第25話 アパート


 富士山から異界探索協会までマイクロバスで運ばれ、渡界前に省略された異界探索士についての講習を受講させられ、帰還者に対する優遇措置についての説明を受けてから、レンは正式な異界探索士の免許証を貰った。


 その後、またマイクロバスで移動し、新宿にある大型ショッピングセンターの地下駐車場でタクシーに乗せられて、同期の傷病特派組とは別れることになった。

 帰還者であることを知られないようにするための配慮らしい。


(タクシーって便利だな)


 行き先の住所を告げれば、ぼうっと考え事をしている間にアパートの近くに着いていた。

 レンは、少し先にある商店街の入り口で降りた。

 少し買い物をしておかないと、部屋には何もないことを思い出したのだ。

 レンは、食料品店でうどんと卵、納豆を買い、路地に並んだ立ち入り禁止のフェンスを潜って空き地を横切り、倒壊しそうな木造2階建てのアパートに帰着した。


(まだ崩れてなかったな)


 古びた外階段の上り口に、[たきも荘]と書かれた表札が錆びた釘で打ち付けてある。赤錆が浮いて軋む階段を上がって二つ目の扉がレンの部屋だった。

 表札は祖母の名字"柿谷"になっている。


(こんなアパートにチラシ入れてどうするんだろう?)


 レンは、錆びて蓋が壊れた郵便受けを横目に、揺れる外階段を上った。

 叔母や従姉妹についての記憶は失われたのに、こうした生活の記憶は所々残っている。この古いアパートで祖母と暮らしていた時のことなどは、はっきりと覚えていた。


(また、窓が開いてる)


 ドアの横にある流し台上の小窓が少し開いていた。何かの用があって、誰かが部屋に入ったのかもしれない。


(長く留守にしたから仕方がないか)


 レンは、両隣の部屋の扉へ目を向けながら、鍵を開けて部屋に入った。


(まだ5時前だけど……晩飯にしようかな)


 部屋では、他にやることがない。

 コンセントを抜いていた冷蔵庫の中を覗くと、ワサビのチューブが卵入れの上に置かれていた。


(食べ物は……)


 商店街で買った茹でうどん、卵、挽き割り納豆しかない。

 納豆を除外すると、うどんと卵、冷蔵庫に残っていたワサビだけだ。

 うどんに納豆を乗せて今夜の内に食べるべきだろうか?

 しかし、そうすると明日の朝食は水だけになってしまう。冷静に考えれば、納豆は朝食として残しておくべきだろう。


(う~ん……)


 レンは唸った。

 揚げ玉は贅沢にしても、ケチらずにネギぐらい買うべきだったかもしれない。

 今から買いに行けばいいだけの話だが……。


(お金が無いからなぁ)


 レンは、大きな欠伸をした。

 体の芯が疲れていて怠さが抜けていない。強いられていた緊張から解放されて、体全体がふやけたような感覚だった。


 レンは、頭を軽く揺すりつつ、水を適当に入れたフライパンをガスコンロに置くと、二度、三度とコンロのツマミを捻って点火した。

 やけに赤い色をしたガスの火を、一回、最強にしてから中火へ戻す。それで、青白い炎になって安定した。


(火のつきが悪い)


 レンは顔をしかめた。

 ここは、まだ祖母が生きていた頃から借りている味わい深いアパートだ。

 ちょっとした地震でも大きく震動を増幅して緊張感を高めてくれる古い建物で、木造2階建て。風呂無し、共同洗面、共同便所という物件で、壁も天井もスカスカだった。

 いざという時には、壁を蹴り破れば、何処からでも外に出ることができるという、安全な構造になっている。


(音楽がうるさいな……どこかの部屋に大人数が集まっているのか)


 先ほどから何語だか分からない女性ボーカルの歌声が響いていた。それに合わせて、誰かがギターを弾いている。酒が入っているのか、何人かが興奮した奇声をあげていた。


 アパートの住人のグローバル化が進み、言葉の通じない隣人ばかりになったから、日本に居ながらにして外国に滞在している気分が味わえる。

 困惑するのは、音という音が筒抜けなことだ。

 朝から晩まで、ありとあらゆる生活音が聞こえる。

 歩く音、話し声、電話の声、鼾からくしゃみ、放屁の音までダダ漏れである。もちろん、男女の睦み合う騒動も、いがみ合う声も臨場感たっぷりに聞こえてくる。便所の音など、増幅器でも付いているのかと思うほどアパート中に響く。


 長く住んでいるため、すでに当たり前のBGMとして慣れていたが、住み始めた当初は、思春期の妄想が凄い事になって、色々と持て余し気味になったものだ。

 まあ、今でも年齢だけで言えば、思春期の真っ只中なのだが……。


 沸騰を始めたフライパンの湯を眺めていると、唐突に天井の電球が消えた。


(……またヒューズが切れた?)


