ビバレッジ・ビジネス(改定版)
羽衣石ゐお
本編
ある晩のことである。湯谷涼音は半月ほど交際してきたボーイフレンドに別れを告げられ、大量のコンビニ菓子の詰め込まれた袋を抱えながら、茫然とした気で殿方町まで走ってくると、クラスメイトの男子学生と四十がらみと推測されるふてぶてしい女とが腕を絡めながらラブホテルに入っていくのを見た。あたりは油くさく、けたたましくエンジンが吹かされている。洋楽に混じる酔っ払いの笑い声が耳を激しく打ちつけた。緩慢に這う風は湿気と熱気を孕んでいて、ひと度それが通ると汗粒を浮かばせた。そして、明滅するネオンサインの煩わしさといったら、執拗に湯谷のふらついた心を切迫させるのだった。
すると、浅間の入っていったラブホテルの電光掲示板が『満室』となって、客寄せのネオンが消えた。途端、あたりは水を打ったように、しんとなった。暗がりには、真っ白に眩しい彼のワイシャツの跡ばかりが残っていた。
……あの、浅間くんが……?
あんぐりと開いた口を、しかしすぐさま押さえつけた。
顔を犬の水とばしのように振って、そのわだかまりを霧散させようとした。ふらふらと足がもつれ、頭は熱を失ってゆき、冴え冴えとあたりを見回せるようになって気付いたのは、自分が汗でべとべとであるということだった。早く帰って、とりあえず風呂に好みの入浴剤でも浮かべて、長々と浸かりたい気分であった。濡れそぼつ頬を、手の甲で、拭う。
〇
放課後、湯谷は教室に人気が無くなったことを何遍も確認してから、教科書を通学鞄に詰めている浅間に声を掛けた。「なんだい、湯谷」彼は手を止めて、こちらを見下ろした。昨今、彼はすぐに下校してしまうから、引き留められたことに湯谷は胸をなでおろした。
小さく折り返されたワイシャツの袖からは筋張った腕が覗いていた。血管が太く巡っていた。そして若干腰を折った浅間は、それでも直立した湯谷より頭ひとつ大きかった。勿論それに対して羨望と嫉妬を綯い交ぜにした眼差しを向ける彼女は、同年代の女子の中でも、飛びぬけてのちんちくりんで、黄色い帽子を被せ、ランドセルでも背負わせてやれば小学生と見紛うほどであった。
「あのね、ええと――」
しかしなんと言い出そうか、とさっきまでずっと反芻していた言葉を失念した湯谷は、しどろもどろに繋ごうとして、遂に辿り着いた言葉は。
「――昨日の夜、あのおばさんとなにしてたの」
あたりは凍り付き、また時も呑まれた。そしてその中をギョロギョロと蠢く湯谷の眼はやがて彼の双眸をとらえる、色素の薄い茶褐色の虹彩はどこまでも沈み込んでしまいそうな深みをもっていた。平生から彼はこの、眉尻を下げた微笑みをたたえる癖があって、それは日常会話をはじめ、説教中から県下のときにまで及んでいた。これは一種の病のようなものであって、ひと度、人と対面すると思わず口角が吊り上がってしまい、挑発であると勘違いをされるのだった。
浅間の容貌に心奪われていると、こちらも無意識の世界に飛んでいってしまいそうになる。そんな茫然とした気で立ち尽くした彼女の手が、ふいに取られる。
「少し、場所を変えようか。屋上前の踊り場にでも」
落ち着いたように見える彼の肌がやや粟立っているようだった。
東棟は、屈指の老校舎であり、昼を過ぎると急に薄墨でも引きのばしたように仄暗くなって、廃病棟のような寒気を感じさせる。今は、七月の頭だった。しかし湯谷は秋頃にでも出でてきたように身を震わせていた。そこは更に冷えるようだった。頑丈に施錠されている屋上への引き戸には、小窓が付いていて、そこからぼんやりと日が差し込んで、深緑のリノリウムに淀を落としていた。互いに聞きなれたサッカー部の掛け声や、ブラスバンドの奏楽が、ふたりの呼気にぽつぽつと交じっていた。しばらくして、湯谷の踏み入れた上履きがキュッと床に擦れ、金切り声がつんざいた。
