夢の代行人

ださい里衣

第1話

 夢を叶えている人は、どんな努力をしたんだろう。叶うか叶わないかも分からない夢の為に、努力し続けるのは時に苦しいこともあるだろう。ただ自分に自信が無いのを棚に上げて、自覚しないように環境や他人のせいにして逃げてしまいたくなる。彼らはそういった自分にどうやって打ち勝ち、夢を実現させてきたのだろう。

 冬のある日、お使いを終えた帰り道、リアムは温かな光の灯る一軒のパン屋の前でそんなことを考えていた。

 店に並ぶ香ばしくて甘い香りを放つパンはどれも丁寧に作られていて、店内のオレンジ色の光に照らされてつやつやと輝いている。

(……もう一度食べたいなぁ。)

 そう思い、リアムはボロボロのズボンのポケットに手を突っ込んだが、入っていたのは銅貨一枚だけだった。

「はぁ…。」

 いや、足りないのはお金だけではない。

 ここのパンを買うお金を持ち合わせていたとしても、自分のこの装いではどの道店に入るのも拒まれるだろう。もしかしたら仕舞には持っているお金も盗んだものだと言いがかりをつけられるかもしれない。

「…………。」

(諦めよう…。)

 リアムは足元に置いていた荷物を両手で抱え直し、とぼとぼと歩き出した。すると後ろから扉の開くベルの音がしたかと思うと、すぐに誰かの声がした。

「そこの坊や!」

 リアムは最初、自分が呼ばれていることに気付かず、重い荷物を抱え、大きな荷物で狭くなった視界のせいで人にぶつからないよう、慎重に歩いていると次の瞬間、突然白いコック服を着た男がリアムの前に立ちふさがってきた。

「⁉あ、あの…。」

 この人はおそらくあのパン屋の職人さんだろう、僕がさっきまで店の外から店内のパンを覗き見ていたのを気付かれたのかもしれない。

‟お前みたいなガキが店の周りをうろついてると商売にならないんだよ!”

‟他の客が不快になるから二度と来るな”

‟ゴミが人間の食べ物を食べようとするな、図々しい”

 今まで出会ってきた恐ろしい大人達の声が頭の中で一斉に再生され、小さい脳内に怒声が響く。リアムが店の前を通っただけで言いがかりをつけてくる大人は決して少なくない、そんな時は相手が満足するまで殴られ続けるしか許してもらう方法はなかった。

「ご、ごめんなさい…!もう来ませんからっ‼」

 殴られるのを覚悟で目を固く閉じると、コック服の男はずいっと甘い香りのする紙袋を差し出してきた。

「これ、売れ残りだから家で家族と食べなさい。」

 男が差し出してきた袋からは、香ばしく焼かれたパンが覗いている。

 嬉しさのあまり顔が緩み、一瞬、パンの入った紙袋に手を伸ばそうとしたが、ハッと我に返りすぐ手を引っ込めた。

「い…、頂けません…。お金が、ないんです…。」

 ぐっと荷物を握りしめ、固く目を閉じると男は優しい声で笑いながら、大きくて分厚い温かな手で冷たい僕の頬を撫でた。

「ははは、だから売れ残りだって言ったじゃないか。これはもう売り物じゃないんだ、誰かに食べてもらわないとせっかく作ったのに捨ててしまわないといけなくなる。だからお金なんて無くて良いんだ、俺の為にこのパンを食べてくれないか?」

 男の茶色い優しい瞳が真っすぐに僕を見つめ微笑んだ。リアムにこんな目を向けてくれたのは両親以外で初めてだと思った。

「こんなに美味しそうなのに…捨ててしまうんですか…?」

「ああ、坊やがこのパンを受け取ってくれなければね。」

 上目遣いで見つめるリアムの視線に、男は再び笑いながら「大丈夫だから。」と笑い、僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