 ちょうど、ガスの火を着けていたから明かりはある。


(また、どこかの部屋が使い過ぎたんだなぁ)


 レンは嘆息した。いい加減、電気の使い方に慣れて欲しい。何にでも許容量というものがあるのだから……。


 このアパートは、ブレーカーが落ちたらレバーを上げて復旧するような訳にはいかない。一回一回ヒューズ管を取り替えないと復旧しないのである。そして、そのヒューズ管は、近所の電気屋やコンビニでは売っていないのだ。

 当然ながら、住人の誰一人として、予備のヒューズ管を買い置きなどしていないから、このまま何日かは停電状態が続くことになる。


(まあ、後は食べて寝るだけだから良いけど)


 晩飯は、湯がいたうどんに生醤油を回しかけて卵を割り入れるだけだ。うどんに醤油を回しかけてから卵と落とす。レンは、この順番を大切にしていた。


 例によって、停電したアパート中で罵り合う異国語が飛び交う中、レンは軽く湯切りをしたうどんを丼鉢に流し入れた。


(あっ……)


 調味料棚から、醤油の小瓶が無くなっていた。どこかの部屋の住人が借りていったらしい。


(また、隣か……)


 流し台上の小窓が開いていたのだから、その可能性に気付くべきだった。あそこから手を入れると、調味料棚に手が届くのだ。

 これまでにも、何度も何度もあったことだ。返せと怒鳴り込めば、すぐに謝りながら返してくれるのだが、今はその手間すら面倒臭い。


(使ったら戻しとけよなぁ)


 レンは眉をしかめつつ、塩の小瓶を手に取るとうどんに振りかけた。

 少し賞味期限の切れたワサビをチューブからひねり出し、卵を割り入れて、箸を咥えてコタツへ移動する。

 今のレンには、明かりは不要だった。その気になれば、昼間のように闇中を見ることができる。


(明日、田代の叔母さんに挨拶して……ああ、その前に、政府から振り込みが無いと、もう何も買えないなぁ)


 レンは、ネギを買うのも躊躇うほどの小銭しか持っていない。信用金庫の口座にあるお金は、今月と来月の家賃と光熱水道費で消えて無くなる。


(叔母さんに、お金を返さないと……)


 今持っているスマートフォンは、連絡手段が無いレンのために、田代の叔母が持たせてくれた物だ。

 入院費も義眼の代金も叔母が払ってくれた。

 

(政府が約束通りのお金をくれたら返せるんだけど……ちゃんと貰えるのか?)


 次回ゾーンダルクへ渡る前に、借りた物は返し、払うものは払っておきたかった。


(でも……お金が無いと、何も準備ができないな)


 つるつると塩ワサビ味のうどんをすすりながら、明日の過ごし方を思案していると、不意に明かりが点った。床に転がしていたスマートフォンの画面だ。


(誰だろう? 何かの通知?)


 ほぼ飲み込むようにしてうどんを胃袋に収めると、レンは画面が明るく点っているスマートフォンを手にとった。

 途端、眉間に皺が寄った。


(間違い電話?)


 ワンコールで切れていた。番号は非通知だ。叔母や香奈、異界探索協会の番号は登録してある。

 レンは、そのままスマートフォンを放置して水道の水を汲みに立った。丼に残った卵液を少量の水で洗いつつ飲み干すためだ。


(……なんだよ)


 また、スマートフォンの画面が点った。

 今度は切れずに鳴り続けている。


(しつこいなぁ)