「――ねえどういうことなの!」
浅間はしかしまたあの薄ら笑いで、湯谷を見下ろした。それは怒りに満ち満ちた面から怒号が飛び交うよりも、凛とした面から厳しい言葉が刺突されるよりも、気味が悪く、自分が一番間違ったことを言っているのではないかと、不安の念にも駆られた。湯谷はただよくもわからず、怖くて、言いたいことを口に出すことができなかった。このままでは嘲笑われて、去って行ってしまう。そういった焦燥もあった。
けれどもそれは杞憂に過ぎなかった。浅間はやはり大胆不敵の、一言居士の、阿呆であった。
「ぼくはあの人と昨日の夜、ホテルに入った。そしてそれをきっと君に見られた。そんでもって、ぼくはあの人を抱いた――これで満足かい、湯谷」
「そんなこと、知ってるよ」
「そうでないなら、なんだっていうんだい」
それは……。会話を滞らせ「ちょっと待って」と手で制し、呼吸を整える。それでも呼吸が荒くなって、目の縁と首元が燃え滾るようだった。それでも浅間は呆れもせず、立ち去ることもせず、ただその場に佇んで、湯谷の返答を待っている。恐ろしかった。きっと同じ人間なんかではないとまで思った。――過呼吸気味になって、嗚咽さえ感じ始めた頃、ようやく絞り出したひと声は、荒唐無稽にもほどがあった。
「なんであんなおばさんとシたの! 最低!」
それを聞いた浅間は、途端大口を開けて、吠えるように笑い始めた。腹を抱え、頽れるまでして笑っていた。
「な、なにがおかしいっての!」
「あ、いやあっ、だって……まさか君はぼくがおばさん好きでも拗らせているとでも思ってるんだろう?……どうしたって、こんなの笑わずにいられるわけがないじゃないか!」
「え、……違うの」
「まあねえ、」
目尻に溜めた涙を人差し指で拭いながら、
「年を召した女生徒寝ることが一番だっていうのは聞いたことあるけど、流石にぼくはまだその境地には到底、辿りついてないよ」
そう言って、また笑いの渦に呑みこまれた彼は、呆然と立ち尽くす湯谷に問うてみる。
「だいたい、普通そういうのを見たら『援交』だって思わないのかい」
「ああ援交。……え?」
至極当然といったふうに口にするようであったが、彼女にとってその真偽を冷静に判断することはままならなかった。
「え……じゃあ浅間くんは、昨日あの人と、え、え援交してたの!」
「涎垂れてるから」
浅間はズボンのポケットから麻柄のハンカチを取り出して、こちらへと差し出してきた。うまく逃げられたようでなにか煮え切らないようであったが、あんまりに恥ずかしかったので会釈してそれを受け取った。「それは手を拭く用のじゃないから」と念を押された。拭ってみると微かにバニラの香がした。
「……ありがと、洗って返すね」
「気にしなくていいのに」
と彼は言ったが、やはり恥ずかしかったから、首を横に振り、口に触れたほうを谷折りにしてからポケットに押し込んだ。湯谷はさっさとこの場を退散したい気に駆られたが、おいそれとこのまま帰っては、ただ辱められただけになってしまうので、強引に、睨みつけ話を戻した。
「ねえ、やっぱりさ!……そういうの、よくないと思う」
「援交という響きが如何せんよくないのは知っている。だが、レンタル彼女とか、パパ活とか……というか身体を資本にしているんだから、アイドルだって、サラリーマンとだってなんら変わらないよ」
「でも……昨日のは犯罪じゃ……」
「バレなきゃ、いい。だろう?」
そう言うと、彼の笑みが濃くなった。……嫌だ、最低だ。湯谷は胸裡で毒を吐いた。
「と、言ってもぼくの本懐はそこじゃないんだ。ただ、ぼくは純粋に、若い女性の身体しか求めてないから」