「そうだ!このパンはもうゴミなんだ、ゴミをお客様に売ることなんてできない!だから坊やにこのゴミを引き取って欲しいんだ!これでどうだい、坊や?」

 そう言ってリアムの顔を覗き込む男はとても楽しそうに見えた。

「これが…ゴミ…?」

「ああ、そうよ!世界で一番美味いゴミだ‼」

「ほんとうに僕が貰っても良いの…?」

「ああ。」

 頷く男に僕は顔をほころばせると、男もまたつられるようにして満足そうに微笑んだ。

「持てるか?家は近いのか?」

 大きな荷物の入った袋にパンの紙袋を入れてもらい、リアムは頷いた。

「家は街外れです。お使いは慣れているので大丈夫です、本当にありがとうございました。」

 リアムが顔だけでお辞儀すると男は驚いた様に目を見開いた。

「街外れだって?もう日も落ちてるってのに、そんな所まで歩いて帰るのか?」

「はい、でもいつも兄さんが途中まで迎えに来てくれるので大丈夫です。」

「そうか…兄さんがな…。」

 そう言って男は少しホッと肩を降ろすと、「ちょっと待ってな。」と言って小走りに店に戻っていった。

「ふふふ…。」

 リアムは荷物の中に入れられたパンを思い出しては、兄達の驚く顔と、三人で美味しいパンを頬張る光景を思い浮かべては声を漏らした。

「待たせたな、帰る前にコレ着ていきな。」

 再び扉の開くベルの音が聞こえ、男が店から出てくると、所々に小さく穴の開いた茶色いセーターを差し出してきた。

「え……。」

「これ、俺が小さい頃着てたやつで穴あいてるけど…死んだばあちゃんが編んでくれたやつで捨てるのも中々出来なかったんだ、これもパンと一緒に貰ってくれよ。あったかいぞ?」

 ニッと微笑んだ男は、荷物を一度リアムの手から取り上げ、片腕で抱えると「ほれ、ここから首通せ。」と言ってリアムにセーターを着せてくれた。少し埃っぽいが、ほのかにパンの優しい匂いが染み付いている気がした。

「少し大きい気もするが…ま!大丈夫だろ!お前の兄貴も心配するだろうし、パンが固くなる前に頑張って帰れよ?ま、俺のパンは固くなっても美味いけどな!」

 リアムにセーターを着せるなり、男は満足そうに頷き、荷物をゆっくりとリアムに手渡すとポンポンとリアムの背中を押した。

「本当にありがとうございました、パンも…服も…大切にします!」

「ああ、気を付けてな。」

 ニコニコと微笑むリアムの頭を男はまた大きなその手でわしゃわしゃと撫でた。

 最後にリアムは男に頭だけのお辞儀をして、ゆっくりと歩き出した。もう既に人通りはまばらで、夜の闇が町の外灯の明かりを際立たせている。街に灯る家々の温かい光を見る度に、いつもなら強い疎外感を感じ、心細く、はやく兄に会いたくて速足で街を抜けようとするが、今日は違った。美味しいパンを一刻もはやく兄に見せたくてしかたがなかった。

 兄達の喜ぶ顔を想像しては更に足が前へ前へと軽やかに進んでいく。

 紙袋から微かに香るパンの匂いと、自分の身に纏うセーターの香りとぬくもりにパン職人の男の顔を思い出し、一人微笑んだ。


 街を抜けると真っ暗な空からパラパラと雪が降り出した。

 はぁっと息を吐くと自分の吐息が白い蒸気となって虚空に溶けていく。まだ家までの道のりは半分以上残っている。街外れの森の中にある家には今頃、二人の兄達が僕の帰りを待っているはずだ。

(兄さん、今日も迎えに来てくれるかな。)

 慣れているとはいえ、暗い森を一人で歩くのは怖い。いつも出来れば森に入る前に兄が迎えに来てくれないかと心の中で祈っているが、街から森までも距離がある為、大体兄と合流するのは森に入ってから家まで三分の一程の距離を歩いてからだ。

「兄さん達だって僕の為に働いてくれているんだから、我儘言っちゃだめだ。」

 自分にそう言い聞かせ、左右に頭を振って誤魔化した。

 雪の積もり始めた森へと続く殺風景な道を、大きな荷物を抱えながら地道に歩いていると、後ろから何か硬い金属がこすれ合うような物音と、生き物の荒い息使いを感じ、ふと振り返ると自分の後ろからランプの光を灯した馬車がこちらに向かって走って来ていた。

(……こんな時間に、街から出てきたのかな?)

