出来たが、ノアの良心がそれを許さなかった。リアムの抱える、7歳の子供が抱えるには大きすぎる荷物を一目見て分かった。買い出しを頼んだライアンはそもそもリアムを帰って来させない為に、あんな量を言いつけたのだと。

普段からせっかちなライアンが時間が掛かると分かっていてリアムにあんな量を言いつけるはずがない。

「…………。」

ケラケラと笑い声をあげるライアンをじっと見つめるノアの視線に気付き、ライアンは溜息を付いた。

「はぁ…、仕方ねえだろ?これも仕事だ、お前もいい加減切り替えろよ。考えてもみろよ、こんなおままごと、もうしなくて良いんだぜ?役にも立たないガキを手放して、いつも通り大金が手に入るんだ。どっちを選ぶかなんて決まってんだろ?」

「…………。」

「なぁ、兄貴。アイツも言ってただろ?代償だよ、コイツも俺達の金の為の代償。最初からコイツはこの時の為に俺達のトコに来たって思えよ。」

尚も沈黙するノアに、ライアンは悪びれる様子も無く、ポンポンと肩を叩くと、そのまま二階へと上がっていった。

ダイニングテーブルには、ライアンがリアムに買わせたガラクタが転がり、何かが包まれていたであろう紙袋だけが乱暴に破かれた状態で捨て置かれている。

「代償は…あの時払ったはずだろ…。」

すやすやと静かに寝息をたてるリアムの小さな手を握り、ノアは振り絞るように呟いた。その様子を、窓の外から無感情に眺めている存在があるのを、誰も知らない。





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