「それこそ最低だよ! 道具じゃないんだよ!」
「勿論ぼくのが一向に正しいだなんて思わない。だけどね、国だとか世界だとかそういった規模の法律の前に、ぼくと交渉相手のうちにも戒律があるんだ。それを一絡げに、ふるいにかけてしまうのは、些か暴挙が過ぎると思うよ」
だって、
「向こうが、ぼくを求めているんだからさ」
その術なげな微笑みが、やけに脳裏にこびりつく。静寂のうちを、靴音がだんだんと遠ざかってゆく。――待って、待って、
「待って!」
「……なんだい」
振り返らずとも、どこか嘲るかのような声風だった。
「許さない」
「誰がだい」
「浅間くんの家族も、学校の先生も、社会も、勿論わたしも」
気付けばすたすたと足が進んでいて、二段ほど下にいる彼の胸倉を捕まえていた。むんずと引っ張って、唾を浴びせることも気にせずに、ただただ叱責するのであった。
それでさえ、彼は飄々として、
「けれど、君はぼくを咎めることができないだろうね」
ゆっくりと、湯谷の手を引きはがし、ぴしっと立った。同じ目線の高さでも、まだ腰を抜かしてしまいそうなほどに大きく感じられた。それでも「なんで」と高圧的に問うてみる。すると、簡単なことだよ、と口元に手を添えてくすりと笑みをこぼし、
「君がぼくを好いているからさ」
「な、なに言ってんの、このすけこまし!……いい? 浅間くんがこれからもそういうことをするって言うのなら、わたしはそれを絶対に許さない」
「へえ、じゃあなんで君はぼくのすることにいちいち口を挟むような真似をするんだい。部活に行ってたときはちょっかいばかりかけてきて、最近行かなくなってきたら、それはそれで、掃除のときには雑巾がけが甘いとか言って放課後も残らせようとするし、授業中にスマホを弄っていれば、やめるまでこっちを向いてちょっかいをかけ続ける……これがいわゆる小学生特有の好きな人に対してついつい意地悪しちゃうってやつじゃないのなら、なんだというんだい」
「なんだ、なんだそういうことか。ふふ……」
湯谷はここのところ一番の喜色満面で、
「忘れたの、わたしはこの学校じゃ有名な風紀委員長様なんだよ! なんでわたしが浅間くんに突っかかるかって、そんなの決まってるでしょ!――風紀を守るためだからだよ!……そこで、そこでとても、とてもとてもとおっても、申し訳ないんだけどね、そのキミの恋心は……」
「それは、なんでもかんでも卒なくこなしてしまう、天才で瀟洒なぼくへの、あてつけだろう」
「思いあがらないほうが身のためだよ?」
湯谷の関節がやけに雄々しく鳴る。
「ふむ……是非もなし」
〇
放課後、ふたりは駅前までやって来ていた。それは湯谷が彼を連行したに違いなかった。彼らは郊外のファミレスで夕食を済ませ、服屋と靴屋、本屋を徘徊し、今はちょうど駅前の往来を歩いていた。因みに、そこで発生した金銭は全て彼の出費だった。
けれども浅間は怒るでもなく、単に彼女に呆れているようであった。彼がこのような表情を他人に見せるのは珍しかった。人から誘いを受ければ快諾するか、丁重に断るかの二択であるからで、またこんな我儘で傍若無人さをひけらかした人間に弱みを握られたのは初めてであったからだ。しかしその弱みさえも自ずと吐露したのは、彼の阿呆さをただ淡々と認めるしかない。予定を壊され、金を払わされ、隣でおめおめと胸を張られカツカツとヒールを鳴らされ、更にスキップまでされ、それでも呆れた面持ちのなかには、確かに笑みが浮かび上がっていた。
「まあ、ほら、こんなにいい女とデートできるってので、そんな気、吹き飛ばしちゃいなよ。自分の選んだ服を可愛い娘が着てるんだよ、最高に気分がいいでしょ」
「自分で可愛いとか、そういうのどうなんだい」