 おそらくあちらからは自分が見えていないと思い、馬車を避けるため道の片側に寄り、馬車が通過するのを立ち止まって待った。

 この見通しの悪い闇の中、馬車は相当急いでいるのか車輪が雪交じりの泥を激しくはじかせながら前を通り過ぎていく。

(滑ってしまわなければ良いけど…。)

 街の中でも馬車の事故は多い。

 馬車同士の衝突事故もあれば、馬車と人の衝突事故もある。特に立派な大きな馬車の上からは路上を歩く子供の姿は見えないらしく、最近では僕と同じくらいの子供が馬車に撥ねられるところを街で目撃してしまった。

 撥ねた馬車は子供に気付いていないのか、そのまま何の反応も示さないまま走り去ってしまった。地面に打ち付けられた子供は、まるで熟れたトマトを落とした時の様な音と共に、頭から赤い液体を流し、動かなくなった。

 僕と同じようなつぎはぎだらけの服を着た子供の腕にはパンの包みが大切そうに固く抱かれており、そのすぐ後、恰幅のいい男が息を荒くし、騒然とする現場に現れたかと思うと、倒れているその子供を見るなり怒声を浴びせながら、もう動かない子供の体を蹴り上げ始めた。

「この盗人めっ!これは天罰だ!」

 男は脂汗をまき散らしながら倒れている子供を尚も蹴り続ける。

 男の言葉に、周りの大人も全てを察したのか、まるで何事もなかったかのように通り過ぎていく。

 子供の頭から流れる赤い液体が地面を這い、広がっていく。

 誰も、子供の死を悼まない。

「どう…して……。」

 ガタガタと自分の唇が震えているのが分かった。

 恐ろしかった、目の前で見た‟死”ではなく、大人たちのその子供の死に対する‟無関心”が。

 確かに、あの子はあの人からパンを盗んだのかもしれない、だけど盗んだのにも理由があるはずだ。それが自分の為だったのかもしれないが、もしかしたらあの子にはあのパンをどうしても食べさせたい家族がいたのかもしれない。母親が病弱なのかもしれない、まだ小さな兄弟を養わなければいけなかったのかもしれない。

 どんな理由があれ、盗みが悪いことだというのは分かっている。

 しかし、あの子がいくら盗人だからといって、こんなにも幼い子供が罪を犯さなければいけなかったことを憐み、その子供の死を悼む人間が一人くらい居ても良いはずだ。

 パンを盗んで死んだあの子が悪で、自分のパンを盗まれて、死んだあの子を尚も蹴り続けるあの男は善なのか?そもそも、あの子は追いかけてくるあの男から逃げようとして馬車の前に飛び出してしまったのだとしたら、あの子の死の原因はあの男なのではないか?しかし直接的に子供の命を奪ったのは紛れもなく通過していった馬車だ。この子は盗みの罪をこんなにも冷酷に裁かれたのにも関わらず、この男やあの馬車は裁かれないのだろうか、本当に、この子供以外に罪はなかったのか。

「ああ……あああ……。」

 思考がまとまらず、頭の中がグルグルしてしまい、訳が分からず頭を抱えて下を向くリアムの肩を誰かがそっと触れた。

「リアム、どうした?」

「ノア兄さん…。」

 顔を上げると、綺麗な深い緑のコートを纏った若い男が心配そうに眉をひそめ、こちらを見つめていた。

「どうした?具合でも悪いのか?」

 ノアは温かい大きな手でリアムの顔を包むと、リアムの顔の角度を色々変えながらリアムの表情を観察した後、自分のおでことリアムのおでこをコツンと合わせた。

「熱はないようだけど…。」

 ノアはリアムからおでこを離すと再び心配そうにリアムを見つめる。

 リアムはそんな兄に抱きつき、そっと事故現場を指差した。ノアは小さな子供を蹴りつける男を見るなり「大変だっ!」と言って駆け寄ろうとしたが、リアムがノアの上着を掴み、引き留めた。

「死んでるんだ…事故で…あの子は、あの人からパンを盗んで…それで…。」

 俯きながらぼろぼろと地面に涙を零すリアムの言葉に、ノアは大方事態を察したのか一度リアムの目線までしゃがむと、綺麗な服の袖で汚れたリアムの頬を滑る涙を拭った。

「分かったよ。だけどねリアム、兄さんはどんな人間であっても死んだ後まで酷い仕打ちを受ける必要は無いと思うんだ。死者の裁きは神のすることであって人間のすることじゃない、…少し難しいかな?お前はここで待っておいで。」