 レンは、丼を手早く洗って畳んだ布巾の上にひっくり返して置くと、濡れた手をズボンで拭き拭きスマートフォンを拾い上げた。

 執拗にコールが続いている。


「もしもし?」


 "通話"を押しつつ、そっと呼び掛けてみた。


『遅いのですぅ~ レディを待たせるのはマナー違反ですよぉ~』


 いきなり、間延びした幼い女の子の声が聞こえてきた。

 レンは、無言で"通話終了"をタップした。


『もう、切れませんよぉ~? ゲームスタートですよぉ~?』


「えっ!?」


 レンは、慌ててスマートフォンを見た。

 画面の中央に、先ほどまでは無かった奇妙な形をしたアイコンが浮かび上がっていた。

 ホーム画面に並んでいたはずの他のアプリがすべて消え去り、アンティークの鏡のようなアイコンが一つだけ表示されている。


「これ……あの"鏡"か!?」


 富士山頂にある"鏡"をデフォルメしたようなアイコンだった。

 レンは、画面表示を変更しようとして、画面上で指を滑らせたりホームボタンを連打したりしたが、表示は固定されたまま切り替わらなかった。


『おめでとうございますぅ~ あなたは帝王種を討伐したので、特殊イベントの参加資格を取得しましたぁ~』


 スピーカーから、女の子の声が聞こえてくる。


「……誰だ、おまえは?」


『おまえじゃないですよぉ~ 使徒ちゃんですよぉ~』


「しとちゃん?」


『それでは、カウントダウン開始ですぅ~』


「なに?」


 "使徒ちゃん"の声と共に、鏡の形をしたアプリの下に、99と数字が表示され、98、97……と数字が減り始めた。


(あの偽神の?)


 嫌な予感を覚えた。

 レンは、握っていたスマートフォンを部屋の中へ投げ捨てた。そのままアパートのドアを開けて外へ向かおうとした。


 途端、


「う……わぁっ!?」


 レンは仰け反った。

 部屋に投げたはずのスマートフォンが目の前に浮かんでいたのだ。

 信じ難いことに、スマートフォンが空中を浮遊している。


『地の果てまで追尾しますよぉ~ あなたの霊魂をロックオンしたから、どこにも逃げられませんよぉ~』


 "使徒ちゃん"の声がスピーカーから聞こえてきた。

 レンは、廊下に設置してあった古い消火器を拾い上げると、宙に浮かんだスマートフォンめがけて思いっきり叩きつけた。

 しっかりとした手応えはあったが……。


(……嘘だろ)


 スマートフォンは無傷のまま浮かんでいる。


(いつから、こんなに頑丈に)


 以前は、ちょっと落としただけで画面が割れたくせに……。


『無駄な抵抗は止めましょう~ 時間切れで爆死しますよぉ~?』


「……爆死?」


『それでは確認しますねぇ~ えっとぉ……親ナシ、子ナシ、兄弟姉妹ナシ、同居人ナシですねぇ~ 後処理が楽でいいですぅ~』


「いや……親はいる。出て行っただけだ」


 未婚のままレンを産んだ母が居る。レンが小学校に行っている間に、書き置きをして出て行ったきりだが……。


『もう死んじゃいましたよぉ~』


「……いつ?」


『2年4ヶ月前ですねぇ~ あなたの血で血縁サーチを掛けたから間違いないですよぉ~ あなたの親はもういませんよぉ~』


「そうなのか」


 レンは、壁際に置かれた小さな本棚を見た。そこに写真立てがあり、レンを育ててくれた祖母の写真が飾ってあった。

 祖母は、老衰で亡くなる直前まで、母の行方をずっと気に掛けていた。


『さあ、さっさとイベントに進みましょう~ 諦めて召喚されましょう~』


 レンのなけなしの感傷を無視して、"使徒ちゃん"が何やら言い始めた。


『ちなみに、カウントがゼロになると爆発しますよぉ~? 証拠隠滅しちゃいますぅ~』


 スマートフォンが爆発するらしい。

 それこそ、嘘だと思いたいが……。


「カウントというのは?」


 レンは、スマートフォンの画面を見た。

 鏡のような形をしたアイコン下で、10、9、8……と、数字が減り続けていた。


『ポチッと押さないと、さようならですよぉ~? この町ごと吹き飛んじゃいますよぉ~? 使徒ちゃんは、嘘を吐きませんよぉ~?』


 "使徒ちゃん"が物騒なことを言っている。たかがスマートフォンサイズの爆弾くらいで大袈裟な……と思いはしたが、嘘だと決めつけられない気味の悪さを感じた。


「爆死も面白そうだけどな」


 呟きながら、レンは画面のアイコンを押した。


 カウントは、"1" だった。









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レンは、新宿のアパートに帰った!


レンは、"使徒ちゃん"に絡まれた!


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