「でも自分ではそう思ってて、『いやあ、わたしなんて全然』っていうのがいいの」
「一概に言えないだろ」
「え、絶対そうだよ!……まあ、熟した包容力を好む浅間くんにとっては、わからない話なのかもねえ」
「あのねえ……君はいったいぼくをどんな目で見ているんだい」
「どうだろうね、守銭奴とか言ったほうがいい?」
「十点の解答だね、そりゃ」
そうに冷たく言い放つと、少し足を速めた。湯谷はそれに必死についていこうとするも、
「あっ」
ヒールが折れてしまった。まったく、こんなもので走らせるんじゃないよ、まったく。と理不尽にも文句をこぼす。よろけた彼女のもとへと、すぐさま彼は駆け寄ってきて、ほら、と大きな背中を向けてきた。
「いやいやいや、この歳にもなっておんぶとかほんとうにあり得ないって!」
「ん、ちょうどいいじゃないか。それにすればいいよ」
「ありがと……」
湯谷はおぶられ、往来をわざとゆっくりと歩かれて、ようやく靴屋に再来した。「このっ!」と最初のうちは浅間の頭をぽかすか叩いていたが、その辺に置いて行くぞと脅されると、ぴたりと黙りこくったのだった。
底の平らなスニーカーの靴ひもを結び終えた。それは浅間の選んだものだった、グレート白の単調なデザインが、姿見に映る童顔の湯谷にはよく似合っていた。足元に転がる、片方だけヒールの折れてしまったエナメルの靴がやけにぴかぴかと主張してくるようで、なんだか自分のものではないようだった。
……服も着替えてしまおうかな。
事実、その靴に合わせて買った薄花色のワンピースに対して、そのスニーカーは少しばかり幼かった。しかし彼女の体躯や容貌とのバランスを考えると、やはり浮いてしまっているのはそのワンピースであった、きめ細やかな梨地織りの半袖で、水色のサテン生地のプリーツカートの裾がゆらゆらと揺れて定まらない。――腰を上げた。
「あれ、制服に着替えたのかい」
「うん。このスニーカーだとこのワンピースは似合わないかなって」
そう言って、背負った鞄を指さした。しかしその手はゆっくりと落ちていくと、湯谷は寂しげな面持ちで、
「あの、ごめん……。なんか色々買わせちゃって、」
浅間が財布から今日買った服や靴のレシートを取り出した。それを見て、ぞっとし、しばらくあたふたと口や視線を動かして、
「あの、月千円払いでいいですか……」
「君はいったいこの支払いに何年かけようって気でいるんだ」
「だって、だって!……最近色々あって金欠で……もともとお金もそんなにないだろうし、なんか腹立たしかった浅間くんを困らせられると思ったら、がんがん買い物しちゃってて……」
「ふうん、さいですか」
「ほんっとうにごめんなさい――!」
頭を深々と下げ、腰が直角に折れ、それは見事な謝罪であった。それに浅間はにかんで、目を瞑り俯いた面を覗き込んで、甘い声で囁いた。
「……なあんて、冗談さ。ねえ、あれだけ自分は可愛いとか言ってたんだから、もっと自信もちなよ。いい女なら、最後まで男を楽しませなくっちゃならない。迷いがある。そこを男に勘づかせてしまったら、なにもかもおじゃんだよ。男なんて単純なんだから、そこれこそいい女にだったら簡単に財布の紐をゆるめる、見栄を張ってしまう、そして出された金に感謝の言葉と笑顔を添えるだけで、また金を落としたいと思ってしまう。――尤も、可愛い女の子を侍らせて往来を練り歩くだけでも気分上々になるようなバカなんだから。だから、今回はくらい、見逃すよ」
ところで付かぬことを訊くけど、と浅間は不敵に笑んで、
「援交をどう思う」
「それは、」しばしの逡巡の末、湯谷は「よくないことだと、思うよ」とだけ言った。翳る瞳には、確かに炯々たる意志が忍んでいた。