 ノアの優しい眼差しと声に、リアムは鼻水をすすりながら頷き、ゆっくりと男に向かっていくノアの後ろ姿を見送った。

 ノアは男の後ろから近づき、一言二言口を動かすと男が罵声を発しながらノアに殴りかかった。

「ああっ‼」

 リアムは殴られるノアを見たくなくて反射的に一瞬目を瞑ったが、次に目を開けた時に倒れていたのは相手の男の方だった。

 ノアは男を地面にうつ伏せにし、両手を後ろで押さえた。するとそこで調度警官が現れ、男を警官に引き渡すと、後に合流して来た警官服ではない口ひげを生やした偉そうな男に事情を話しているのか、ノアは着ているコートの中から何かを取り出してその男に手渡した。

 警察官に取り押さえられた男は汚い唾をまき散らしながら尚もノアに向かって声を上げ続けているが、ノアは気にした風もなく踵を返してこちらへと戻ってきた。

「兄さん…。」

 こちらへ戻ってくるノアの顔を見上げると、ノアは「大丈夫だよ。」と微笑んだ。

「あの子は警察の方で引き取ってくれるそうだ、だからもう大丈夫。」

「あの子の家族は…。」

 リアムが言いかけた時、ノアはわしゃわしゃとリアムの頭を激しく撫でまわした。

「リアムはとても優しい子に育ったなぁ、兄さんは嬉しいよ。」

 ノアのブルーの綺麗な瞳が嬉しそうに僕を見つめる。兄のその笑顔に、さっきまで自分が抱いていた不安や疑問を一瞬にして忘れてしまった。兄さんが大丈夫と言うのだから大丈夫なのだろうと、気付けば僕も釣られて微笑んでいた。

(兄さん…。)

 冬の寒さと夜の闇の中に兄を思い浮かべ、馬車の気配が遠く消えていくのを待ち、再び歩きだした。森に入ればきっとノアが待ってくれているはずと、さっきよりもはやく足を動かした。

 数年前、両親が死んでから長男のノアと次男のライアンとの三人で暮らしてきた。僕の記憶にある両親は、ノアの様に温かい眼差しとリアムを心配し優しく包み込んでくれる微かな温もりが残っているだけだった。リアムが幼過ぎたせいか、両親の顔や名前などは一切覚えていない。

 きっと母親が生きていたならノアの様に優しく、温かい人だったんだろうと想像し、父親が生きていたのならライアンの様に強くてクールな人だったのかもと勝手に思っている。二人の兄はまともにまだ仕事も貰えないリアムの為に毎日毎日働いてくれている。特にノア程まだ年のいかないライアンは仕事が上手くいかない時の荒れ方が激しく、たまに暴言を吐きもするが、街の大人の様に汚いリアムに手を挙げることはなかった。もしかしたらそれが、家族と他人の違いなのかもしれないとリアムは思っている。

 そう、リアムには両親が無いが、まだ大切な兄弟がある。

 あの事故を目撃した日、ノアがあの後リアムを連れてリアムが見たこともない形をした美味しそうなパンの並ぶ店に入った。こんな汚い自分を連れて歩くだけでも恥ずかしいはずなのに、ノアはそんなこと気にしないみたいにリアムの手を取って一緒にパンを選んだ。ライアン兄さんは欲張りだから大きいパンの方がいいだろうか、それとも珍しい物好きなのを考慮して、変わった形のパンがいいだろうかと微笑み合いながらパンを眺めるのはとても楽しかった。

(僕がもしパン屋さんだったら、ノア兄さんの好きな紅茶味のパンと、ライアン兄さんの為に大きくて珍しい形のパンを作るのに。)

 そう無意識に思った時、忘れかけていたあの子供の姿が再び頭をよぎった。

(そうだ…、僕があの子みたいな子供達の為にパンを作ろう。家族の為だけにではなく、もっと多くの人がお腹いっぱい食べられるように。)

 その日のリアムの小さな決意は、今も密かに胸にしまっている。

 あれから街でパン屋を見かけてはどんなパンがあるのか盗み見ては、将来自分が作るパンを想像し、更には自分の作ったパンを兄達やたくさんの子供達が楽しそうに頬張る姿を思い浮かべ、どうしたらパン屋になれるのかを永遠と考えている。

 今日出会ったあのパン屋の男の様に、自分も将来自分の様な子供に「お金なんてなくていい。」と微笑みながらパンを差し出せる大人になりたいと強く思った。

(その為にはまず、僕はどうすればいいんだろう…ノア兄さんなら分かるかな…。)