浅間も「そうか」とにべもなく答えた。彼は湯谷の頭に手を乗せて、髪を押し撫でながら立ち上がった。その重さに、湯谷は恍惚としていた。
また、その帰り道に、浅間は湯谷に理由ひとつ訊くどころか、自ら口を開くことさえなかった。
「今日は、ありがとうね」
「ああ、それじゃあ、また明日学校で」
自分の視界から彼が消えてしまうまで、ずっと手を振っていた。――否、気付けば彼が消えてしまってからも、無心で手は振り続けられていた。携帯を見ると、ほぼ九時だった。帰ろうかと思案したと同時に、湯谷の頭にはひとつの不安が過った。
果たして、よし、と彼の帰路を辿っていくことにした。
〇
ドラマなどで目にする尾行のように、電柱に隠れながら浅間を追っていた。彼の家がどこにあるのかは知らないが、今、そこはまた殿方町であった。きっと彼の家はこの通りを抜けた先なのだろう、などと悠長な考えには、勿論至らない。
するとネオンサインを浴びて青黒くなった彼のもとへと、制服の同年代ぐらいの少女が歩いてきた。肩ぐらいまでありそうな黒髪を後ろで結い、後れ毛は汗でうなじにはりついていた。身長は平均よりも少し高く、ワイシャツは第二ボタンまで開け放ち、に日やけた鎖骨と白地の胸元を覗かせている。スカートは膝上ニ十センチをゆうに超え、ニーソには肉が少しのっていた。顔は地味げだが、丁寧な化粧が施されていてモデルなんかをやっていてもおかしくない風貌であった。それらはすべてネオンサインに照らし出されて、蠱惑的に煌めいていた。眉ほどに切りそろえられた前髪を片手で気に掛けながら、彼女はもう一方で浅間の手を取る。彼は、ただ柔らかに笑んでいた。
少女は彼の手を自分の頬に宛てがい、瞼をおろすと、唇を少しばかり尖らせた。それに、浅間が軽く腰を折り包み込むようにして、唇を押しあてた。まるで白鳥が毛づくろいをするように曲げた身のしなやかなシルエットが、湯谷の目に鮮明に映しだされた。
思わず、駆け出していた。――浅間くん――、と。
振り向いた表情とは、今の今まで目にしたことのないほどに悲しげなものだった。彼の前で手を繋いでいた少女も恐る恐るこちらを向いた。
「……どうしたのさ、こんなところで」
「どうしたもこうしたもないよ!……次にこういうことをしたらわたし、浅間くんを許さないって言ったでしょ。だから、ここにいるんだよ」
「やめてくれないか、ぼくはこれから彼女と寝るんだ」
湯谷は地団太を踏むかのように力強く歩み寄って、彼の腕を症状から引き剥がそうとするも、掴まれ、鬱血しそうなほどに握りこまれた。身の毛がよだった。
そして、哀切な面のまま、湯谷を睨む。大人が子供に向かって説教するでも、ただ乱暴に怒りをまき散らすでもなく、ただぽつねんと蒼を灯らせる瞳は、泣いてしまいそうなほど揺らめいていた。それは唯一の心のよりどころである縫いぐるみを取り上げられるでもした子供のようであった。
「君はそうやって、ぼくに抽象的な言葉をぶつけるしかできないんだね。……ほんとうに、どうしようもなく、目障りだ」
「なにそれ……」
けれども、どうすればいいのかを稚拙な少女は知らなかった。握りこぶしをつくり、歯を食いしばり、頭をグルグルと回して、なにか、御託でもいいから並べてやる――、それならば、
「わたしと、寝てよ」
また、場は凍てついた。
ちょうど、あのときの踊り場のような、寒気があった。洋楽も、喘ぎ声も、エンジン音も、油臭さも、熱も、湿気も、なにもかもがなくなってしまって、ふと自分の放った言動だけが浮かび上がってきて、なにを言っているんだろう、と血の気が引いてしまう、あの、感覚ばかりがあった。
「ふざけるなよ、」
彼は依然と湯谷の双眸をとらえたまま、