 そんなことをひたすら考えながら歩いていると、ふと前方から光が照らされ、驚いて前を見ると、何やら一人の人影がこちらに向かって近づいて来ている。

 リアムは相手に気付かれない様に揺れる光を避ける様に歩き、そのまますれ違おうとしたが、自身の持つ荷物の揺れる音に相手が気付いたらしく、「やっぱり、誰かいるのかい?」という声と共に次の瞬間、リアムはランプの光で照らされた。

「リアム…?どうしてこんな時間にお前が…。」

「に、兄さん!」

 なんと、ランプを持ち向かって来ていたのはノアだった。

 ノアはブルーの瞳を見開き、困惑した様子だったが、すぐにいつもの笑顔に戻り、リアムに手を差し伸べてきた。

「またライアンが無理なお使いをさせたのかい?可哀想に…荷物は兄さんが持とうう。リアム、こっちにおいで。」

「ライアン兄さんは悪くないよ、僕が出来るって言ったんだ…そしたらこんな時間に…ごめんなさい…。」

 俯く僕のしもやけた赤い頬をノアの綺麗な手が優しく撫でた。

「大丈夫、分かってるよ。リアムは優しい子だな。」

 そう言ってノアが微笑んだ時、後ろから誰かのノアを呼ぶ声が聞こえてきた。

「ノア様、はぁ、はぁ…一体いかがいたしましたか?」

 ノアを走って追いかけて来たのか、後ろから息を切らせた燕尾服を着た年配の男が現れた。

 男は息を整えながらノアの視界に入ると、ノアのすぐ傍に立っていたリアムを見て、一瞬顔をしかめた。

「ノア様、この子供は…?」

 燕尾服の男は厳しい表情で僕を下から上へと嘗め回す様に観察する。僕は服装からしてこの男はどこかの大きな家の執事だろうとすぐに分かった。家柄が良い大人やその家に仕える大人程、自分の様な汚い子供を毛嫌いする。

 それにしても何故この燕尾服の男はノアを敬うような態度なのだろうとぼーっと考えていると、ノアが荷物を持っていないもう片方の腕で僕の背中を引き寄せた。

「すいません、ウィリアムさん。こんな夜中に子供が歩いているのが見えた気がして…そしたら案の定、僕の弟が歩いたんです。」

 ノアの明るい声に、燕尾服の男は眉をひそめた。

「弟…ですか?」

「はい、僕の弟のリアムです。ほら、リアムもご挨拶して?」

 ノアに唐突に促され、僕は燕尾服の男を見上げて「はじめまして、リアムです。」と寒さで震える唇を精一杯動かした。

「ウィリアムさん、旦那様がお許しになればですが、リアムも馬車に乗せては頂けませんか?この寒さの中、この子だけを残して僕だけが馬車に戻ることは出来ません。どうか、ウィリアムさんから旦那様に取り計らってもらえませんでしょうか。」

 ノアの穏やかな声に、ウィリアムは一瞬驚きの声を上げたが、すぐにノアと僕の顔を交互に見ると、渋々といった感じで「分かりました…。」と返事をすると「では旦那様がお待ちですので、馬車に戻りましょう。」と言ってくるりとリアムたちに背を向けて走り出した。

「兄さん…。」

「大丈夫だよ、兄さんがついてるから。リアム、走れるかい?」

 つい不安気にノアを見つめる僕に、ノアが優しく微笑み、頭を撫でる。

「うん!」

「じゃあ、競争だ!」

 リアムがノアの言葉に頷くと、ノアはそう言って走り出した。

 ノアは、自分の後ろを必死に追いかけるリアムをチラチラと振り返りながら走り、距離が広がってしまう度にスピードを落としていた。そして前方に目的と思われる馬車が見えてくると、ノアは更にスピードを落とし、リアムを振り返りながら「兄さん疲れたよ…。」と息を切らせるフリをした。

 それを見たリアムはやっとノアに追いついたと思い、疲れた足を懸命に動かしてノアを追い越し、「やったー!今日も僕の勝ちだね!」と言って馬車に手を付いた。

 リアムが飛び跳ねて喜んでいると、「おい、汚い手で旦那様の馬車に触るな!」と後ろから怒鳴られ、リアムは飛び上がった。

「ご、ごめんなさい…。」

「全く、ノア様に頼まれなければお前みたいなガキを乗せるなんて有り得ないんだ、身の程をわきまえろ‼」

「うぅ…。」

 怒鳴りつけてくる燕尾服の男、ウィリアムの声にリアムは反射的に頭を抱えてしゃがみ込んだ。

「ウィリアム、お前の声がうるさいぞ。そんなまだ小さな子を怒鳴りつけるな、みっともない…。」

 重圧感のある低く、渋い声が馬車の扉が開くのと同時に聞こえたかと思うと、上品で落ちつた雰囲気の初老の男が顔を覗かせた。その渋い声とは裏腹に男の顔立ちは柔らかく、優し気に見えた。

「も、申し訳ございません…旦那様…。」

 いそいそと頭を下げるウィリアムに釣られてリアムもペコリと頭を下げると、旦那様と呼ばれた男は馬車の中で楽しそうに声を上げて笑った。

「君がノアが引き取って育てている弟か。なるほど、純粋そうであのペテン師が好みそうだ。」

(……引き取った?ペテン師?)

‟旦那様”の言っていることは理解できなかったが、ぼんやりとした違和感と、何か自分だけがその場で置き去りにされている気がした。

「旦那様、からかうのはやめてください。リアムはまだ幼いのです、その様な言葉はあまり聞かせたくない。」

 リアムがぼうっと楽しそうに上品な笑みを浮かべる旦那様を見上げていると、後ろから追いついてきたノアがキュッとリアムの頭を自分の体に押し付ける様に引き寄せた。

「ははは、それは申し訳なかったとんだ営業妨害だったかね?」

「旦那様…。」

 尚も悪びれる様子もなく笑い声をあげる旦那様に、ノアは不快そうに眉をひそめた。いつも穏やかなノアの厳しい表情にリアムは驚いていた。

「そう怒るな、私のジョークには慣れているだろう?それよりはやく乗りなさい、夜も更けている。私は一刻も君達を送り届けて、屋敷に帰りたいのだ。」

「…………。」

 旦那様の言葉にノアは沈黙で答えた後、「さぁ、旦那様に失礼のない様にご挨拶してからお邪魔しよう。」とノアはいつもの笑顔で僕リアムの頭を撫でていった。

「はじめまして、リアムといいます…。」

 リアムを馬車の中から微笑みながら見つめる旦那様にペコリとお辞儀をし、チラッとノアを見る。他に何か自分が言うべきことがあるだろうかと、ノアの顔を伺うが、ノアは「良くできたね、さぁおいで。」と言って片腕にリアムを乗せ、馬車へと乗り込んだ。子供のリアムには踏み台の位置も高く見えたが、実際に乗ってみるとなんだか自分が浮いてしまっているようで不思議な感覚だった。

 ノアは向かい側に座る旦那様の斜め右にリアムを座らせると、荷物を足元に置いて自分は旦那様と向き合うようにして座った。

 隔離された馬車内は、今まで雪の中を歩いてきたリアムには温かに感じた。

 間もなくしてウィリアムの声と共に馬車が動き出した。馬車の絶妙な揺れの中、旦那様とウィリアムは何やらリアムには分からない話をしている。二人の話し声を隣で聞きながらリアムは頭の中で今日一日の出来事を振り返りながら、ウトウトと眠気に襲われていた。(寝てはいけない…、兄さんに恥をかかせない様にしなきゃ。)

 リアムは更に重くなり続ける瞼と頭を必死に保とうと、正面に座る旦那様からは見えない様に元々サイズの大きなセーターの袖で両手を隠し、自分の手の甲を自分でつねった。

 しかし、次第に強い眠気により手の甲をつねる自分の力も弱くなり、とうとうガクンと一瞬、自分の頭を首が支えられなくなり、隣にすわるノアの腕にぶつかってしまった。

「あっ!ごめん…なさい…。」

慌てて頭を上げ、座り直すリアムを見てノアよりも先に旦那様が「あともうしばらくかかる、眠りなさい。」とゆっくりとした口調で言い、上品に微笑んだ。その言葉にリアムは確かめる様にチラッとノアの顔を見上げると、ノアもふっと微笑んだ。

「リアム、旦那様もこう言ってくださってる。兄さんにもたれて良いから、少しお休み。」

そう言ってノアはリアムの肩を引き寄せ、リアムを自分にもたれさせるとポンポンと頭を撫でた。二人の言葉に安堵したリアムは黙って頷き、一日の肉体的な疲労もあってかそのままあっという間に眠りに落ちてしまった。


























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