「君は、買わない。そして君のような女と、こうやって寝る趣味ももうない」
だけど、と虚ろな笑みをたたえて、
「ついてくるだけだったら、ぼくは構わないよ。ねえ歩実ちゃんだっけ?――お金は倍出す、この人が見ていても大丈夫かな」
少女がなにも言わずに首肯するのを確認し、「じゃあ行こうか」腰に手を添えて、エントランスをくぐり抜けた。
湯谷はそれを追っていった。
〇
部屋は若干の煙草の鼻をつく臭いと消臭剤の甘い香りが混合していて、気分が悪くなりそうだった。何語かも良く分からない洋楽が大音量で流れていた。ベッドの隅にはウェルカムドリンクの案内と、電話、照明・スピーカーのしぼり、電動マッサージ機、コンドームが置かれていて、洗面所にはアメニティが豊富だった。浅間は、洋楽を消して、灯も薄っすらと互いの表情の起伏が見えるぐらいにまで絞った。「おい、あんまりうろちょろしないでくれないか。興がそがれるだろう」と浅間くんに注意され、湯谷は隅にあったソファにちょこんと座って、つくねんとことを見届けることにしたのだった。
〇
「顔こっち向けて」
彼は少女を先導していた。軽く抱きしめながら、俯いていた彼女の顎を持ち上げ、自分の唇で荒れていた唇に触れた。「帰りにリップを買ってあげよう」と耳元で呟いて、強く抱きしめた。ふたりともとても落ち着いているように見えた。深呼吸が聞こえてきた。湯谷は空いた胸を宥めるのにいっぱいいっぱいだった。
「すまない、学校帰りで少し汗臭いだろうに。とりあえず、シャワーでも浴びてこようか、風呂も沸かしてある」
浅間は自分でさっさと下着一枚になり、奥へと進んでいった。ゆっくりと部屋に衣擦れを響かせながら、少女も下着だけになると、彼についていった。奥から、「綺麗な身体だね。水泳部なの」という声が聞こえてくるのを最後に、少女の後ろ手が扉を閉めた。その手は震えていた。
腰にタオルを巻いた浅間が扉を開けて、ローブ姿の笹倉を先にベッドに通した。二人の頬はこの薄暗さの中でも紅潮しているのが伺えた。目の前を二人が通過すると、ベルガモットの香りが微かに漂ってきた。こんな暗がりでは、湯谷の嗅覚と聴覚は弥が上にも鋭敏になるのだった。
ふたり距離を詰めて、ベッドに入り向かい合う。すると、彼が彼女の頭に手を置いて、自分の胸にとめた。しばらく、そのまま動く気配がなかった。
ようやく動きだしたとき、彼は古美術品に触れるかのような、そっとした手つきで髪を撫でていた。つむじから末端までを滑り、ときおり揉んだり、散したり、照明に濡らしてみたりと、その場その場で移ろう表情に、深い感銘を受けた。「ごめんよ、髪に触れるのが好きなんだ」指に巻き付け、放してみると、するりとうねって逃げていった。
彼女の唇を、そっと、舌で小突いた。その双の肉の端から端を、軽く舌で巡り、次に、唇で潰した。数度の軽い接吻のあと、彼女の上唇を甘噛みし、舌先を差し込んだ。彼女はそれを小さく吸い、それからその尺度が互いに大きくなっていく。瞬きを重ねていると、もうすでに舌の殆どが入ってしまい、その口端はお互い涎で鈍く光っていた。ひとたび、浅間が口を離すと、粘度をもった音が鳴って、舌先で小橋を描いた。それが下へ下へとひしゃげていき、落ちようとするところで――また深く舌を捻じ込んだ。
すると、舌を絡ませたまま、浅間は彼女を抱き起して、その手を少しずつ彼女の身体に這わせていった。擽ったそうに身をよじらせたり、震わせたり、くぐもった声を立てながらも、それから逃れる術を彼女は唇と指先だけで奪われていた。髪から、首筋に。肩から、わき腹に。太腿から、腰回りに、指の腹が歩いていく。それは徐々に局部的なものになり、腰からわき腹をつたって、生地ごと胸を親指で持ち上げて、残りの指で覆うように、揉み込んだ。すると彼女は、ん、と先程よりも湿っぽい息を吐き、再びキスに応じた。
……わたしはいったいなにを見ているのだろう。
彼女の思う正義だとか、道だとか、そういった指針から、浅間は逸脱し過ぎた。妬みを大量に買っても尚、あっけらかんとして奔放に生き、他の部員とは逸した輝きを放っていた。しかし三か月ほど前からはさっぱり来なくなってしまった、突然のことだった。湯谷は彼の身になにかあったのではないかと本気で心配していた。だが現実としてあったのは目も当てられない不埒者の姿であった。「もうやめて!」そう叫んでしまいたかった、そうしてしまえば鳴りやんでくれるだろうとも思った、浅間の不行跡を今すぐこの場で、自分の手で是正してやりたかった、なのに、身体は縮こまって、耳も押さえつけて、必死に瞼の中の暗闇に溶け込むのに精いっぱいだった、せめても泣いてしまわないようにと噛み続けた唇からはきっと血が滲みだしていた。
……今まで見えていなかったものが見えただけ。浅間くんはこういう人間だったんだ。
今や自分の胸のうちで蜷局を巻いた情動しか、聞こえない。けれども、五感以上のものが、――絡み合うふたりが、どことなく、うるさかった。
〇
土手には、川を伝った生臭い風が流れ込んでくる。妙に湿気ている空気が全身をべとべとに溶かすかのようであった。
草っぱらに腰を下ろして、近くのコンビニで買った氷菓を噛み砕きながら、浅間はなんでもないように言う、
「不思議だろう」
夏の大三角形を指でなぞりながら、
「一度のことで、あれだけのお金が動くんだ」
「そうだね、」
とそれだけしか言葉が出ない。自分が普段どうやって会話をしていたのかもわからない。
「そろそろ、教えてくれてもいいんじゃないの。なんでこんなことをするのかって」
「そうだねえ、」彼は顎を指で擦りながら「少し恥ずかしいんだけれど……全部言わなきゃダメかい」
「裸まで見といてあれだけど、まあ、言えるところまででいいよ」
「なんていうのかな。ぼくはほら、天才だろう、且つ瀟洒で、運動神経抜群ときた」
「はいはい、そうだね」
「そうなんだよ。自分でもついつい惚れ込んでしまうくらいにね。――だから、困った」
「頭おかしいんじゃないの」
「人の苦労も知らずにそりゃないよ。いいかい、物事の基準が高いってのは、それだけ幸せを感じにくい状態にあるということなんだよ。だからぼくの声は、まさに鶴の一声さ。なんだって上手くいく。だから苦労せずともガールフレンドなんかできるし、セックスもまた然りさ」
「じゃあそうすればいいじゃん。お金掛からないのに」
「ぼくはそういったところはあまり器用じゃなくってね。ついつい、甘い言葉ばかり口にするものだから、恨みを買ってしまうんだよ。だからそういうのはきっぱりやめたんだ、ああっ、ぼくってば心も美しいんだね」
「さっきっから意味不明……」
「まあ、あれだよ、全てが満たされたとき、それでも欲するものこそ云々ってあるだろう。それだよ、それ」
「それが、援交なの」
「違うよ、なんなんだ、さっきっから、君こそ話を聞いてないんじゃないか。――いいかい。いい恋愛をするために、一種、ぼくはこんなことをしているんだよ」
「なにそれ」
そう言って川の向こう岸を見やる。するとすぐさまそのそっぽを向いた顔を、ぐいと引き戻され、ついでにふにふにと弄ばれる。
「なに、するの」
彼はくすくすと無邪気に顔を綻ばして、
「総括すると君みたいのが、存外悪くないって、そういう話なんだけどね」
と不器用に俯いた。
ビバレッジ・ビジネス(改定版) 羽衣石ゐお @tomoyo1567
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